北極での氷の掘削事業により、地球の地軸に異変が起き、
白夜が続き、スマホの調子も悪い今日この頃。
しかし、アメリカの片田舎、センターヴィルの町は今日も平和だった。
そんなある日、町のダイナーで惨殺事件が起こる。野生動物の仕業か?
はたまた、ゾンビが現われたのか?、、、
監督は、ジム・ジャームッシュ。
監督作に、
『パーマネント・バケーション』(1980)
『ミステリー・トレイン』(1989)
『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991)
『デッドマン』(1995)
『コーヒー&シガレッツ』(2003)
『ブロークン・フラワーズ』(2005)
『パターソン』(2016)等がある。
出演は、
クリフ・ロバートソン:ビル・マーレイ
ロニー・ピーターソン:アダム・ドライバー
ミンディ・モリソン:クロエ・セヴィニー
ゼルダ・ウィンストン:ティルダ・スウィントン
ハンク:ダニー・グローヴァー
ボビー:ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ
他、スティーヴン・ブシェミ、RZA、イギー・ポップ、キャロル・ケイン、セレーナ・ゴメス、トム・ウェイツ 等。
皆様、
コロナ自粛期間、
お疲れ様でした。
緊急事態宣言も一先ず解除され、
ようやく、映画館も通常営業が再開されました。
しかし、
コロナ以前と同じとはいかず、
マスクの着用の徹底、
いちマス空けた形での、着席の形式など、
映画館の経営状況には、厳しいものがありますが、
それは、
我々映画ファンが、
映画館にたゆまず足を運ぶことで、
なんとか、応援の一助になればと、願っています。
さて、
そんな自粛開けの新作映画一発目として封切られた作品が、
本作『デッド・ドント・ダイ』です。
いや、もうね、
ぶっちゃけ、
予告篇と観た時点で、地雷と解るダメっぷり。
それでも、
久々の新作映画だもの。
観に行かずには、居られないじゃない?
で、
実際に観て、どうだったのかと言いますと、
「あ(察し…)」という感じ。
本作、
ゴリゴリのゾンビ映画に非ず。
言うなれば、
あくまでも、日常の延長の異常事態、
と、言った所でしょうか。
まぁ、観る前には、
ゾンビパニックを、
感染症のパンデミックと絡めて解説出来ればいいなと思ってはいましたが、
そんな浅知恵など吹き飛ばすかの如くに、
全篇に漂うのは、オブビート感。
ゾンビ映画にありがちな、
完全異常事態勃発!!
みたいな、
大仰な設定など皆無であり、
(あるにはありますが、深くは触れません)
あくまで、基本の日常があり、
そこからはみ出てしまった、非日常を切り取った作品となっております。
思えば、
ジム・ジャームッシュ監督の作品は、
そういう「日常」の切り取りを「おかしみ」を持って行っているという印象を受けます。
そういう意味では、本作は、
「ゾンビ映画」というジャンル作品では無く、
ジム・ジャームッシュ監督作品として楽しむべき、
と言えるのではないでしょうか。
いや、勘違いして欲しくないので言っておきますが、
本作は、ちゃんと、ゾンビ映画としての文法は守っています。
人はゾンビに食べられるし、
ゾンビメイクも凝ってるし、
抑えめながら、ゴアな表現も、まぁ、あると言えばあります。
しかし、
本作の注目点と致しましては、
ゾンビ映画でありながら、
ホラーでは無く、日常系の作品である、
という事なのです。
この、
日常からハミ出た「ゾンビ」という異常が、
ブラックな笑いを誘う。
本作『デット・ドント・ダイ』は、
そういう「おかしみ」を楽しむ作品だと、私は思います。
あ、後、
本作は、無駄に出演者が豪華です。
そんな、豪華な出演者が、
あっさりどうなるのか、
それも、本作の楽しみなのではないでしょうか。
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『デット・ドント・ダイ』のポイント
日常の延長にある、ゾンビという異常事態
オフビートにこそ、ブラックな笑いがある
あくまでも、メタなフィクションに
以下、内容に触れた感想となっております
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ゾンビ作品
映画に限らず、
「ゾンビ」を扱った作品というものは、
ホラー作品といういより、
それ自体で、一つのジャンルを形成している、
そう言っても、過言では無いでしょう。
しかし、
一概に「ゾンビ系」の作品と言って一括りには出来ず、
その状況によって、
大きく3つに分ける事が出来ます。
それは、
ゾンビ・パンデミックの
初期、中期、蔓延以降の世界、というものです。
ゾンビ・パンデミック初期の作品というものは、
平和な世界に、ゾンビが突如現われて、
社会がパニックに陥るという状況を描いています。
そんな、危機的な非日常下において、
人間の隠れたエゴや欲望が剥き出しになって行くのですねぇ。
ゾンビ作品の始祖的な存在、
ジョージ・A・ロメロ監督の、
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)
『ゾンビ』(1978)がそうです。
他には、
『バタリアン』(1985)や、
『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004)
『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)
『新感染 ファイナル・エクスプレス』(2016)など、
鉄板の名作が多いですね。
ゾンビ・パンデミック中期の作品というものは、
初期のパニックを乗り越え、
何とか生き残った人間が、
その状況下において、どうやって生きて行くのかを模索する作品となっております。
危機的状況を乗り切ったはいいが、
アドレナリンが低下し、
ふと、虚脱状態になり、
自分の来し方行く末に、思いを馳せてしまうのですね。
スティーヴン・キングの原作を基にした『セル』(2016)とか、
映画版の『ワールド・ウォーZ』(2013)もそうですね。
ゲームの『デッドライジング』(2006)も、
ゾンビ・パンデミック初期~中期を扱った名作ですね。
怖いのは、ゾンビそのものより、
状況に適応してしまったサイコな人間そのもの、
みたいな描写が多い印象ですね。
ゾンビ蔓延後の世界を描いた作品というものは、
世界にゾンビが居る事が、大前提の当たり前として存在し、
その状況下で、
人間が、新た社会を形成している作品と言えます。
正に『ゾンビランド』(2009)がこの状況を描いた典型的な作品の一つと言えます。
また、小説の『パンドラの少女』においては、
ゾンビを人間として教育するなんて描写も描かれていました。
他にも、ゾンビではありませんが、
『クワイエット・プレイス』(2018)や、
『アイ・アム・レジェンド』(2007)なども、
崩壊後の世界を描いているという意味で、共通点があります。
崩壊後の世界という前提を活かし、
悲劇を逆にコメディとして描いたり、
世界や概念のパラダイムシフトを描いて居たり、
一癖ある名作揃いと言えます。
その観点からすると、
本作は、
「ゾンビ・パンデミック」初期に当たる作品。
しかし、
本作の持ち味としては、
ジャンルとしてのゾンビ映画というよりも、
あくまでも、
ゾンビを題材として扱った、ジム・ジャームッシュ監督作品
といったテイストになっております。
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ジム・ジャームッシュが描く「オフビート」
ジム・ジャームッシュ監督作品というものには、
先ず、大前提として、
「日常」という確固たる存在が横たわっている印象を受けます。
それは、
ドキュメンタリーチックな作品だったり、
日常というルーティンから、はみ出てしまった一コマを捉えていたり、
あくまでも、日常を淡々と描いてみたり、
しかし、
それは日常であっても、
作品として切り取る事で、
「当たり前」なものが、
当たり前でありながら、オフビートな旋律を奏でるという、
職人芸的な「おかしみ」(=趣のあるユーモア)を創出しているのです。
そういう特質を持つ、
ジム・ジャームッシュだからこそ、
本作は、
ゾンビという非日常を、
逆に、日常に取り込むという離れ業をやってのけているのです。
まぁ、
言葉にすると、大仰ですが、
簡単に言ってしまうと、
ゾンビが出現したという状況においても、
何となく、
日常のゆる~い、ルーティンから抜けきれずにいるのです。
そして、更に言うと、本作では、
そういう、
無思考の惰性で何かに囚われて生きる事こそ、
ゾンビであると活写しているのです。
ゾンビになっても、
コーヒーを飲み、
スマホに没頭し、
(他人から見たらダサい)ファッションに拘ったり etc…
ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』において、
物質市場主義の大量消費社会に警鐘を鳴らしていましたが、
本作でも、
そういう観点を継承し、
無思考、無批判に生きる事の危うさを描いている、
の、かもしれません。
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日常の切り取りこそ、絶妙
まぁ、実際は、
文明批判をしていた隠者のボブが生き残ったりしたのは、
取って付けた感が否めませんが、
そのボブが、中盤に拾ったメルヴィルの小説『白鯨』は、
何となく示唆に満ちています。
『白鯨』という作品の要素を掻い摘まんで説明すると、
1:
絶対突破不可能な壁に挑む、エイハブ船長の復讐と狂気。
2:
ダラダラと続く、無駄で時代遅れなクジラ豆知識
3:
ラストに訪れるカタストロフィ
という要素があります。
こうして見ると、
本作の象徴となっていると、思いませんか?
ゾンビが現われても、何となくダラダラと続く日常の延長としてその状況を捉えてしまい、
それでも、
ゾンビ・パンデミックという絶望的な状況を打破しようとして、
最期は、
散華して終わる。
本作の構造そのものと言えないでしょうか。
また、
「このテーマソングは良い曲だ」「脚本を読んだ」とか、
メタ発言を繰り返すロニーは、
映画の文法から外れた発言(メタ発言)を行う存在であるからこそ、
日常から外れた存在であるゾンビにも、冷静に対応出来るという並列構造を有しています。
なので、
ロニーは、普通のゾンビ映画なら、
ゾンビ・パンデミックの状況に対応して、
ゾンビにマチェーテ(大鉈)を振るったり、
死者の首を落としたり、
ある種の、主人公的な頼れるマッチョな行動を取っているのですが、
日常のオフビートを描く本作においては、
それに軸足を持つ、
署長のクリフやミンディにとってはドン引きの行動と認識され、
それが、メインの反応となっているのですね。
また、
日常がメインであるからこそ、
ポン刀を振るう絶対無敵な金髪宇宙人(?)は、
デウス・エクス・マキナには、成り得ないのですね。
あくまでも、日常とは、自分が積み重ねた日々の延長。
だからこそ、
都合の良い救いなど訪れないと、本作は突き放すのです。
そんな本作で、私の好きなシーンは、
やはり、
日常を切り取った場面。
プリ尻の可愛い娘チャンに両替を頼まれ、
男連中3人共が、
半勃ちでポケットの小銭を漁るシーン。
そして、
クリフ、ロニー、ミンディの三人が、
ゾンビが通りを闊歩するという異常事態に、
どうする事も出来ずに、唖然と通りを眺めているシーンですね。
いくらポリスと言っても、
人間、いざ、異常事態が起きると、
どうすうる事も出来ないという様子を描きつつ、
部外者のゼルダが訪れた時に、
慌てて外聞を取り繕うのが最高です。
あと、
本作の登場人物には、
「~son」という名前の人が多いです。
クリフ・ロバートソン(Robertson):署長
ロニー・ピーターソン(Peterson):巡査
ミンディ・モリソン(Morrison):巡査
ハンク・トンプソン(Thompson):金物屋
ゼルダ・ウィンストン(Wintson):葬儀屋
これには、何か意味があるのでしょうか?
まぁ、
ゼルダ・ウィンストンのウィンストンは、
演じたティルダ・スウィントン(Swinton)のアナグラムになっているのですが。
こういう名前の事について考えるのも、いいかもしれません。
そして、
ダイナーを襲ったコーヒーゾンビを演じた、イギー・ポップ。
漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』の第三部に登場した、
コーヒー味のチューイングガムが好きなボストンテリアの名前がイギーであり、
その元ネタのイギー・ポップが、
コーヒーゾンビを演じていた事に、
何だか、感慨深いものを感じますね。
この様に、
小ネタを拾っていけば、
いくらでも楽しめるのが、本作『デット・ドント・ダイ』の良い所。
ゴリゴリのゾンビ映画を嗜好する向きには物足りないかもしれませんが、
それでも、
色々な楽しみ方を含んだ作品なのだと、
言えるのではないでしょうか。
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