鎌倉時代。
場所は壇ノ浦。少年「友魚(ともな)」は、都から来た者達の要請で三種の神器の一つ「剣」を見つけるが、その影響で父は死亡、自身は視覚を奪われてしまう。
その無念を晴らすべく、都へ向かった友魚は、琵琶法師の一座に弟子入りし、名を「友一」と改める。
そして都で、異形を晒して人々を驚かしている「犬王」と出会う、、、
監督は、湯浅政明。
TVアニメーションや長篇映画にて監督を務める。
長篇映画監督作として、
『マインド・ゲーム』(2004)
『夜は短し、恋せよ乙女』(2017)
『夜明け告げるルーのうた』(2017)
『きみと、波にのれたら』(2019)がある。
原作は、
古川日出男の『平家物語 犬王の巻』。
出演は、
犬王:アヴちゃん(女王蜂)
友魚/友一/友有:森山未來
足利義満:柄本佑
犬王の父:津田健次郎
友魚の父:松重豊
谷一:後藤幸浩
定一:山本健翔 他
監督、湯浅政明。
原作、古川日出男。
音楽、大友良英。
キャラクター原案、松本大洋。
声の出演も、有名人多数。
そうそうたるメンバーが揃っています。
さて、こういう作品は、どうでしょうか?
予告篇の時点でネームバリューで売る作品は、
地雷が多い。
何故なら、内容で勝負出来ないから。
そして、
「良い作品」を作る監督として、
アニメ映画界での貴重な存在である、湯浅政明監督。
作品のクオリティが高く、
面白い作品ばかりですが、
個人的には好みでは無いというのが、
今までの正直な印象です。
でも、
気になるんだよな~
って、事で、いつも観に行く監督です。
で、本作はどうだったのでしょうか?
『崖の上のポニョ』の本歌取りだった『夜明け告げるルーのうた』。
トレンディドラマを彷彿とさせる『きみと、波にのれたら』。
これらに続いて作られた本作の出来は如何に!?
うん、率直に言うと、
面白かったよ!!
万人受けでは無いけれど…
湯浅政明監督作品って、
良くも悪くも、
一般受けを目指しているという印象でした。
アニメ作品ですが、
ちょっとオシャレ路線というか。
しかし本作は、
アニメで鎌倉時代から南北朝~室町時代への過渡期という歴史物、
題材も、猿楽、
ちょっと、マニアックなんですよね。
そして、
今まで作って来た、イケメン達の恋物語、
みたいな作品では無く、
敗れし者達が紡ぎ、奏でる、
まつろわぬ物語。
いわゆる、判官贔屓というか、
敗北者達の物語なんです。
イキなりの方針転換、
普通に健全な人生を送っている人なら敬遠するような、
寧ろ、
今まで排除してきたオタク路線の方々に刺さる内容となっております。
歴上に名が残っていながら、
詳細が知られていない、
猿楽の「犬王」と、
本作のオリジナルキャラ、
琵琶法師の「友魚」。
この二人のセッションが化学反応を生み、
革新的なイノベーションによって、
今まで、誰も観た事の無かった様なパフォーマンスを産み出す。
突如始まる、劇中ライブのライブ感が、もう最高!!
ああ、本作は、コレがやりたかったんだ!
だから、主演の二人の声優は、
「歌える」人間を宛てていたのか!
やりたい事が明確な作品は、
面白いのですね。
ストーリーは、
「平家物語」の終結から始まる因縁を引き継ぎ、
人間の「情」と「業」と「呪」を描いています。
まとめますと、
本作はさながら、
ダフト・パンクのアニメ映画『インターステラ5555』と、
手塚治虫の漫画『どろろ』を併せた様な印象。
個人的には、凄く面白かったです。
テーマがハッキリしていて、
個性的で、やりたい放題。
しかし、こういう、
私みたいなオタク気質向けの作品って、
一般向けでは無いンだよなぁ…
それでも『犬王』は、
色々な人に観て欲しい作品と私は思うのです。
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『犬王』のポイント
圧巻のライブパフォーマンス!!
鎌倉、南北朝、室町という時代設定、猿楽という題材の面白さ
敗れし者達の、まつろわぬ物語
以下、内容に触れた感想となっております
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ライブアニメ映画
湯浅政明監督の過去作、
『夜明け告げるルーのうた』(2017)
『きみと、波にのれたら』(2019)を観た時、
私の個人的な感想として、
「歌と踊りのシーンは良いけれど、他に一言もの申す」みたいな感想を述べていました。
勿論、
湯浅政明監督が、
このブログを見ている訳ではないでしょうが、
しかし、本作は、
範馬勇次郎なら、
「持ち味、活かしやがったなぁ」と嘆息する様な内容に仕上がっていました。
正に、
「歌と踊り」に特化した作品だったからです。
物語中盤、
「新しい」「オリジナル」な演目を始める二人のアーティスト、
琵琶法師「友一」→改め「友有」と、
猿楽の一座「比叡座」の棟梁の息子に産まれながら、
その異形にて忌避され、
町の人にも恐れられた存在「犬王」。
彼達の革新的な試みが、
旧来の「演目」を圧倒し、
人々を熱狂に巻き込んで行く。
まるで、
関節や重力を無視したかの様な、
縦横無尽な動き、
そして、
極彩色で煌びやかな色彩感覚。
突如始まるライヴ場面で、
しかも、それが延々と続く。
イキなりでビックリで、
でも、ワクワクが止まらない。
良いよ、こういうの、好きよ。
正直、
平家の怨念とか、
親の仇とか、
異形に産まれた哀しみとか、
ちょっと、というか、
かなり暗いストーリーです。
しかし、
そういう虐げられた人間の持つ、
怒り、哀しみ、煩悶、怨念、
それらのルサンチマンを解き放つかの様な、
解放のカタルシス。
見た目の派手さと、
感情的な解放感、
それらが合わさる事で、
何ともいえない気持ち良さ、高揚感があるのが、
本作のライヴシーン。
そして、
それが何度も繰り返される事で、
ある種、トランス状態の様な感覚に入れるのが、
本作の一番の見所と言えるのではないでしょうか。
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元ネタ的な作品
『犬王』を語る上で、
その元ネタ的な試みをしている過去作に、
海外のアーティスト、
ダフト・パンクのアニメ映画『インターステラー5555』(2003)と、
手塚治虫の漫画作品『どろろ』があげられます。
『インターステラー5555』は、
キャラクターデザインは、松本零士、
劇中に台詞は無く、
全篇、ダフト・パンクの音楽アルバム『ディスカバリー』の楽曲が流れ、
物語が紡がれるという、
言ってみれば、ビジュアルイメージアルバムといった内容のアニメ作品です。
一方『どろろ』の主人公の名前は百鬼丸。
室町時代、父親の醍醐景光が、
自らの野望の為に、産まれる予定の赤子の体を48体の妖怪に捧げるという場面で幕を開け、
その為、
人間として不完全な体として産まれ、捨てられ、
しかし、
善意の医者に拾われる事で、
義足や義手にて生存、
数年後、自分の体を奪った妖怪を狩る事で、
本来の身体を取り戻して行く
という、
何とも凄まじく、
面白いのですが、
未完で終わってしまった名作です。
ライヴ映画的なノリとしては、
『インターステラー5555』、
犬王と、
「比叡座」の棟梁である父親との関係性のストーリーは、
『どろろ』が元ネタとなっている印象を受けました。
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出る杭は打たれる
元ネタが『どろろ』である以上、
ストーリー的展開は暗いです。
そしてある意味、
未完で終わった『どろろ』に対する、
本作なりのアンサーみたいな印象も受けます。
革新的なパフォーマンスで、
人々の熱狂的な歓迎を受け、
遂には、
将軍足利義満の前での演目上覧が叶う、
友有と犬王。
しかし、
その上覧を頂点として、
彼達の栄華は終焉を迎えます。
まるで、
滅びてしまった平家の様に。
平家の怨念から、
彼達の無念を「物語」として受け継ぐ事で、
彼達の「真実=怨念、煩悶、苦悩」を、
自らの「オリジナル」として昇華し、
披露する事で、
その供養と解放を行っていた二人。
供養=ライヴという性質上、
一回こっきりのパフォーマンスを謳う二人の演目は、
故に、
一過性である事が宿命付けられています。
足利義満は、
二人のパフォーマンスを評価しつつも、
「旧来のストーリー(体制)を脅かす」
彼達の演目を支持せず、
飽くまでも、
(体制の)現状維持を考え、
旧態依然とした「平家物語」のストーリーを、
それが「正史」として統一、
他の演目は認めないと告げます。
古いものを打破する革新は、
体制を打破する叛逆心を涵養すると見做され、
抑え込められる。
正に、「出る杭は打たれる」
御上の心理が描かれます。
「物語」というものは、
人に、知って貰う事で、その価値を得ます。
故に、
物語は、披露される事で、評価を得て、
語り継がれる事で、
「名」が残り、
それが、
「無念・怨念」の供養となります。
故に、「物語る」事を禁止されたアーティストは、
その存在意義を失う事になります。
「友有」はそれを拒否し、処刑され、
「犬王」はそれを受け入れ、アーティストとしての役割を終えます。
元々、
父親の野望である「芸を極めたい」という父親の野望の為に
「異形」として産まれた犬王。
「平家の無念」を吸い上げる「装置」として産まれた彼は、
その無念を晴らす事で、自らの体を取り戻し、
それを完遂した暁には、
その役目を終えた。
故に、
演じる必要は無くなってしまったのです。
後世において、
名前のみ伝わっている、
実在の人物「犬王」。
将軍の覚えが目出度かったという話ですが、
それは、
将軍の「犬」という意味だったのかもしれません。
故に、
馬鹿にする意味で、
「犬王」と呼ばれたのかも?
歴史上では、
「犬王」と呼ばれた存在。
そして、
歴史から消えてしまった、
パーフォーマーとしての友有。
彼は死の直前、
「友魚」と名乗ったが故に、
誰からも顧みられる事の無い存在となります。
本作では、
「名前」がその存在を証明し、
「物語」が「知られる」事で、その供養となると描かれているので、
故に、
「友魚」は未練を遺す存在となってしまいます。
しかし、
犬王のみは彼を覚えており、
「友魚」の名前で彼を探すのに時間がかかり、
それが、現代までかかってしまい、
今、映画としての『犬王』として結実する事になった。
本作はつまり、
顧みられる事の無い存在=物語・名前・作品に対するレクイエムであり、
それは、
敗れ去ったもの、
それでも、
まつろわぬ者に対する、救済の物語であると言えます。
「物語」を愛し、
それを、創作する事の栄光と挫折と苦悩と救済、
その業の深さ、
『犬王』は、
そういう、「物語」の為の物語と言える作品なのではないでしょうか。
コチラが、古川日出男の原作です
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