映画『ジョーカー』感想  格差社会が産んだモンスター!?狂気の笑いを届ける道化師!!

1970年代、ゴッサムシティ。
貧富の差が拡大し、ストの影響でゴミが回収されず、街は、汚辱に塗れていた。
この街でピエロ派遣会社に勤めるアーサー。彼は、誰にも顧みられず、持病の「笑い病」の発作に苦しみ、引き籠もりがちの母と共に暮らしていた。
日々、鬱屈を抱えながらも、アーサーには夢があった。それは、コメディアンに成る事である、、、

 

 

 

 

監督はトッド・フィリップス
監督作に、
『全身ハードコア GGアリン』(1994)
『ロード・トリップ』(2000)
『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』(2009)
『デュー・デート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断』(2010)
『ウォー・ドッグス』(2017)等がある。

 

出演は、
アーサー・フレック/ジョーカー:ホアキン・フェニックス
マレー・フランクリン:ロバート・デ・ニーロ
ソフィー・デュモンド:ザジー・ビーツ
ペニー・フレック:フランセス・コンロイ
トーマス・ウェイン:ブレット・カレン
ブルース・ウェイン:ダンテ・ペレイラ=オルソン 他

 

 

アメコミ「バットマン」における、
最悪の敵役、ジョーカー。

数々の映画版『バットマン』が制作される中、
ジョーカーを演じる役者も個性派揃いで、
他の悪役と一線を画すインパクトを与えてきました。

『バットマン』(1989)のジャック・ニコルソン
ダークナイト』(2008)のヒース・レジャー
『スーサイド・スクワッド』(2016)のジャレッド・レト

いずれも、
その演技が高い評価を受けてきました。

 

そして、今回「ジョーカー」を演じるのは、
ホアキン・フェニックス

このホアキンも、
現代随一の個性派俳優として名を馳せています。

『誘う女』(1995)
『グラディエーター』(2000)
『サイン』(2002)
『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(2005)
『容疑者、ホアキン・フェニックス』(2010)
『ザ・マスター』(2012)
『エヴァの告白』(2013)
『her/世界でひとつの彼女』(2013)
『インヒアレント・ヴァイス』(2014)
ゴールデン・リバー』(2018)等…

どの作品でも、
一目で、異様、異常さを、観客に感じさせる存在感を放っていました。

 

元々、異様な役者・ホアキン・フェニックスが、
異常者の極みである、「ジョーカー」を演じる

これで、期待するなという方が、無理。

ハードルは既に、
観る前から、上がりに上がっていました。

そんな本作『ジョーカー』は、
一体どんな映画だったのでしょう?

 

大傑作、きました。

 

さぁ、何を語るべきか?

 

先ず、「ジョーカー」は、
「バットマン」に出演する敵役。

本作は、
その「ジョーカー」のオリジンストーリー、
つまり、
アーサー・フレックという普通の人物が、
如何にして、ジョーカーに成るのか、という話です。

このジョーカーのオリジンストーリーとは、
原作のアメコミでも語られた事の無いネタだそうで、

ある程度、自由に作られています。

なので本作、

原作「バットマン」を全く知らなくても、
全く問題無く楽しめる作りになっています。

 

勿論、知っていれば、
「あ、このキャラクターを、こう使ったのか」
というネタが解るというポイントがありますが、
それ自体は、映画の面白さを左右するものでは、無いのです。

 

本作の監督トッド・フィリップスは、
敢えて、いわゆる、アメコミ映画を撮ってはいないと言っています。

監督が言うには、
「自分は、人物を描く映画に興味がある」との事です。

一方、現在は、もっと分かり易い派手な映画が好まれている。

しかし、
そういう「アメコミ映画」というカテゴリーの中において、
キャラクターを掘り下げる事で、
人物中心の作品が作れるのではないのか?

そう思い、
『ジョーカー』を撮影したのです。

 

そこで描かれる人物とは何か?

本作は、

社会の底辺で藻掻き苦しむ人物が、
更に踏みつけにされ、
底を突き破ってしまう話なのです。

 

生きづらい世の中で、
一人の男が、孤独に哀しみに苛まれている様子が、
延々と描写されます。

暗い、
観ているだけで、苦しい、

デッドプールなら、
「DCユニバースは暗すぎる」と愚痴る事間違い無しです。

 

しかし、
映画のプロモーションで劇団ひとりが言っていた様に、

「こんなに無茶苦茶なヤツでも、何処か、感情移入してしまう」

 

という部分もまた、
観る人の心の中にあるのです。

 

アーサー・フレックを演じている、ホアキン・フェニックスも言います。

「彼(アーサー)の憂鬱や不満は理解出来るけれど、彼の戦い方は受け入れられない」と。

この発言こそ、
本作のキモの一つ。

世間に惨めに爪弾きにされるアーサーに同情、感情移入しつつも、
一方で、
世間に対する反撃を開始するジョーカーの倫理観、道徳観を嫌悪する。

 

この二律背反する感情の揺さぶり、
観客を巻き込んだ、この感情こそが、
『ジョーカー』の醍醐味なのです。

 

アーサー・フレックは、いつから、ジョーカーになったのか?

それは、明確には示されません。

観客自身が、
映画を鑑賞して、判断すべき事なのです。

しかし、
人生において、
人格が規定されるのは、
「何か、特別な出来事が原因」という、明確な答えがある訳ではありません

それは、本作『ジョーカー』でもそうです。

何処までアーサーに感情移入し、
何処までジョーカーに嫌悪感を抱くのか?

それは、全て、観客次第なのです。

 

 

  • 『ジョーカー』のポイント

徹底的に社会に潰される人物の悲哀

ジョーカーへと変わるアーサー・フレック、その過程

現代社会の同時代性を反映する作品

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 『ジョーカー』を読み解く、楽しむポイント

まさかの大傑作、『ジョーカー』。

ホアキン・フェニックスが「ジョーカー」を演じるという、
始まる前から成功が約束されている状況で、

その、高いハードルを、
見事、超えてきました

 

さて、そんな本作を楽しむ(?)上で注目したい点が、
個人的には3つあります。

先ずは、
1:アーサーから、ジョーカーへと成る過程の、観客の感情移入

これは、前語りにて、先程述べた通りです。

もう二つは、

2:同時代性の反映 と、

3:アーサーの「笑い病」です。

以下、
この二点に着目して、
解説してみたいと思います。

 

  • 同時代性の反映

本作『ジョーカー』は、
そのテーマ性が、同時代性を反映しています

 

2008年に公開された映画『ダークナイト』では、
「混沌の使者」と自らを称するジョーカーが、

一般人には、理不尽で、理解不能な恐怖、
即ち、
2000年代に蔓延していたテロの恐怖を象徴していました

そして、
理不尽な選択、理不尽な暴力、
それに抗う形で、バットマンがジョーカーに対する物語であり、

そこに、
『ダークナイト』には、人の良心に対する希望が描かれていました。

その『ダークナイト』について語ったページはコチラ

 

2000年代のアメリカそして、
世界の同時代性を反映した『ダークナイト』と同じく、

本作『ジョーカー』も、
現代の、世界が抱える社会の問題をあぶり出し、
描いた作品と言えます。

それは、圧倒的な格差社会です。

 

富の不均衡がもたらす、金銭面での困窮は、
そのまま、
上級国民が、下層民を喰いモノにする、
「幸せの搾取」へと繋がっています。

 

冒頭、ゴッサムシティが陥っている状況が、端的に描かれます。

衛生局はストライキを敢行し、
街は、ゴミが溢れた状態となっています。

政治は腐敗し、
街の少年ギャングは徒党を組み、アーサーに暴行を振るいます。

就職率は低下、
市の福祉の予算も削られ、
弱き者が、更に、その不況の波を被るのです。

 

そんな折り、
現在の状況を打破すると言われる人物が現われます。

それが、トーマス・ウェイン。
ゴッサムシティの実業家であり、慈善家。
次期市長選の出馬を決意したと言われていますが、しかし、

地下鉄で上級国民(トーマス・ウェインの証券会社勤務)3人を殺害した「ピエロ」を、
「仮面で身元を隠す臆病者」と揶揄した事から、
市民の反感を買います。

 

被害者よりむしろ、
加害者を賞揚する社会的風潮は、
既に、ゴッサムシティの市民の倫理観が、臨界点に達している事の象徴と言えますが、

一方で、
何故、市民が、上級国民を殺害された事に溜飲を下げたのか
その事を理解していないトーマス・ウェインにもまた、問題があります。

 

中盤、アーサーが、
トーマス・ウェイン他、上級国民が集まり、映画を観ている劇場に侵入するシーンがあります。

外では、
街の「篤志家」達のパーティーを批判する、
ピエロの面を被ったデモ隊の群れ。

そんな外の喧噪など何処吹く風と言わんばかりに、
揃いも揃って黒のスーツで身を固める上級国民達が観るのは、
チャーリー・チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936)です。

 

モダン・タイムス』は、
資本主義の歯車となり、徹底的に使い捨てにされ、
個人の尊厳が社会に潰される様を描いた作品です。

チャップリンの作品らしく、
その演出は喜劇調ですが、
内容は、シビアな現実を表しており、
本作のテーマと通底するものがあります。

無様な労働者を笑い飛ばす金持ちの構図。

 

アーサーは、劇場のトイレでトーマス・ウェインに話しかけます。

しかし、
前日、ウェイン宅に押しかけた時、
不審者と認識された為、

トーマスは、
まるでゴキブリを潰すかの如く、
アーサーの言い分を聞かず、殴り、叩き伏せます。

確かに、トーマスの目線からすると、
アーサーは、息子に危害を加えようとした不審者でしょう。

しかし、
相手の立場、言い分、物事の経緯をすっ飛ばして、
結果のみで状況を判断する、
その高圧的な態度こそが、
相手との相互理解をも阻んでいます

アーサーにとっては、
自分の希望が、
無碍に叩き潰されているのです。

 

アメリカでは、今年、
就職率が、過去最低を記録したそうです。

日本でも、
仕事の有無は、自己責任論へと帰結され、
また、その一方で、
人手不足は、
海外労働者を、安価に使い捨てにする「技能実習生」や「留学生」に頼ろうとしています。

上級国民は、
下層民を喰いモノしておきながら、まるで、その場に居ないかの様に、
下層民を無視し、目に付いたら虫の如くに追い払います。

社会的な力の強い者達が作る、
圧倒的な、相互理解の拒否の壁は、

虐げられた者の不満を拡大させて行くのです。

 

本作において、
ゴッサムシティは、その臨界点を突破し、
その象徴として祭り上げられるのが、

「ピエロの殺人者」=「ジョーカー」となりますが、

何もこの事は、
単なる創作とは言えない状況となっています。

香港では、御上の推進する管理社会に対するデモが続き、

日本でも、
過去の奴隷労働者である「徴用工」が、
今になって国際的な問題を引き起こしています。

何時、虐げられた者の不満が爆発し、
本作で描かれた様な、大規模な暴動に発展、
それが、
世界的な連鎖反応を起こしてもおかしくない

『ジョーカー』は、
正に、今現在のライブ感溢れる、きな臭い雰囲気を反映している、
同時代性を持った社会を反映しているからこそ、

より、アーサー・フレックに共感出来るのです。

 

  • アーサー・フレックというキャラクター

本作『ジョーカー』のアーサー・フレックは、
複雑な人物です。

しかし、我々観客は、
徹底的に社会に虐げられる彼の状況を観るにつけ、
アーサーに感情移入し、

その、人物が何たるか、
理解する事は、案外と、難しくはありません。

 

ガキや、イキッた若者に足蹴にされ、
失職し、
社会保障の打ち切りで薬も買えず、
恋人との逢瀬は妄想で、
愛する母は、実はDV狂人で、
助けを求めた相手には殴られ、
コメディアンになるという夢は、憧れの人物に笑い飛ばされる。

 

何度も、何度も、踏みつけにされる事で、
アーサーは底を抜けてしまいます。

何時からか、
どん底の地面を割り、
その反対側に転変してしまうのです。

相手が自分を踏みつければ踏みつける程、
同じか、それ以上の力で、
相手を踏みつけ返す事を、ごく普通に行うようになるのです。
まるで、鏡像のように

 

自分の持つ害意の、
更に負の映し鏡
それが、ジョーカーであり、
故に、恐ろしい存在である所以なのです。

 

  • 「笑い病」と、笑いと涙

上の如く、
感情面にフォーカスすれば、解り易いアーサーとジョーカーですが、
もう一つ、
彼には興味深い特徴があります。

それが、
「笑い病」であり、
これに纏わるストーリー展開もまた、
本作のテーマの一つとなっています。

 

過去の、映画のジョーカーも、
「笑い」には特徴があります。

『バットマン』(ジャック・ニコルソン)は、
薬物の液体に浸かった為に、
笑顔みたいな顔が固着してしまった面相。

『ダークナイト』(ヒース・レジャー)は、
笑った様に見える口の傷が印象的で、
しかも、その傷が出来た原因のエピソードを語る時、
それが毎回違うという所に、
ジョーカーの混沌振りを象徴していました。

『スーサイド・スクワッド』(ジャレッド・レト)は、
奇抜なファッションアイコンと呼応するかの如く、
手に、笑顔のタトゥーを入れて、笑える場面で無くても「笑う」事が出来るという存在でした。

 

そして本作
『ジョーカー』(ホアキン・フェニックス)では、
「笑い病」という発作という設定がなされているのです。

本作を観ると分かりますが、

実は、アーサー、
「笑い病」の発作が出るのは、
過度なストレス、プレッシャー、不安に苛まれた時なのです。

ソーシャルワーカーとの面談の直前、
バスで、子供の母親に拒絶された時、
職場で、上司に呼ばれた時、
電車で、女性が絡まれているのを見た時、
スタンダップコメディの舞台に立った時、

全く、笑いとは無関係な時に、
むしろ、奇妙な笑い声を上げてしまうのです。

それは、何故か?

 

「笑顔」は、
明確に、コミュニケーション手段となります。

自分が笑顔を作る事で、
相手に害意が無い事を示し、
友好的な関係を気付く一助となるのです。

しかし、
それは、明確にコミュニケーションが出来る相手に限られた手段であり、

相手が動物だった場合、
もしくは、
コミュ症だった場合には、通用しません。

むしろ、
笑顔の意味を、意図的に履き違え、
媚びへつらっていると判断し、嫌悪感を抱いたり、
自分が上だと判断し、マウントをとって来るのですね。

 

さて、アーサー・フレックですが、
母親のペニー曰わく、

アーサーはまるで、いつもハッピーであるかの様に、
泣きもせず、笑っていたとの事。

しかしそれは、
字面通りの、「笑顔」だったのでしょうか?

むしろ、母親や、義父との関係を円滑にするための「笑い」だったと考えるべきだと思われます。

 

しかし義父は、
それを媚びへつらいの笑いと解釈し、
暴力でもって、アーサーを泣かせて、
自分が上だというマウントをとろうとした。

しかし、
「泣かない少年」であったアーサーが、泣く事が無かった為、
DVはエスカレート、
その為、
脳に障害を残すほどの暴力にまで発展したと考えられます。

 

暴力を子供に振るう夫を、
母が黙認する。

実際に、最近起こった事件故に、
このエピソードの時は、
流石に平静ではいられない気分でした。

 

こうして「笑い」が、暴力により、悲惨な状況と結び付く事が「定着」してしまった為に、
アーサーは、
泣くような哀しく、辛い場面において、
発作的に笑いが出てしまう様になったと思われます。

 

そうして観ると、
作中、アーサーは、真に笑う事はおろか、
涙を流すことも無い事に気付きます。
(実は、真に笑うシーンはありますが、それは後ほど)

 

代わりに流れるのは、

冒頭、ガキからストンピングを喰らった後、
胸の花から液体が流れたり、

ピエロの化粧の、
目元が垂れたり、

全て、実際の涙では無く、
代替表現となっているのです。

 

笑いの方を見てみると、

スタンダップコメディアンになりたいアーサーは、

他の演者のネタを見ながら、
メモを取ったりしています。
「下ネタは、いつもウケる」とかですね。

つまり、
頭では、どんなものが「笑い」か理解しており、
ちゃんと、「笑い」「泣く」という感情も、
アーサーは持っているのです。
それが例え、代替表現だとしても。

 

しかし、実際のアーサーはどうか?

人を笑わせる「コメディアン」になりたいハズが、
実際のネタは、全く笑えません。

捻りも何も無く、
自虐が過ぎています。

もっとも、
「全く笑えない」という事をイジる事で、
他人のマレー・フランクリンは、
アーサーを「笑いもの」にしていましたが。

 

人をハッピーにさせるハズが、
自分を痛めつける様な行為だった舞台。

アーサーの「笑い」には、そういう痛みが伴っています。

楽器店は、看板を壊され踏んだり蹴ったり。

小児病棟は、拳銃を見つけてドン引きしていました。

結局アーサーは、
人を笑わせようと奮闘すれど、
しかし、
哀しい時に笑ってしまう「笑い病」の自分の身体的な障害に引きずられるが如くに、

「笑い」の場面で、他人にも「哀しみ」を提供してしまっているのです。

 

この転倒した状況は、
更に反転します。

人が、
自分を踏みつけにして(ネタにして)、
気分が良くなる(笑う)と言うのなら、

アーサーは、
自分の「笑い病」=「哀しみ」を、
相手にも転化させるのです。

 

つまり、
コメディアンとして、笑いを他人に届けるハズが、

自分が被った苦しみ、哀しみを、相手に届けているのです。

それは、
世間に踏みつけにされた、アーサーの、リベンジ

この社会に対する復讐、
社会という舞台で、
自分の笑い=

相手の苦しみを届けるというパフォーマーの事を、
アーサー自身は、

ジョーカー(joker:冗談屋)と言っているのです。

 

以上。

では、私が着目する3点をまとめて、
本作『ジョーカー』の事を語ると、こんな感じです。

 

格差が広がった社会、
富裕層(上級国民)と下層民が明確に区別され、
金銭面での差が、
そのまま、身分の差となっている街、ゴッサムシティ。

市の公共機関は機能不全を起こし、
下層民のフラストレーションは臨界点を目前としていた。

そんなゴッサムで、
更に、踏みつけにされる存在が、アーサー・フレックであった。

彼は、
ガキどもに足蹴にされ、
仕事を首になり、
福祉を打ち切られ、
信じていた母が妄想狂で、
恋人がいたと思っていたら、それは自分の妄想であり、
スタンダップコメディアンになるという夢さえも、失ってしまった。

ゴッサムで、
格差社会の最下層に位置する、アーサー・フレックは「笑い病」であった。

アーサーは、過度のストレス、哀しみ、苦しみなどの負の感情で、
発作的に「笑い」を起こしてしまう

コメディアンになって、
世間に笑いを届けたかったアーサー、

しかし、世間は、
アーサーを逆に「笑わせ」るのだ。

ならば、
世間に対して、コメディアンになろう、

自分と同じに、世間も「笑わせて」やろう

自分が、「笑う」時と同じ気持ちを届けるコメディアン、
その演目は、無意味な暴力と叛逆、
それが「ジョーカー」なのです。

 

作品中、
妄想以外で、アーサーが真に笑顔を見せるシーン。

それは、
ゴッサムの街が、騒乱の波にさらわれているのを、
パトカーの中から眺めている場面です。

ジョーカーのTVのショーを観た、
ゴッサムの下層民が、
皆、「笑って」くれているのを見て、
アーサーは、嬉しいのですね。

 

そんなジョーカーを、
我々は、倫理的に、道徳的には、受け入れられません。

しかし、
アーサーの苦悩は、手に取るように分かる。

我々観客は、拒絶しつつも、
ジョーカーに、共感せざると得ないのです。

 

  • 登場人物補足と、アーサーの苦悩

本作で、
アーサーの「妄想の中の」恋人・ソフィー・デュモンドを演じるのは、
ザジー・ビーツ

デッドプール2』(2018)では、
ラッキーマンばりに、「超運が良い」という能力を駆使する「ドミノ」を演じていました。

 

作中、
アーサーは、トーマス・ウェインに殴られ、
母の言葉が真実かどうか、
そのウラを取ります。

果たして、母・ペニー・フレックの言葉は、欺瞞でした。

ペニーも、アーサーと同じく、
妄想を、自己の悲惨な現実を生きる糧にしているタイプだったのです。

しかし、
その妄想の中では、
アーサーは、都合の良い「アイテム」であり、
ペニーの妄想を担保する存在でしか無く、
その為に、アーサーは「笑い病」になったと言っても過言ではありませんでした。

故に、アーサーは、
ペニーの欺瞞(妄想)を暴き、終わらせるのですが、
それは同時に、
自分の欺瞞(妄想)をも終わらせる、

つまり、
恋人が、妄想でしか無いと、自ら気付いてしまうのですね。

 

マレー・フランクリンを演じるのは、ロバート・デ・ニーロ

私は本作を観ながら思ったのは、
『マシニスト』(2004)的な雰囲気の、
『タクシードライバー』(1976)だな、という事です。

そう思っている所に、
まさかのロバート・デ・ニーロ登場で、
「あ、間違ってなかった」と確信しました。

そんな本作、
確かに、『タクシードライバー』の影響を受けているそうですが、
それよりむしろ、
同じ、ロバート・デ・ニーロ主演の映画『キング・オブ・コメディ』(1982)の影響が大きいそうです。

私は未見ですが、
『キング・オブ・コメディ』は、
コメディ番組の司会者を誘拐するコメディアンの話らしいので、
本作のクライマックスは、
正しく、『キング・オブ・コメディ』の影響を受けているのでしょう。

 

因みに、『マシニスト』の主演は、クリスチャン・ベール。

「ダークナイト」三部作にて、
ブルース・ウェイン/バットマンを演じた役者です。

『マシニスト』も、
精神に傷を負った孤独なガリガリの男の話なので、
少なからず、本作に影響を与えていると思われます。

 

『モダン・タイムス』
『タクシードライバー』
『キング・オブ・コメディ』
『マシニスト』

『ジョーカー』を面白いと感じたら、
これらの作品もチェックしてみると、
より一層、本作を楽しめるものと思われます。

 

 

期待に違わぬ、大傑作だった、『ジョーカー』。

何故、本作は面白いのか?

それは、
「ジョーカー」は、明日の自分かもしれず、
そして、
ゴッサムの姿は、
明日の世界の様子かもしれないからです。

拒絶しつつも、
誰もが、自分の中に、「ジョーカー」が居る事を意識せざるを得ない

自らの、暗黒面と対面するからこそ、
本作は、傑作たり得たのです。

 

 

『ジョーカー』とは、結末が好対照な作品、『ダークナイト』について語ったページはコチラ

 

 

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