小説『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』フリオ・コルタサル(著)  幻想的に描かれる、紛れもない現実!!

 

 

 

代々受け継がれて来た家で、二人静かに暮らす兄妹。広い家の掃除を午前中に終わらせれば、後はゆっくりとした時間の中、兄はフランス文学を読み、妹は編み物に熱中していた。そんなある日、家の中に侵入者が居る事を感じ、、、

 

 

 

 

著者はフリオ・コルタサル
ベルギー生まれのアルゼンチン人。
フランス留学を契機として、主にパリに在住していた。
ラテンアメリカ文学の系統。
主な翻訳書に
『通りすがりの男』
『遊戯の終わり』
『秘密の武器』
『悪魔の涎、追い求める男 他八篇』等がある。

 

 

光文社の古典新訳文庫。

このシリーズは、今まで知らなかった名作、傑作の数々をお手軽に発掘する事が出来る、

個人的に注目度の高いレーベルです。

 

このフリオ・コルタサルという作家も、
私が知らないだけで、ラテンアメリカ文学界隈では結構有名な様です。

本作『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』は、
著者が発表した最初期の短篇集。

いわゆる、マジックリアリズムと言われる系統の作品集です。

 

マジックリアリズムをWikipediaを参考にして簡単に説明すると、

日常(realism)と非日常(magic)が融合した芸術作品

の事を言うそうです。

より簡単に言うと、

幻想的な雰囲気で、
日常の出来事を描写している感じです。

 

ごく普通の事を描写しているのに、
何処か、超現実的な事柄が混じっている、
そんな感じの作品です。

ファンタジーとまでは言いませんが、
ジャンル的には親和性があると思います。

 

本作でも、

日常がズルリと動く瞬間があり、
それが独特の読み味を成しています。

 

 

こういう作品は確実に、
読者の向き不向きがあると思います。

巻頭作「奪われた家」の冒頭の一部分を抜粋してみます。

「家のせいで二人とも結婚できないのではないかと思われることすらあったほどで、(中略)二人とも四十代に差しかかり曾祖父母の代からここに家を構えた我が一族も、今や物静かで素朴な夫婦のようになったこの兄妹を最後に、やむなく途絶えてしまうのだと内心観念していた。」(p.10~11より抜粋)

 

どうでしょうか?

静かで、諦念と情緒溢れる感じがしますが、

その「奪われた家」という題名から、
この生活が奪われてしまうと予感されます。

この感じを嗅ぎ取って、
「お!?」と思われた方は是非読んで頂きたいです。

小説部分は全部で200ページ弱ですが、

それでもズッシリとした、
不思議な感覚に溢れた読み応えのある短篇集となっています。

ちょっと知らなかった、面白い小説を読みたい、
そういう方にも是非読んで欲しい、
『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』はそういう作品集です。

 

 

 

  • 『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』のポイント

ラテンアメリカ文学お得意(?)のマジックリアリズム

日常の中に紛れる、不安、恐怖が形となって現われる感覚

短篇世界の中に広がる、不思議な世界観

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 喪失の物語

ラテンアメリカ文学のマジックリアリズムである、
本作品集『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』。

収録作に共通する印象として、
「喪失」の物語であると言えます。

今まであったものが奪われたり、
無くしたり、
終わってしまったり、

そういった物哀しさ、
「もののあわれ」をもよおす様な読み味があります。

一つ一つの作品が持つ情感、

それが持つ無常観、

読み易い短篇という形式でありながら、
胃の中に残る様な感覚がある、

読み応え充分の作品集です。

 

  • 収録作品解説

では、簡単に収録作品を解説してみたいと思います。

全8篇の短篇集です。

 

奪われた家
何者にも煩わされず、静かに暮らす。
派手さは無くとも、それは幸せな暮らしだと思います。

しかし、そんなルーティンと化した草食系の幸せは、
突発的な出来事で脆くも瓦解します。

強盗なのか、
親戚が侵入して来たのか、
金銭的な困窮なのか、

その原因は説明されなくとも、幸せが永遠には続かない、
外因により無理矢理にシャットダウンさせられる無常観が染み入ります

 

パリへ発った婦人宛ての手紙
慣れない環境で体調が悪くなるのはよくある事。

しかし、ウサギを吐くという発想でそれを描く、
この突飛さが面白い作品です。

しかし、その苦境を誰にも知らせず、
だが、無駄な抵抗と知りつつ、その思いが破綻してしまう様子がまた、物哀しい感じがします。

さて、
「パリへ発った」のは男性で、女性目線の話なのに、何故題名は「婦人宛て」となっているのか?

解説によりますと、
著者自身が、パリへ発った知人女性の家で窮屈な思いをしたらしく、
本作はその様子を描いた作品と言えるそうです。

つまり、「この作品自体が、その知人女性に宛てた手紙」という訳なのです。

 

遥かな女 ――アリーナ・レエスの日記
回文や文字遊びを翻訳するのは、ほぼ不可能、
その苦境が読み取れる作品です。

しかし、その内容の曰わく言い難い雰囲気は充分伝わります。

自分では無い人間の体験を、
まるで我が事の様に感じるアリーナが、

遂にその「他人の自分」と出会い、
そして訣別するまでの物語。

ラストの、視点が入れ替わる瞬間に目眩をもよおします。

 

バス
自分に不意に向けられる悪意の恐怖。

自分の過失、
それが、大した事で無くとも、
マウントを取れると思った瞬間に、人はこれでもかと叩いて来る
この不条理とも言える大衆の悪意を描いています。

 

偏頭痛
幸せなルーティンワークが崩壊し、それに対応出来ずに為すがままの崩壊に屈して行く者の物語。

体調の悪さを、
それを解消する時に頓服する薬の名前で表現する転倒ぶりが奇妙な面白さを醸し出しています。

崩壊した事態を打開しようとせず、
あくまでルーティンワークを続けようとする、
この思考停止ぶりが、破滅を規定事項とした物哀しさを表します

 

キルケ
ホメロス作の『オデュッセイア』にて有名なエピソードに、
「キルケの豚」があります。
人間の男性をたぶらかし、飽きたら動物に変える姦婦ですが、
本作のデリアもそのイメージ。

婚約者二人に先立たれ、周りの評判が悪い女性、
そのデリアにマリオは惚れるのですが、

ラストの、
マリオの想いの全てを転倒させる展開にグラっと来ますが、
よくよく読み返して見ると、
それとなくサインをほのめかしています

人生においても、
こういうサインを見逃すと、とんでもない事に見舞われる、
よくよく肝に銘じて、注意深く生きるべきなのです。

 

天国の扉
著者自身が、特に気に入っていたと言われる作品。

語り手である「私」ことマルセロと、
妻に先立たれたマウロは、
盛り場で二人して、その死んだ女性セリーナの姿を目撃します。

ポイントは、
マルセロ目線での語りになっている事。
マルセロは、セリーナが自分を殺してマウロと生きていたと推測しますが、
それはあくまで第三者目線。

実際にはセリーナがマウロに対しどう思っていたのか?
盛り場からセリーナを引き離したマウロは後悔していたのか?
それは分かりません。

しかし、それでも、
故人を偲ぶマウロとマルセロは共に、
盛り場で、まるで生きている時より自由になったとも見られるセリーナの姿を幻視します。
その事実だけは、二人にとっては確実な現実なのです。

猥雑な盛り場こそ、セリーナの生きる場所だったのか?
静かな生活に馴染めず、死んで、まるで天国に帰ったかの様に盛り場に戻ったのか?

事実はどうなのか?
故人の思いは何か?

それが分からなくとも、
それでも、幻想的な雰囲気ながら、
目の前の現実をどう解釈するかはその人次第だという苛酷な現実を突き付けてくる作品です。

 

動物寓話集
夏の日に親戚の家に行く。
このシチュエーションは誰もが体験のある事。
その、親戚宅の微妙な人間関係において、
自分の好きな親戚に肩入れする事も、これまたよくある事です。

「虎」とは、
珍奇な死や、暴力の象徴、
果たして何を意味しているのか?
それともリアルな「虎」そのものなのか?

家の中を巡回する、正体不明の驚異「虎」
この「虎」の行動に左右される生活は、まるでアリの飼育箱の様に、閉鎖された窮屈な空間を思わせますが、
しかし、対策が確立され、ルーティンワークと化した生活の中では、それさえも日常なのが奇妙な面白さがあります。

このルーティンワークを壊すのは、外から来たイザベルであり、
日常化した驚異を本来の驚異へと返す事で、
停滞した現状を打破してしまうのですね。

 

 

解説によりますと、
作品には、作者自身の不安、悩み、驚異が反映されているのだと分かります。

しかし、
そんな作品成立の背景を敢えて無視して、
文学としての面白さに注目する事もまた、作品の楽しみ方だと言っています。

 

この幻想的な作品をどう受け止めるかは人それぞれ。

成立過程を読み解くのもいいし、
雰囲気に浸るのもまた読者の自由です。

そういう懐の広さを持った読みが出来る、
『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』は、そういう作品集なのです。

 

 

書籍の2018年紹介作品の一覧をコチラのページにてまとめています

 

 

 


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