映画『ハッピーエンド』感想  人生の主観によるとエンディングなんて来ない!!

 

 

 

スマホで撮影されている女性の就寝前の行状。ハムスターに薬を飲ませて実験する様子。そして、母親(先の女性)への愚痴と薬を使うというチャットの書き込み。
…女性が意識不明の重体となった為、離婚した父方の家に娘は引っ越す事になる、、、

 

 

 

 

監督はミヒャエル・ハネケ
物議を醸す作品が多く、カンヌ映画祭にて様々な賞を沢山獲得している。
代表作に
『ファニーゲーム』(1997)
『ピアニスト』(2001)
『隠された記憶』(2005)
『白いリボン』(2009)
『愛、アムール』(2012)等がある。

 

出演者は
少女(エヴ)      :ファンティーヌ・アルドゥアン
祖父(ジョルジュ)   :ジャン=ルイ・トランティニャン
父(トマ)       :マチュー・カソヴィッツ
父の再婚相手(アナイス):ローラ・ファーリンデン
伯母(アンヌ)     :イザベル・ユペール
伯母の息子(ピエール) :フランツ・ロゴフスキ
伯母の恋人(ローレンス):トビー・ジョーンズ

この家族の面々の様子が描かれる。

 

ミヒャエル・ハネケ監督と言えば、名前で客を呼べる監督と言えます。

その監督の最新作、『ハッピーエンド』は

家族の群像劇。

 

裕福な一家に少女が仲間入りする所から話は始まります。

しかし、群像劇とは言っても、
よくある感じの「一つの目的(結末)に向かって物語が進行して行く」タイプではありません。

あくまで、

家族の日々の営みの一面を切り取った作品と言えるでしょう。

 

「家族」という単位で外から見ると、この一家は皆が何不自由無く裕福で平和に暮らしていますが、
これが一旦個人の様子にフォーカスが当たると、

各人がそれぞれ内面に何かを抱えているのだと知れます。

 

「家族」という共同体を支える個人が、崩壊し、分解しようとしている。

しかし、表面的には美しく、人が羨む様な「家族」そのものである彼等の物語。

そこに何を感じるのかは、観客に委ねられる。

 

題名も意味深な作品、それが『ハッピーエンド』です。

 

 

  • 『ハッピーエンド』のポイント

表面で見える華やかさと、裏に秘めたる感情

SNS経由による主観性の放棄

監督の前作『愛、アムール』のその後を思わせる、ジョルジュ

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 家族の崩壊、前夜

本作『ハッピーエンド』は家族の群像劇。

しかし、その題名とは似つかわしくなく、
続いて行く人生という観点で観ると、
むしろ、この後には家族の崩壊が待っているとしか思えません。

裕福な一家でありながら、
その家族を構成する個人という単位が揺らいでいるのです。

自分ではイケてるオヤジを気取っているトマ、
しかし、家族は彼をヤリチンとしか見ていません。

実際、浮気を反芻するかの様なチャットを楽しみつつ、
しかし、それを娘に見られても、
関係を清算するより、隠れて続ける事を選択するのです。

アンヌは会社を切り盛りしながら、恋人と再婚を果たします。

ラストシーンで美しい「ハッピーエンド」を演出するかと思いきや、
息子が見知らぬ他人を連れてぶち壊しに乗り込んで来ます。

アンヌ自身はクールでスマートに物事を対処しますが、
その彼女にも、その後の人生にケチが付いた様な印象があります。

アンヌの息子のピエールも、
親にレールを敷かれていても、それに乗る事を拒否します。

というか、敷かれたレールにすら乗れずに、自己憐憫に浸り、
その情けなさを自覚するより、他人を巻き込んで不満を撒き散らします。

そして、印象的なのはやはり、
エヴとジョルジュの二人でしょう。

 

  • SNSという主体性の放棄

冒頭のスマホでのチャットや、その後の様子から、
おそらくエヴは母親に薬を盛って死に至らしめたのだと推測出来ます。

それ自体恐ろしい事ですが、
真に戦慄すべきは、自身の生や目の前の死にすら軽視する、
その主体性の無さであると言えます。

 

エヴ自身は、母親を非難しています。

しかし、映画の描写のみでは、エヴの母が実際にはどの様な人間であったのかは判断出来ません。

その母をスマホで隠し撮りし、
「愚痴を私に聞かせる」と、スマホにチャットで愚痴っているエヴ。

スマホの画面上では、
「静かにさせた」ハムスターと、
「うるさく愚痴る」母が同列で語られます

 

エヴは、今は亡き兄がいました。

自分より2歳年上でしたが死んでしまい、
エヴは哀しみに暮れたといいます。

また、
父の浮気と変態的なチャットのやり取りを知り、
自殺を謀り、涙ながらに「施設に入れないで」と父に訴えています。

 

母をハムスターの様に毒殺するアンファンテリブルと、
13歳間近という年齢より幼く見え、父に捨てられる事を恐れる儚い少女は同じ存在なのです。

この二つを隔てるのは、スマホ(SNS)というフィルターです。

エヴは、目の前に起こる事象をスマホで撮影する事で自らの主観を捨て、
撮影者=観察者、さらには傍観者=観客にまで自分の立ち位置をずらしているのです

それは何故か?

おそらく、兄の死や、父の不在、母への不満など、
哀しみや苦しみを乗り切る為の自己防衛の手段として編み出した方法なのだと思います。

エヴは、自分の哀しみを客観化し、自分以外の物として処理しているのでしょう。

 

  • ジョルジュの苦しみ

そのエヴを理解し、諭そうとするのが一家の最長老のジョルジュです。

ジョルジュは妻の病気を機に仕事を引退し、会社をアンヌに譲ります。

そして彼は妻を3年介護しますが、あまりに長い苦しみを脱する為に、
自ら妻の首を絞めて殺したとエヴに告白します。

このエピソードは、監督の前作『愛、アムール』のラストシーンを彷彿とさせ、
もしかしたら、本作は『愛、アムール』の形を変えた続篇でもあるのだと想像出来るのです。

 

さらにジョルジュはエヴに語ります。

ドキュメンタリーで見る野生生物の狩りの場面は他人事でも、
自分の目の前で起こった、鳥が小鳥を引きちぎる場面には衝撃を受ける、と。

ジョルジュは、死というものは、
自分に関係無かったら軽くても
自分で手を下したり、目の前でもたらされたものならはそれを重くのしかかるのだと教えます。

 

そのジョルジュ自身は、殆ど自殺の如き行動を繰り返します。

車で突っ込んだり、
通りがかりの人間に何らかの無理難題をふっかけたり、
馴染みの理髪師に「銃が欲しい」と訴えたりします。

周りの人間は「ジョルジュはボケた」と判断し、皆が殊更過保護に接します。

ジョルジュはそれも気に入らず、まるで自分が牢獄に囚われているかの如く感じています。

その牢獄は彼の心の中にあります。

ジョルジュはエヴに、妻を殺した事に後悔は無いとうそぶきましたが、
その実「人を殺した事」の衝撃に囚われ、そこから抜け出せて居ません。

ジョルジュは、そこから抜け出せる方法があるなら、
それは自分の死でも構わないと思っているのです。

家から抜け出すのは、牢獄から出る象徴の行為、
死は、彼にとっては解放なのでしょう。

そう、ジョルジュはエヴに語っている様に見えて、
実は自分の事を言っていたのです。

 

  • これが「ハッピーエンド」なのか?

監督は、本作はコメディだと言っています。

滑稽で笑える部分もありますが、流石にこれをコメディだと私は言えません

むしろ、題名をわざわざ「ハッピーエンド」と言い切った監督のニヒルさを感じます。

完全体に成ったセルが「どうした、笑えよベジータ」と言っているのと似てますね。

 

幸せでセレブな結婚式(?)をぶち壊したのも束の間、
(ホワイトウォッシュされた会場に酔っ払いが勝手に黒人ゲストを連れて来て、さらにそれを受け入れるという欺瞞ぶりが垣間見えます)

ラストシーンでは、「入水を敢行するジョルジュをスマホで撮影するエヴ」という更なる不快感を用意しています。

このシーン、
ジョルジュ自身には解放を意味する為、ある意味では「ハッピーエンド」であると言えるのかもしれません。

更にジョルジュには、自らの死をエヴに見せる、
つまり死の衝撃を知らせるという意図も、もしかするとあるのかもしれません。

しかし、一方のエヴの方は、ジョルジュの助言を活かさず、
相変わらずスマホというフィルターをかざし、目の前の現実から逃避しダメージを回避しています。

 

結局、最後に至っても、
その意図が共有される事が無く、
それ故個人の行動が単なる自己主張に堕する事になり、
結果、家族という単位が崩壊へと至ると想像されます。

人生は、映画の様に良い所で終わらず、
しかる故に、「ハッピーエンド」にはならない事が大半です。

正にこの映画『ハッピーエンド』は、
映画ですら「ハッピーエンド」にならない、
況してや、人生をや、と教えてくれる作品なのです。

 

 

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さて次回は、ハッピーエンドにならなくとも、別の物語が続いて行くのだ、小説『ダーク・タワーⅣ-1/2 鍵穴を吹き抜ける風』について語ります。