東京湾アクアライン近くにて突如水蒸気爆発が確認される。当初、政府は海底火山の噴火か未確認の熱噴出口の爆発であると考え対応を検討していたが、ネットやTVの映像により巨大生物であると判明、想定外の事態に直面する、、、
監督は庵野秀明。
『ラブ&ポップ』『式日』『キューティーハニー』という実写映画を監督しているが、
やはりアニメーションの
『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズが有名だろう。
他、『ふしぎの海のナディア』『彼氏彼女の事情』がある。
特技監督に樋口真嗣。
主演の矢口蘭堂役に長谷川博己。
他、竹野内豊、石原さとみ、高良健吾、松尾輸、大杉漣、柄本明、渡辺哲、余貴美子、國村隼、平泉成、塚本晋也、市川実日子、高橋一生、野村萬斎、等、出演者は豪華且つ多数に及ぶ。
12年ぶりに作られたゴジラシリーズ。
監督に『新世紀エヴァンゲリオン』で有名な庵野秀明を迎え、乾坤一擲の勝負に挑んだ。
結果は、2016~17年の日本映画賞を席巻、特に
第40回日本アカデミー賞では主要賞を総ナメにした。
怪獣映画が何故?と観てない人は思う。
しかし、この映画こそ、観れば分かる面白さ。
2016年、その当時に未だに漂っていた日本の閉塞感を見事に表していた。
所謂、
時代を表す作品
として評価された面が大きい。
社会的な面を描いているのもさる事ながら、本作の面白さはそれだけでは無い。
疾走するかの如きテンポ感、
丁々発止の言葉のやり取り、
事態に対処せんとする多数の人間の奮闘、
見所が沢山ある。
そして
圧倒的存在感の「ゴジラ」
映画を観て、絶望に震えるとは正にこの事。
映画好きは必見。
そうで無くとも必見。
むしろ、全ての日本人はこの作品を観ると何か感じる所がある。
そう思わせる傑作である。
以下ネタバレあり
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映画公開前夜
ハリウッド版『GODZILLA』(2014)のヒットを受け、制作決定を発表した本作。
監督は庵野秀明、特技監督として樋口真嗣。
題名は『シン・ゴジラ』と次々に情報が解禁されて行くにつれて、期待半分、不安半分であった。
ご多分に漏れず、私も『エヴァ』好きである。
だから、庵野監督には期待したいが、直前の作品『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の絶望ぶりから、監督は復活しているのか?
そして、監督の過去の実写作品を考えると、実写の『シン・ゴジラ』に期待できるのか?
思うところがあった。
また、特技監督の樋口真嗣は映画版『進撃の巨人』の酷評の記憶も生々しく、大丈夫なのだろうかと不安であった。
それでも、それでも、面白いかも知れない。
そう自分に言い聞かせながら公開初日に観に行ったのだ。
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劇場にて
私の観る回は2本目。
なので前回上映中の扉の前、ロビーで待っていた。
すると、見知らぬ男性から声をかけられた。
その人はどうやら遠方より来たらしく、久しぶりの「ゴジラ映画」に興奮しているご様子。
適当に相手をしてあしらっていると、その人は別の人に話しかけ、私にしたのと同じ話をする始末。
少し落ち着けや。
そうこうしていると、あの音楽が聞こえてきた。
ゴジラ映画の曲の一つ、佐竹雅昭が入場テーマにしていたあの音楽、
「チャチャチャチャチャーチャーチャーチャー」ってやつだ。
「しまった!!」
と、私は思ったね。
時間的にはクライマックス。
その盛り上がる場面でこの音楽を差し挟むセンス。
その時に、これは傑作だ、と感じた。
同時に、「クライマックスで音楽が鳴る」という事実をネタバレされてしまったのが悔しかった。
初回から観るべきだった。
不覚である。
そして実際に観た訳だが、これが急に上がったハードルを更に越えた行く傑作。
個人的には2016年公開映画No.1の面白さであった。
グッズも欲しくて売店に駆け込むも時既に遅く、ゴジラソフビは売り切れていた、、、
不覚である。
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初代ゴジラを継承する作品
「ゴジラ映画」の一般的な印象としては、やはり「怪獣バトル物」というイメージだろう。
だが、私が一番好きなのは初代『ゴジラ』。
人間が作り出してしまったモノでありながら、人間以上の力を持ち、何の感情も持たず、自然災害の様にただ無慈悲に人間の英知を破壊し尽くす存在。
これが私が思う初代のゴジラのテーマであり、「理想のゴジラ」のイメージである。
数多あるゴジラ映画。
シリーズ毎に世界観を何度かリセットしつつも、初代のゴジラ出現(1954)という事実のみ継承していた。
しかし、『シン・ゴジラ』においてはその「1954年のゴジラ」という設定すら破棄した全くの新しい世界観である。
だが、世界観を新たにしても、そのコンセプト、テーマ性は他のどの作品よりも初代と軌を一にしている。
「怪獣バトル物」も、そうと分かって観ればそれなりに面白いが、私としてはゴジラに求めているものとは違った。
一方『シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』のテーマ性を現代を舞台に蘇らせた、正に「私が観たかったゴジラ」をジャストミートしてきた物であったのだ。
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『シン・ゴジラ』と3.11
核の影響で出現し、自然災害の様に日本を破壊する初代の『ゴジラ』。
その当時のビキニ環礁での核実験などから着想を得た設定であり、その当時でも尚、戦争、核の恐怖は色褪せないものであったのだろう。
そして、『シン・ゴジラ』。
この映画の根底にあるのは「東日本大震災」である。
多摩川を遡上するゴジラ第二形態の姿に、津波のイメージが重なる。
そして、熱核エネルギーにより活動するゴジラは放射能を持ち、汚染物質を撒き散らす。
これは日本人が再び目覚めさせられた原子力の恐怖を表す。
『シン・ゴジラ』のおける「ゴジラ」とは、即ち、「現代日本が恐怖した災害」そのものの具現化であったのだ。
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圧倒的なテンポ感
そういう同時代的なテーマを盛り込みつつ、本作はエンタテインメントとしても優れている。
特に目立つのがそのテンポ感。
怪獣映画やモンスター映画において、「メインモンスター」の出現を引っ張っる場合も演出としてはアリだろう。
しかし、私は焦らされるのが嫌いだ。
熱湯入れたら3分でラーメンが食べられる。
それ位の時間でメイン怪獣が出て欲しい。
そして『シン・ゴジラ』はまさに速攻で怪獣が出てくる。
それだけでは無い。
この映画では、どいつもコイツも早口でまくし立てる。
まるで仲間を見つけたオタクの如しである。
さらに読めないレベルのスピードで明朝体の説明字幕が差し挟まれる。
映画のスピードについて行く為に、観ているこちらの思考もフル回転するのだ。
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ゴジラとエヴァンゲリオン
そして圧倒的なのが「ゴジラ」である。
本作の自衛隊は強い。
しかし、防衛出動したその自衛隊を立っているだけの存在感で圧倒するのがゴジラである。
圧巻なのが、東京上陸後、米軍の空爆を受けたゴジラが苦悶した直後のシーン(大体1:05:50辺りから)。
「とうとう必殺技の火炎放射キターーーってアレ?」
となり絶句してしまう場面だ。
火炎放射どころではない、まさかの対空レーザー光線発射である。
その勢いで東京蹂躙、首相以下大臣全滅せしめる暴虐ぶりを発揮する。
私的には本作で最も好きなシーンであり、
「あぁ、日本終わったな」と絶望したシーンであった。
(その直後、見得を切ってゴジラが活動停止し一息入れるのはご愛敬)
この時のゴジラの姿、まさにTV版『新世紀エヴァンゲリオン』の第2話でのエヴァンゲリオン初号機と瓜二つ。
また、レーザー光線は庵野監督が『風の谷のナウシカ』の巨神兵の時代から表現している、あの「なぎ払え!!」のレーザー光線である。
これらを筆頭に、本作には監督自身の過去作のセルフオマージュ、というか作風というか、「エヴァンゲリオン的演出」が多数観られる。
「エヴァ」っぽい存在のカヨコ・アン・パターソン、
共通する音楽、その挿入ポイントも似通っている。
セリフを引き継ぐ形で切り替わる場面のテンポ感、
日本語として理解しにくい略称を衒いも無く使う、等々。
『新世紀エヴァンゲリオン』を彷彿とさせる演出が多々観られる。
(0:27:48)からのゴジラ襲来から一夜明けた東京の様子、
(1:17:25)からの矢口とカヨコの会話、
『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦序盤と『新世紀エヴァンゲリオン』のヤシマ作戦序盤の類似、
これらはその最たるものなので、注目して観てみると面白い。
本作は殆ど、ファンから観たら「実写版エヴァンゲリオン」的な側面もあり、それがウケた一因でもあると思われる。
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会議は踊る、されど、、、
ゴジラに絶望に落とされた所から、しかし、若くしがらみに囚われない年代の人物達が反撃を開始する。
それは、3.11以降、未だに閉塞感と絶望感に囚われていた日本に、
「がんばろう日本!」から「立ち上がれ日本!」へと移行しようという強いメッセージのある展開であった。
ワクワクする展開だが、私的にはやはり、前半の形式主義に囚われる様子がたまらなく面白かった。
今、現在進行形で危険に会っている人間がいる一方で、お上は総理レクやら緊急有識者会議やら憲法解釈とやらに囚われ、手順を踏まないと何も出来ず、雁字搦めの中、初動が遅れるという事態を招く。
総理大臣であっても、「やれ」の一言で対処出来ない。
「会議ありき」「書類ありき」「前例ありき」。
本人達は一生懸命でも、突発的緊急事態の前で後手に回る。
特に、(0:26:25)からのシーン。
人影を発見し、攻撃の可否を問う場面。
駆除対象を目前にしながら、悠長にも「射撃の可否を問う」と間に5人の伝言ゲームを挟まないと何も出来ない(射撃手と総理も含めると7人)様子がそれを象徴している。
この形式主義を中盤にてぶっつぶすのがゴジラであり、それにより対応がスムーズになるというのが皮肉である。
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閣僚達の名演技
特に大臣役の各人は皆迫力ある演技を披露してくれた。
内閣総理大臣、大河内清次を演じた大杉漣。
どこか飄々として、フラフラした感じだが、良い味をだしている。
第三形態のゴジラを前に、射撃を中止し取り逃がすが、「自衛隊の武器を国民に向ける訳にはいかない」と言い切る様子は格好良かった。
例え、判断が間違っていたとしても。
官房長官の東竜太を演じた柄本明も良い。
総理をサポートしつつ、自分の出来る範囲で事態に対処する。
その人物を説得力のある演技で表現している。
まさに官房長官と言える存在である。
(因みに矢口は内閣官房副長官)
防衛大臣・花森麗子を演じたのが余貴美子。
完全に小池百合子を当て書きした役を、一目で小池百合子本人と見紛う程の再現力で演じてみせた。
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ヤシオリ作戦って、何?
ぶっちゃけ巨災対(巨大不明生物特設災害対策本部)のメンバーが早口過ぎて、ゴジラの生態とその対策を雰囲気で流している人が多数だろう。
ちょっと説明してみたい。
ゴジラは人類の8倍の遺伝情報を持つ。
間違い無く地球上で最も進化した存在。
世代交代では無く、一個体だけで劇的な進化を遂げている。
無性生殖により、群体化(つまり増える)、さらには小型化や有翼化する可能性すらある。
ゴジラがその巨体を支えるには、
水や窒素などを自らの細胞膜に通し、細胞内の元素を必要な分子に変換し、その崩壊熱を利用した熱核エネルギーを利用している。
劇中の尾頭ヒロミのセリフによれば、「熱核エネルギー変換生体器官を内蔵する混合栄養生物」であるらしい。
簡単に言うと、水や空気を吸って、その分子を核分裂し、そのエネルギーで動いている。
つまり、動く原子力発電所である(放射線の漏出アリ)。
巨対災のゴジラ対策「ヤシオリ作戦」とは、
血液流を体内の冷却に使用していると思われるゴジラの血液を凝固させ、
体内の原子炉を強制停止に追い込む事を目的とし、
血液凝固剤をポンプ車を使い経口投与せんとする作戦である。
簡単に言うと、
血液が凝固する→
ゴジラ、血液で原子炉を冷やしていた為、体内原子炉を停めないといけない→
ゴジラ活動停止(死んだらもうけもの)
という展開を目指している。
しかし、ゴジラはその特異な生態により、血液凝固剤すら細胞膜を通して無効化する恐れがあった。
その対策のヒントだったのが、牧悟郎が残した「謎の紙のデータ」であった。
(因みに、マキモト教授ではなく、牧・元・教授である)
その「謎の紙のデータ」を牧元教授のトレジャーボートにあった「鶴の折り紙」と同じ形状に折る事で解析データが判明、
それは、ゴジラの細胞膜の活動を抑制する、極限環境微生物の分子構造であった。
つまり、この「極限環境微生物」を「血液凝固剤」と共に口から飲ませれば効果が見込まれるのだ。
その名称「ヤシオリ」には由来がある。
古事記や日本書紀に見られる、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)討伐である。
スサノオはヤマタノオロチを八塩折之酒(ヤシオリの酒)にて酔わせ、その寝込みを襲って勝利する。
ヤシオリを呑んで酔って寝込んだヤマタノオロチと、
血液凝固剤を経口投与(口から飲ませて)してゴジラ凍結を目指す作戦を掛けているのだ。
また、ゴジラに血液凝固剤を経口投与する特別ポンプ車を「アメノハバキリ」と呼ぶのもそれに由来している。
天羽々斬(アメノハバキリ)は、酔ったヤマタノオロチをスサノオが切り刻んだ時に振るった剣。
十拳剣(とつかのつるぎ)とも呼ばれる。
オロチキラーの名前を経口投与のポンプ車に付けたのである。
因みに、その時、アメノハバキリは欠ける。
そしてヤマタノオロチの死骸の中から、アメノハバキリを欠けさせた剣、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が発見される。
この天叢雲剣こそ、後にヤマトタケルが振るい、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれる事になる三種の神器の一つである。
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ラストの尻尾の意味とは?
意味深なのが、ラストシーン。
あのゴジラの尻尾は何を意味するのか?
これは私の個人的な解釈である。
あれは、まるで、原爆に晒された人間に見えないだろうか?
また、同時に、ゴジラの背びれを持っている様にも見える。
人が創り、自らを焼いた業罪を表しているのか?
それとも、ゴジラの第五形態、それは自らを斃した人間形態であると言っているのか?
そのどちらも、両方の意味を持っていると思われる。
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シン・ゴジラの不満点
良いことばかり言ってきたが、勿論、人によっては不満な点も出てくる。
気になるのはヤシオリ作戦の決行直前に、自衛隊員にハッパをかけるシーンである。
唐突な自衛隊礼賛が始まり、ちょっと「アレ?」と思うシーンだ。
このシーンに政治的信条の相違を感じ、映画自体を嫌悪する人もいるだろう。
また、『シン・ゴジラ』においては、「市井の民」の視点を意識して切っている。
一般市民が描写される場面は少なく、
冒頭の「ニコニコ動画」風シーン、
悠長に荷物を詰めて、逃げ遅れ死んだ親子3人、
ゴジラ第三形態の攻撃をためらわせた、逃げ遅れた人、
位が目立つシーンである。
あくまで、困難に立ち向かうエリートの話なので、理不尽に振り回される一般市民は切り捨てる対象でしかない。
これは、映画の方向性として、
混乱する政治の限界を描く前半、
絶望的状況の中で困難に立ち向かう希望を描いた後半、
という構成の中に、一般市民の苦悩までも描くと「犠牲を乗り越え困難を打破しよう」とする信念の方向性がブレでしまう。
なので、「市井の民」の視点は「入れられない」のだ。
しかしこの方向性に、お上主義、権威主義を感じ不満な人もいるハズだ。
兎に角、盛り沢山の映画でまだまだ語り尽くせない感がある。
だが、ここらで取りあえずは終わりにしたい。
終わりといえば、劇中、常に無表情だった市川実日子演じる尾頭ヒロミが(1:49:57)にて笑顔を見せた所が、漸く終わりだな、と安心出来る部分である。
これを『シン・ゴジラ』と『新世紀エヴァンゲリオン』で対比させると、
『ヤシオリ作戦』と『ヤシマ作戦』終了後、
笑顔を見せた『尾頭ヒロミ』と『綾波レイ』みたいな構図になる。
そして、野村萬斎。
初見ではスタッフスクロールにて名前を発見し、ファンのくせに何処で出て来たか分からず困惑した。
まさか、ゴジラの中の人だったとは。
そういえば、ゴジラが中盤停止する時に(1:07:00あたり)、妙な見栄を切っていたなと思った。
こちらは第一作目の初代『ゴジラ』
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さて次回は、『シン・ゴジラ』に続くゴジラ映画第30作目はアニメーション、映画『GODZILLA -怪獣惑星-』について語りたい。