映画『フリーソロ』感想  狂気の沙汰ほど面白い!?たゆまぬ努力が可能にする、天才の境地!!


 

断崖絶壁を、命綱も、器具も無く、己の体のみでよじ登る。そのクライミングのスタイルを「フリーソロ」と呼ぶ。
カリフォルニア州ヨセミテ国立公園にそびえ立つ、前人未踏のエル・キャピタル。
フリーソロクライマーのアレックス・オノルドは、その巨岩に挑む、、、

 

 

 

 

監督は
エリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィ & ジミー・チン
二人は夫婦。

本作でアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した。

監督作に、
『MERU/メル』(2015)等がある。

 

出演は、
アレックス・オノルド
トミー・コールドウェル
ジミー・チン
チェーン・ランペ
マイキー・シェイファー
サンニ・マッカンドレス 他

本作はドキュメンタリー。
なので、出演者は役ではなく、本人です。

 

 

来る2020年、
東京オリンピックで採用される、新種目。

空手、
サーフィン、
スケートボード

 

そして、スポーツクライミング。

東京オリンピックでは、
「スピード」「リード」「ボルタリング」の3種目が競われます。

普段、馴染みは無いかもしれませんが、
オリンピックの競技に選ばれたとあって、

にわかに注目を集める、クライミング。

日本にも、世界的なプレイヤーが多いそうなので、
メダルを期待しつつ、
楽しく観戦が出来ると思われます。

 

さて、
スポーツのクライミングにおいては、
安全対策の為に、
ロープの装着や、下にマットが敷いてあります。

しかし、
それを、アウトドアでやるとなると、
また、話は別。

ロープやハーネスを使用しても、
落ちる時は落ちますし、

マットが無い地面に激突すれば、
大怪我、場合に拠れば、死の危険性すらあります。

 

普通にやっても、
かなり危険な「クライミング(壁よじ登り)」。

ただでさえ危険なのに、
安全対策をしないで、
クライミングを行う、命知らずがいた。

命綱も、マットも、安全器具も何も無し

滑り止めのチョークと、靴のみの、単独登攀

それが、
「フリーソロ」のクライミングのスタイルです。

 

本作は、そんな

フリーソロで、
約975メートルの断崖絶壁を踏破せんと挑戦する者の様子を追った、
ドキュメンタリーです。

 

 

作中、語られる、印象的な言葉があります。

フリーソロを試みるクライマーは、
ほぼ、100パーセント、
それにより死亡する

フリーソロを続ける限り、
何時の日か失敗し、
その結果は、即、死亡へと繋がる。

フリーソロとは、
比喩でも何でも無く、
言葉通りの命懸けの行為なのです。

 

そんな事に挑み続ける、
現代の冒険家と言われる、フリーソロクライマー。

その最高峰の一人と言われるのが、
本作に出演する、アレックス・オノルドなのです。

 

『アカギ』という麻雀漫画で、主人公のアカギが言っていました。

狂気の沙汰ほど面白い」と。

アレックス・オノルの精神状態は、
正に、
この、漫画のキャラクターの「アカギ」と酷似しています。

 

死と隣り合わせの、
カミソリの上を歩く様な人生にこそ、
充実を感じる。

正しく、アレックスの様子は狂気なのですが、

彼はそれを、
超然とした態度にて、
淡々とこなしているのです。

 

!?

これが、悟りか!?

はたまた、
サイヤ人の限界の、さらにその先を超えた境地なのか!?

 

本作は、
先ず、
断崖絶壁に挑むアスリートの挑戦という部分に目が行きますが、

それと同時に、

特異な性質を持つアレックス自身のキャラクターと、

彼を支える様々な人達の様子にも、
関心が奪われます。

 

アレックスと、

彼を支えるクライマー仲間、

彼の登攀をカメラに収めんとするクルー、

アレックスの彼女や、母親。

それら、人間関係の綾に、
作った物で無い、リアルであるが故に、
ドラマ以上にドラマチックを感じます。

 

生身の人間の偉業と狂気、

それを同時に写し取った、
『フリーソロ』は、そんな作品と言えるのです。

 

 

  • 『フリーソロ』のポイント

前人未踏に挑むアスリートの挑戦

狂気の沙汰ほど面白い

人間関係と、偉業と、平常心

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 「偉業」を達成する「人間」の物語

本作『フリーソロ』を観ようと思う切っ掛けとは、
何でしょうか?

人それぞれでしょうが、
私の場合は「アスリートの偉業が見たい」というのが、
先ず、一番の理由でした。

そして本作は確かに、
アレックス・オノルドというクライマーの偉業、

前人未踏の、
エル・キャピタンへのフリーソロ挑戦の達成を追った作品となっております。

 

しかし本作、
そういう、「超人」としてのアスリートの「人並み外れ具合」を描く一方、

そのアスリート自身のキャラクターと、
彼の周辺の人間を、
共に描写する事で、

天才的なアスリートも、
我々と同じ人間なんだという事を際立たせています。

 

故に、本作には、より一層の感動があります。

「天才は、1パーセントの才能と、99パーセントの努力より成る」

とは、よく言われる言葉ですが、
それを体現されると、
観ているこちらとしては、ぐうの音の出ない。

だからこそ、
本作は面白いのです。

天才でも、これだけ努力しているのだ、
況んや、我々凡人をや

 

天才が偉業を達成する裏には、
苦悩と、たゆまぬ努力があり、

一方、
人間関係という複雑、且つ、一般的な要因が、
その偉業達成に、
確かに影響している

本作は、それを描き、
天才も、我々と同じ人間だと描写しているのです。

 

そこが、本作の意義と面白さがあります。

 

  • アレックス・オノルドというキャラクター

それを説明する為に、
先ずは、本作の主人公、アレックス・オノルドというアスリートのキャラクターについて語ってみたいです。

 

フリーソロクライマーのアレックス・オノルド。

彼を一見して、どんな印象を持ちましたか?

もう、
一目で解る、陰キャ体質の人間ですよね。

 

細身(に見える)体に、
黒目がちの、純粋そうな瞳。

作中でも、カメラマン(監督の一人)のジミー・チンが言っていましたが、

きっと彼は学生時代、
ミスター・スポックと、いじられていたハズです。

 

容姿が、イケて無い彼は学生時代、
一人で没頭出来る「クライミング」に嵌り、

誰とも交流せず、
アウトドア活動に「引き籠もって」いたそうです。

その見た目通り、
シャイで、人見知りする性格だったのでしょう。

そういうタイプは、
得てしてオタク趣味に走りがちですが、
彼の、自分だけが没頭出来る世界は、クライミングだったのですね。

 

彼の生活はクライミングに特化しています。

定住地を持たず、
バンの中で生活し、

食べるモノも、
フライパンで食材を「焼く」だけの、
典型的な、一人暮らしの独身男性の食事。

アレックス・オノルドは、
普通の人が、普通に暮らすレベルの生活を捨てて、
というか、
日常生活に割くリソースすら削って、クライミングに没頭しているのです。

 

また、彼は恋人に言います。

ハロウィンパーティーの時、
カボチャの実をえぐるのを、人が楽しむのは良いが、自分がそれをする必要は無いと。
コミュ力の無さの露呈

自分が事故で死んだとしても、
そういうものとして、深く思い悩まないで欲しいと。
共感性の否定と欠如

クライミングという世界に属していない、
彼女のサンニ・マッカンドレスとの対比で、
より一層、
アレックス・オノルドの「特異性」が際立ちます。

普通の人なら、
大人になるにつれ、長い社会生活で摩耗される、
「個性というトゲ」を、
彼は未だに、折れないままに、持ち続けているのです。

 

そして、クライミング仲間のトミー・コールドウェルは言います。

彼のクライミングに対する姿勢、
その冷静さは、
生まれついての才能では無く、
訓練によって獲得したものだと。

作中、MRIで脳の機能を調べたシーンがありました。

その結果、
アレックス・オノルドは、
普通の人より、脳の扁桃体の反応が薄いという事でした。

これはつまり、
人に比べて「恐怖」を感じるレベルに、遥かに耐性があるという事。

この事について彼自身は、
「恐怖に囚われ難いというより、恐怖に囚われた時に、どう対処するのか心得ている
と言及しています。

 

彼自身の言、
そして、盟友のトミーの言葉によれば、

恐怖と死と危険の狭間で、それに対処する術を、
訓練により獲得したというのが、アレックス・オノルドという人間になります。

そして、彼自身こう言い切ります。

普通に幸せに生きる事にどんな価値があるのか、何かを達成してこその人生ではないのか、と。

それ故に彼は、

死と隣り合わせの、何時か、必ず死ぬという「フリーソロ」にて、
生の充実感を得ているのです。

 

  • 周囲の人との対比

さて、
そういうアレックス・オノルドの、
他の人間の共感を、徹底的に排除するかの様な、
孤高のプライドに支えられたアスリート魂のみを描写するなら、
本作は、それ程面白くはありません。

そんな彼を取り巻く「一般人」よりの人間の言及があるからこそ、
彼の言葉が際立ち、
そして、
彼自身、人間らしい部分があるのだという事を、観客に示しているのです。

 

アレックス・オノルドのトライの様子をカメラに収めようとする、
ジミー・チンや、マイキー・シェイファーは悩みます。

自分達の「カメラで撮影する」という行為が、
アレックスにプレッシャーを与えているのではないのか?と。

撮影カメラの存在が集中を削ぎ、
事故を誘発するのではないのか?と。

また、撮影するという他人の名目が、
より、危険な現場でのフリーソロを強要している事になっていないか?と。

 

実際、作中、
アレックスは一度、
過去、経験のなかった、挑戦途中のギブアップをしており、
その原因が「人が多すぎる」というものでした。

また、
クライマー仲間の一人は、その事態を知った後に、ハッキリと、
「取り巻きとは縁を切れ」と警告しています。

アレックスの才能とは、孤高故に成り立っており、
彼をエサに集まってきた有象無象は、
クライミングの純粋性を損なうという意見でしょう。

 

いわゆる、
面白い人が面白い事をやる
→面白いから、人が集まる
→集まった人間が自己主張する
→面白い事をする人が居なくなる
→つまらない人が残り、コンテンツが衰退する
ってヤツです。

この場合、
アレックスに集った有象無象の雑念が、
アレックスを死に追いやる、という懸念を表明しているのです。

そしてこれは、
カメラマン自身が、一番よく理解しているのですね。

「偉業達成をカメラに収めたいが、アレックスの邪魔はしたくない」
そういう自家撞着に陥っているのです。

 

そして、
その有象無象の雑念の最たる存在は、
アレックス・オノルドの彼女である、サンニ・マッカンドレスなのです。

サンニは、
美人で可愛くて明るくて、喜怒哀楽の変転が楽しく、
付き合う相手の趣味に合わせてくれるという、

正に、
万人に好かれる存在

気の合う仲間と、楽しく、幸せに暮らす、

そういう観点からすると、
この上ないパートナーと言えます。

が、
この天真爛漫な陽性は、
陰キャを拗らせた末に才能を開花させたアレックス・オノルドの精神性とは真逆な存在。

ハッキリ言うと、
偉業を達成しようと挑戦するアレックスにとっては、
あまりにも性格が違いすぎて、
サンニの性格は「さげまん」なのです。

 

この事に、トミー・コールドウェルは、言葉を選びながら言及しています。

「クライミングに挑むには、心を鎧で覆わなければならない」と。

これは、いわゆる「平常心」というヤツです。

最近では、
アスリートが偉業を達成するときの精神状態というか、
心理状態としての、
ルーティン」として、知られる概念でしょう。

 

例えば、
元プロ野球選手のイチローは、
何年も200本安打を達成してきましたが、
その彼のプレイスタイルは、
「常に一定」というライフスタイルの上に成り立っていました。

食べる物も、トレーニングも、毎日同じ、
ネクストバッターズサークルでは、屈伸をし、
打席に立つと、自分の肩をチョイと触り、
バットを相手に向ける

このパターンを、イチローは延々と繰り返していました。

「パターンに嵌める」事で、
何かを達成するというプレッシャーすら、日常のルーティンワーク化する、
この思考の境地こそが「平常心」と言えるのです。

トミー・コールドウェルの言う「心を鎧で覆う」というのは、
この平常心の事であり、
感情の起伏による、集中力の乱れを懸念した発言なのです。

そして、
サンニこそ、
そういう、人が、人として生きる、
幸せな喜怒哀楽の権化みたいな存在であるのです。

ぶっちゃけ、遠回しにトニーは、
フリーソロで偉業を達成したいなら、サンニとは別れろ、
と、言っているのです。

 

では、サンニ自身はどうかというと、
彼女は、
「偉業と、人としての幸せと、両方手にしても良い」と言いきります。

他人や、アレックス自身の、何となく敬遠したい雰囲気など、何するものぞ、

2016年冬に失敗した挑戦の後には、
2017、アレックスと共に暮らすマイホームまで購入する始末。

しかしサンニは、
2017年の二度目のチャレンジの時は、
自分から、現場を遠のきます。

自分が、何となく、集中力を削ぐ原因だと、
彼女自身、気付いているのです。

サンニとは、何という人でしょう!

適度に構ってくれるのに、
放って置くときは、放って置いてくれる

サンニの存在は、偉業を達成には支障があるでしょうが、
ぶっちゃけ、
人生のパートナーとして、
これ以上の存在は、この世に居ない、
絶対に手放してはいけない人と言えるのです。

 

  • 天才の努力、徹底攻略

アレックスの、エル・キャピタンへの最初の挑戦の失敗は、

右足の負傷という事もありつつ、

それら、
周囲の雑念が原因の、精神的なものでもありました。

 

アレックスの性格、
そして、
周囲の状況から鑑みるに、

彼は、孤高性を取り戻す為に、
全ての人間関係を切って、偉業に挑むのか?

しかし、実際は、然に非ず。

何とアレックスは、
撮影や、サンニまでも呑み込んで、
その状況自体を、ルーティンに取り込むという選択をするのです。

 

アレックスは、
悩むジミー・チンに言います。

「撮影の許可を出したのは私自身。嫌なら、そう言う」と。

その状況を選択したのは、自分だ、
その選択は、
他人に、とやかく言われる筋合いは無いという自負であり、

そう言った以上、
エル・キャピタンを登り切らないと、
その言葉が嘘になるという、
予告ホームランみたいな宣言でもあるのです。

 

また、サンニとの関係で言えば、
彼女と暮らす、マイホームまで購入する始末、
しかも、ラスベガスに、
コーヒーメーカーの使い方すら、知らない人物が、ですよ。

つまり、
今までの拠点であるバンとは違う生活習慣を取り入れてでも、
サンニとの関係を、
「アレックスの日常」という「ルーティン」に落とし込もうという選択と言えるのではないでしょうか。

 

心理面でのプレッシャー、雑念をルーティンに取り込む事で、
アレックスは、クライミングに挑む平常心を取り戻します。

 

そういう、心理面の平常心を支える、
もう一つの要因は、
用意の周到さ。

即ち、徹底した、事前攻略です。

 

昔のファミコンのアクションやシューティングゲームなんかは、
初見殺しのオンパレード、
正に「死に覚え」の連続、
試行錯誤(トライアル・アンド・エラー:trial and error)の繰り返しで、徐々に先に進んで行くものでした。

 

アレックスも、エル・キャピタンのフリーソロを敢行する前に、

何度も、何度も、
ロープ付きで、
難所の攻略に挑んでいます。

まるで、対戦格闘ゲームで、コンボ練習する時の様に、
英語学習で、テキスト全文覚える時の様に、

要所、要所でポイントを区切って攻略しつつ、
それを繰り返し練習し、
全体の流れをイメージしながら、
仕上げて行く

時には、自分以外の人に試してもらったり、
時には、発想自体を変えたり。

実際に、壁に張り付いていない時でも、
エル・キャピタン攻略法を、
難所毎に区切って、ノートに手順をメモし、
それを、イメージトレーニングで繰り返しながら、
頭と体の連携を図っています

 

いやぁ、
漫画の「刃牙」みたいな事を、
本物のアスリートも実践しているのですね。

 

我々、一般人からすると、
偉業を達成する人間は、
並外れた天才だという言葉で、一括りにしがちです。

しかし、
実際に、前人未踏の偉業を達成するアレックスを観ると、
そうでは無い事が解ります。

 

人間関係という雑念すら、
ルーティンに取り込む事で平常心を獲得し、

また、

失敗への恐怖は、
たゆまぬ徹底攻略に裏打ちされた自信によって、
それに打ち克つ心理状態にまで持って行く。

観客は、
ここまでやるからこそ、
偉業を達成出来るのだという事実を、
目の当たりにするのです。

 

結果が全てか?
過程が大事か?

それは、度々、議論の俎上に上げられる命題です。

その事について、
本作『フリーソロ』を観ると、
こう言えるのではないでしょうか。

結果を残す為には、
その過程を、徹底的に努力する必要がある、と。

 

偉業を達成した天才は、
我々一般人とは違う人間か?

それは、確かにそうです。

どう違うのかというと、

それは、徹底的に努力、攻略したからなのです。

 

本作『フリーソロ』は、
天才の偉業達成の過程を描写する事で、

その天才の苦悩、努力の必要性は、
我々と全く変わらない事を示し、

故に、
我々自身にも、
生きる事の努力を促す

力強いメッセージ性が込められた、
ドキュメンタリーの傑作と言えるのです。

 

 

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