映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』感想  夢の勝利とは、現実での敗北!?

CM監督として名を馳せているトビー。現在、スペインまで訪れてドン・キホーテを題材にした撮影をしているが、行き詰まってしまった。
しかし、ふとした事から、自分が学生時代に当地で自主制作した「ドン・キホーテを殺した男」という作品のDVDを発見。
気分転換がてら、トビーは当時のキャストに会いに行くのだが、、、

 

 

 

 

監督はテリー・ギリアム
主な監督作に、
『未来世紀ブラジル』(1985)
『バロン』(1988)
『フィッシャー・キング』(1991)
『12モンキーズ』(1996)
『ラスベガスをやっつけろ』(1998)
『ローズ・イン・態度ランド』(2005)
『Dr.パルナサスの鏡』(2009)
『ゼロの未来』(2013)等がある。

 

出演は、
トビー:アダム・ドライバー
ドン・キホーテ/ハビエル:ジョナサン・プライス
アンジェリカ:ジョアナ・リベイロ
ボス:ステラン・スカルスガルド
ジャッキ:オルガ・キュリレンコ
ジプシー:オスカル・ハエナダ
アレクセイ:ジョルディ・モリャ 等。

 

 

 

映画史上、最も呪われた企画として名高い(?)、
テリー・ギリアムのドン・キホーテ。

スペインで撮影に挑むも、
様々な災厄に見舞われ、結局映画が完成しませんでした(2000)。

そして元々、DVDの映像特典用に、ドキュメンタリーとして撮影していたモノを、
映画化中止までの顛末として映画化した作品が、
『ロスト・イン・ラマンチャ』(2002)。

 

まぁ、普通の映画ファンなら、
「ああ、そんな事もあったなぁ」と、
記憶の一ページに留めている程度でしょうが、

何と、監督は、
企画を諦めていなかった!?

主演(ドン・キホーテ役)が何度も代わり、
プロデューサーが代わり、
資金難に陥り、

権利問題が勃発し

途中、
何度も制作→頓挫を繰り返し、

とうとう、撮影にこぎ着けたのが、
2017年。

実に、
最初の撮影から、17年、
企画当初から考えると、完成までかかった期間は、19年越しの作品と言えるのです。

何だか、
この道のりに、思いを馳せるだけで、感無量な気持ちです。

 

…いや、
映画を観る前に、燃え尽きてどうする!?

という訳で、
本作『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』です。

 

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』は、
原題は『The Man Who Killed Don Quixote』、
直訳すると「ドン・キホーテを殺した男」でしょうか。

 

さて、そんな本作は、
ミゲル・デ・セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』が元になっています。

セルバンテスの「ドン・キホーテ」と言えば、
「風車を巨人と言って突撃する老人」の話というイメージ。

蟷螂の斧と言いますか、
蛮勇と言いますか、
滑稽で、愚かな、道化という、ふわっとした印象を持っています。

で、
原作は、一体どういった物語なのかな?
と、思って、確認した所、
岩波文庫換算で、5冊分の大長篇じゃないですか。

なかなかどうして、
奥が深そうですが、

その原作を元に、
オリジナル脚本で映画化した本作『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』は、
むしろ、

ドン・キホーテを読んだ事ない人が持つ、
ドン・キホーテというキャラクターに対するふわっとしたイメージそのままの内容です。

 

思い込みのままに、
我が道を行くドン・キホーテと、
彼に付き従う、従者のサンチョ。

そういう原作の「ドン・キホーテ」の構図を、
映画である本作でも、踏襲しています。

 

 

久しぶりに、
昔、自分が映画を撮った村を訪れたトビー。

自主制作映画には、全て現地の素人を使ったのですが、
サンチョ役は死亡、
ヒロイン役のアンジェリカは、夢を追い出奔、
ドン・キホーテ役を演じた靴職人のハビエルは、自身を「ドン・キホーテ」と信じる狂人と化していた。

きな臭いものを感じて、後ろめたくも立ち去るのだが、
追って来た「ドン・キホーテ」(ハビエル)トビーは捕まってしまう。

ドン・キホーテはトビーを、
自分の従者サンチョだと信じており、
已む無く、トビーはドン・キホーテの道連れとなるのだが、、、

 

 

原作は、
騎士道物語を読みすぎて、
自分を騎士だと思い込んでしまった男の物語だそうです。

そして本作も、
映画でドン・キホーテを演じてしまったが為に、
自分をドン・キホーテだと思い込んでしまった男の物語。
(を、監督のトビー目線で追います。)

そういった意味で本作は、
非常にメタフィクショナルな内容。

しかし、
メタフィクションとは何ぞや?
とか、深く考えずとも、
簡単に言ってしまうと、本作は、

夢、妄想、空想が、
現実と戦う話なのです。

 

 

確かに、
自分の事をドン・キホーテだと思い込んでしまっている老人というのは、

憐れで、
愚かにも思えます。

しかし、
それは一見の印象。

考えてみると、
どんな人間でも、
「自分の価値観」で、世の中を見ています。

そういう意味では、
無碍に笑い捨てる事が出来ない哲学的命題が、
「ドン・キホーテ」には内包されているのです。

 

原作を読んでいないので、確たる事は言えませんが、

恐らく、
原作のテイストを、現代にインストールした作品なのだろうとは、
想像がつきます。

 

世の中に疲れた、
大人の為のファンタジー物語、
『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』は、
そういう作品と言えるのかもしれません。

 

 

  • 『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』のポイント

夢と現実を巡るメタフィクション

夢と妄想の並列構造

誰がドン・キホーテを殺したのか?

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 夢と妄想の並列

本作『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』は、
非常にメタフィクショナルな内容になっております。

 

先ず、
どうやら、ドン・キホーテをモチーフにした映画?CMを撮影しに、
アメリカからスペインまでやって来た監督という、
トビーが最初に現われます。

このトビーの状況は、
中々、「呪われた企画」である「ドン・キホーテ」の映画を撮影出来ない、
テリー・ギリアム本人の状況と重なる感じがします。

 

そのトビーが、
過去に撮影した自主制作映画の出演者を訪ねるのですが、

純朴な村民であり、素人役者だった過去の出演者は、
映画の出演を切っ掛けに、
自らの、
夢、妄想に、それぞれ耽溺する人生を現代は送ってしまっています。

 

ヒロインを演じたアンジェリカは、
役者になるという夢を追って都会に出ましたが、
何の因果か、
現在は、ロシアの金持ちの情婦と成り下がってしまっています。

 

また、主役のドン・キホーテを演じた、
靴職人のハビエルは、自らをドン・キホーテだと思い込んでしまっています。

現在は、
村民の監視の下、半ば監禁状態で、
昔のトビーの作品「ドン・キホーテを殺した男」の映像に合わせて、
セルバンテスの「ドン・キホーテ」を朗読する日々を送っています。

 

夢を追って失敗した人物、
自分の妄想の中で生きる人物、
そして、創作映像という、作り物を売る人物。

それぞれ、
過去に「ドン・キホーテ」の物語に関わった人物達が、
全て、
フィクションの世界で、現実を生きているのです。

 

この構造が、本作のキモとなります。

普通、
メタフィクションを扱った作品というものは
作品の観客(読者)の現実→現実→物語→物語の中の物語
といった感じの、
マトリョーシカの様な、入れ子構造となっている作品が多いです。

しかし、そういう、
フィクションが直列に繋がった形のメタフィクションでは無く、

本作は、
フィクションが並列に存在し、相互に干渉し合うという形のメタフィクション
になっているのです。

 

私は鑑賞中、
本作は「メタフィクション」を扱った作品であると意識して観ていたのですが、

その為、何時、カットがかかって、
トビー(作中人物)が、アダム・ドライバー(現実の役者)に戻るのかと、
ヒヤヒヤしながら観ていました。

しかし、本作はそういう、
直列のメタフィクション作品では無いのですね。

 

本作は、
「ドン・キホーテを殺した男」から派生して、
主要登場人物が、
夢、妄想、創作の世界で生きており、
そのそれぞれが、現在、
交わって、お互いを否定し合うのですが、
結局は、お互いの「設定」を崩すまでは行かず、
歪な形ながらも、
お互いの世界観が並列、共存しています

しかし、
この空想に拠った世界観と反発するのは、
「現実」という確固たる事実です。

 

「現実」の側に拠る、
アンジェリカやハビエルの故郷の村民や、
金持ちのロシア人のアレクセイは、
「空想」を否定し、笑い飛ばし、破壊しようとします。

つまり、本作のメタフィクションの構造としては、
並列する「創作・空想」と、
確固たる「現実」とが接する時の軋轢を描いた作品であるのです。

 

現実は常に、
夢を捨てさせ、妄想を馬鹿にして、
目を醒まさせようとします。

しかし、本作は、
それを拒否します。

トビーは、
言うなれば、自らが創った「ドン・キホーテ(ハビエル)」が、
現実の前に屈する場面を目撃してしまいました。

しかし、
創作が現実に敗北する事を断固拒否する為に、
敢えてトビーは、
自らの現実を捨て去る事で、
ドン・キホーテという妄想を、ハビエルから継ぎ、死守する事を選択したのです。

 

謂わばこれは、
夢、妄想、空想、創作に対する、滅私奉公

19年もの長きに亘って、
作品を作ろうという意思を貫徹した、
監督ならではの意思表示が込められていると言えるのではないでしょうか。

 

  • スペイン金貨

さて、
現実を捨ててまで、
妄想を生き長らえさせたのが本作ではあるのですが、

そんな本作において、
一つ、解釈が難しい部分があります。

それは、
スペイン金貨です。

 

旅の遍歴の最中、
トビーは、死んだ牛にくくりつけられたバッグから、
貴重なスペイン金貨を見つけます。

金貨は、
作られた年代、場所、保存状況などにより、
その価値は、
10万ほどから、中には100万円を超えるものもあります。

トビーが夢中になるのも頷けますが、

作中、
このスペイン金貨が、
突然、謎の銅貨(?)に変わってしまいます。

何故、変化したのか?
金貨が銅貨に変化したのは、どういう意味があるのでしょうか?

 

先ず考えられるのは、
トビーが作中、土の中に埋まって、
目に、金貨を置いた場面。

目に、金貨を置くというのは、
あの世の渡し守カロンの船賃という意味があり、
実はそこから、トビーは死んでいたという解釈

しかし本作は、
メタフィクションという形を採っていても、

その描写は、
夢、妄想、創作といった、
あくまでも、現実に即したものとなっております。

なので、
途中で、作品全体が死後の世界へと転換したと解釈するのは間違いだと思われます。

 

そこで先ず、
金貨を手に入れた直後の展開を考えてみます。

トビーは、金貨を手に入れるも、
それを隠そうとして洞窟に転落、
多くの金貨を失いつつも、
洞窟内で、アンジェリカと再会します。

そして、
金貨が変化した場面も思い出してみます。

金貨が変化したのは、
物語終盤、城で、屈辱を受けたアンジェリカを慰めようとし、
逆に「どうせあなたは私を救えない」と罵倒されたシーン。

この場面で、
トビーは怒りに任せて金貨を投げつけます

しかし、
投げつけたモノは金貨だったのですが、
その直後、
プロデューサーがトビーと会話しているシーンでは、
金貨が銅貨(らしきもの?)=価値の無いモノに変化していました。

 

この事から推察するに、
金貨は、
現実に即した本作において、
唯一の象徴的なアイテムであり、
それは、アンジェリカとトビーの関係性に関わるものだと思われます。

 

先ず、アンジェリカとトビーが再開するシーンです。

トビーは、アンジェリカと再開しますが、
彼女の体には、虐待と思われる無数の痣がつけられていました。

これは後に、
アンジェリカを囲っているアレクセイの性癖の為だろうと推測されます。

さて、この事実は、
トビーにとって、
過去の美しい思い出が、
現在、現実によって損なわれている事を意味します。

それは、
金貨(美しい思い出)が、
手からすり抜けていったという状況と合致しています。

過去の自主制作映画で、
ドン・キホーテにとってのドルネシア姫を演じたアンジェリカは、
同時に、トビーにとっても、
象徴としての理想の存在「ドルネシア姫」だったのです。

 

そして、
金貨が変化した場面も考えてみます。

アンジェリカは、
トビーの雇い主(ボス)の取引相手アレクセイの情婦。

アレクセイからアンジェリカを奪って逃げるというのは、
現実的には有り得ない事です。

しかし、この辺りから、
現実に即した言動、ツッコみを入れていたトビーは、
「アンジェリカを救う」という英雄的な行為に邁進してしまいます

それは、
自らの姫を救うという、騎士道精神的な、
夢、願望、はたまた妄想の世界。

つまり、
現実的な価値観を捨て去り、
妄想に囚われだしたトビーの状況を、

金貨(現実)が変化するという出来事で、
示唆しているのではないでしょうか。

 

ドン・キホーテ(ハビエル)との遍歴の旅を経て、
トビーは、その影響を受け、感情移入して行きます。

ドン・キホーテはある意味、狂った(insane)人ですが、
自分が創作した、理想の存在としての聖人(saint)でもあるからです。

 

故に、
現実を捨て、英雄的な行為に進んでしまったトビーにとって、

ドン・キホーテを死なせるという事は、
理想を死なせるという事。

遂に、
トビーは「ドン・キホーテを殺した男」となるよりも、
理想を死なせない為に、
「ドン・キホーテになった男」を選ぶのです。

 

スペイン金貨をどう解釈するかの話だったのですが、
いつの間にか、タイトルの意味の回収になっているのが、
面白い所です。

 

 

 

結局、トビー自身はドン・キホーテとなってしまいます。

それは、
夢、妄想、創作が、
自らを殺そうとした現実から、訣別するという意味。

これは、勝利とは言えないのかもしれません。

しかし、
空想は、現実に負けない

本作『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』には、
執念で作品を完成させた、
テリー・ギリアム監督の信念が込められている作品だと、
言えるのではないでしょうか。

 

 

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