1864年、南北戦争当時、バージニア州の女子寄宿学園の生徒エイミーは傷付いた北軍兵と出会い、治療の為連れて帰る。園長のマーサは傷が癒える間だけ滞在を許すが、女性7人だけの閉鎖された環境に入ってきた男性の存在に、皆は浮き足立つ、、、
監督はソフィア・コッポラ。
父は有名なフランシス・フォード・コッポラ。
実績を積んで、二世監督の汚名をすっかり晴らした印象。
監督作に
『ヴァージン・スーサイズ』(1999)
『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)
『マリー・アントワネット』(2006)
『ブリングリング』(2013)等がある。
出演は、
ジョン・マクバーニー伍長:コリン・ファレル
ミス・マーサ:ニコール・キッドマン
エドウィナ:キルスティン・ダンスト
アリシア:エル・ファニング
エイミー:ウーナ・ローレンス
他、ジェーン、エミリー、マリー役の8人で主に話は進んでゆきます。
世は南北戦争。
その内戦の空気から隔絶された空間に住まう7人の女性。
そんな日常に男性が一人侵入して来る。
そこで、何も起こらないハズも無く、、、
マクバーニーは仲間からはぐれたか、はたまた脱走兵なのか?
園長のマーサは警戒しながらも、足の傷が癒えるまで滞在を許します。
ですが、マクバーニーは出て行きたく無い様子。
皆に社交的に振る舞って好感度を上げて行きます。
女性陣もまんざらでも無いご様子。
さりげないオシャレをして着飾ります。
こう言うと、この後ドロドロの愛憎劇が始まりそうですが、本作ではそういった個人の感情よりも、
転がる様に進んで行く、
止められない事態の行く末を描いています。
表面上には表れ無い、裏に隠された感情を推し量るのも面白いです。
また、漂白剤を使ったのかと思う程の
画面の圧倒的白さも特徴の一つ。
美しい女性、清潔で世間から隔離された楽園。
しかし、そこで起こる事は「白い事」ばかりではありません。
そんな映画、それが『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』です。
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『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』のポイント
共同体内に入り込んだ異分子の行く末
美しい画面の白さ
立ち位置の違う人間同士の関わり
以下、内容に触れた感想となります
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「beguile」ってどういう意味?
『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』。
題名の「beguiled」の意味を調べてみましょう。
動詞:beguile は
~をだます、欺く、
~を楽しませる、喜ばせる、
(時、暇を)紛らわせる、
~を魅了する、
等の意味があり、「beguiled」とする事で形容詞となります。
本作においては、そのどれかと特定するより、
「あ~成るほど」と思うほどに、全部の意味が映画に込められている印象です。
内戦とは隔絶された学園は、まるで平和な楽園であり、そこにマクバーニーは魅了されています。
なので、マクバーニーは学園から出て行きたく無いので、皆に紳士的に接します。
はっきり言いますと、合う女性全員に「良いこと」を言うのです。
マーサには「尊敬している」と、
エドウィナには「愛している」と、
エイミーには「気味が一番信頼出来る」と、
嘘は吐いていないかもしれませんが、
まぁ、口八丁の八方美人です。
相手の女性を、欺いて、しかし、楽しませているのですね。
そんあマクバーニーが気になる女性陣は、いつしか彼の存在が内戦の不安を紛らわし、
かつ、決まり切った日常に変化をもたらすちょっとした刺激として必要なものだと思う様になります。
そんな、異分子を取り込んだ共同体の変化の顛末を描いたのが本作であり、
それを題名で簡潔に説明しているのは観客に優しいですね。
(もっとも、単語の意味を調べて分かった事ですが)
…因みに、邦題の「欲望のめざめ」は釣り臭い感じで、特に意味を込められている様には感じないですね。
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共同体の中の異分子
マクバーニーは徐々に、ゲストとして学園という共同体の中で歓迎され受け入れられていきます。
ミス・マーサは「傷が癒えたら出て行って」という立場を崩しませんが、
男性としてマクバーニーを意識している様子も見られます。
エドウィナは現在の自分の状況を抜け出す為の切っ掛けの存在として、マクバーニーに惹かれます。
アリシアは自分の女性の魅力をマクバーニーに見せつけ、
マクバーニーを最初に見つけたエイミーは自分が一番の理解者だと無邪気に懐いています。
各人毎にマクバーニーとの関わりが違っているのが面白いですね。
しかしここで「女同士の男の取り合いの愛憎ドロドロ劇」という展開にはならず、
個人としてマクバーニーへの接し方が深くならない部分でお互いを牽制し合い、共同体が崩壊しない様にバランスを取っています。
中盤、マクバーニーがアリシアに夜這いしてエドウィナを失望させますが、それもアクシデントが発生し愛憎劇に発展せず、
結局「女同士の共同体」対「マクバーニー」という図式がなかなか崩れません。
ラストにて、エドウィナのみが共同体から抜け出しマクバーニーに寄っていきますが、
それも残りの共同体の謀により、エドウィナの思いは潰え、再び共同体に何事も無かったかの様に吸収されます。
マクバーニー謀殺において、エドウィナ以外の共同体は、
まず、マリーがアイデアを出し、
ミス・マーサの指示で、
エイミーが毒キノコを採取します。
誰が悪いという訳では無く、責任の所在が曖昧になっています。
つまり、お互いが共犯としつつも、
共同体全体の意思、行為であるという意識がある為に、
全員がある種の責任回避をしているのです。
結局、マクバーニーは、平和な楽園に侵入した異分子として、徹底的に排除されて終わってしまうのですね。
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男は怒鳴ってはいけない
マクバーニーは紳士的な態度と八方美人さで、共同体の中に地歩を築いていました。
しかし、その地道な努力で積み上げた信頼も、一度キレるだけで脆くも崩れ去ります。
これは、仕事での人間関係もそうですが、
より小さな共同体、例えば夫婦や親子関係では、より修復不可能な断絶を生みます。
腕力で勝るものが、自分の不機嫌を晒して相手を威圧すると、
それをされた子供や配偶者には癒やし得ぬ不信が心に染みこんでしまいます。
これが、逃げられない関係、つまり、家族だったりすると尚更です。
より簡単に言うと、
男が妻や子供を怒鳴って威圧したら、家族関係が冷え込むという事です。
自分に理があると思い、それにより相手を責める行為をしたら、
その行為自体が他の相手の不信を生むと理解すべきなのです。
マクバーニーはキレて怒鳴った為に、彼以外の共同体が結束してしまい、
結果、異分子として排除される運命が確定してしまったのです。
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異常な漂白感
本作『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』は白いです。
マクバーニー以外の女性陣は服も清潔で常に真っ白です。
(マクバーニーを治療する時以外は)
まるでギリシア式のエンタシスの柱も真っ白。
外部から男性が訪ねて来る事があっても殆ど関わり合わず、生活圏に入って来ません。
この事から、あくまで個人的な意見ですが、イメージ的には、学園はあの世へいくまえの停泊地の様な印象を受けます。
マクバーニーは留まりたくて色々頑張りますが、ミス・マーサは出て行くべきと終始主張します。
マーサ以外の女性陣はマクバーニーを受け入れますが、結局は排除へ向かいます。
本作でのストーリー展開は、個人の意思が見られても、それが顧みられる事なく、事態を打破出来ず、「決まりきった事象」をなぞっているかのような印象を受けます。
既に決まった運命から逃れられない、決定論的な展開です。
即ち、マクバーニーは既に死んでいて、その魂があの世へ行く前に紛れ込んだこの世に実在しない楽園、それが学園だったのではないでしょうか?
内戦とは無関係で、この世離れした美しさに、女性のみで生きているという現実離れした設定も納得出来ます。
そして、既に死んでいるので、マクバーニーが旅立つ事は決定されているのですね。
戦争を逃れ、漂白された世界に紛れ込んだマクバーニー。
彼の不幸は、自分が異分子だと理解しなかった事だと思います。
ゲストとして尊重されている内に学園から立ち去っていれば、もしかして現世に戻る可能性もあったのかも知れません。
しかし、時機を逸した為に、彼は排除される運命が決定してしまったのですね。
まるで、楽園のような美しさに目が眩めば、悲惨な死を迎える。
綺麗な薔薇にはトゲがある、
うまい話には裏がある。
そんな事を考えてしまう、『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』はそういう映画でした。
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さて次回は、あの世を彷彿とさせるは怪奇の常套手段!?小説『見えるもの見えざるもの』について語ります。