私の友人だったサー・ジェイムズ・ホートンは科学者であった。彼はその独自の研究により、死者の「脳」が語る生前の思い出を抽出、音声にて聞き取る事に成功したのだが、、、
著者はE・F・ベンスン。
1867年英国生まれ。
同じ「ナイトランド叢書」にて発売された
『塔の中の部屋』も記憶に新しい。
本作『見えるもの見えざるもの』は著者の第二短篇集『VISIBLE AND INVISIBLE』(1923)全12篇の完全翻訳です。
本作も、前作の『塔の中の部屋』同様、
真っ当なゴシック・ホラーと言えます。
怪異があり、事件が起こる。
その顛末を描写するストレートな怪談です。
何も足さない、何も引かない。
シンプルであるが故に、
恐怖という素材を上手く料理した作品を楽しめます。
しかし、本作はそれだけでは無く、
ホラー作品とはどういうものか?
ホラー作品を読む人はどんな事を考えるか?
という様な事に踏み込んだ
メタ的な怪奇小説もあります。
シンプルな怪奇小説、
ちょっとひねった怪奇小説。
これらが並び立つという事は、シンプルな面白さの怪奇小説も、意識してシンプル且つ面白いものを目指して作っているという事なんですね。
そんな職人気質な味すら感じさせる面白さ。
それが本作『見えるもの見えざるもの』なのです。
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『見えるもの見えざるもの』のポイント
ストレートな面白さのゴシック・ホラー
怪奇小説自体を意識したメタ・ホラー
独特な比喩表現の面白さ
以下、内容に触れた感想となります
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比喩表現の面白さ
小説作品において臨場感を出す場合、何をすれば良いのか?
読者の想像力を活性化させる為に、
著者は心理描写や風景描写を詳細に記述したり、リアリティのある設定で説得力を出したりします。
しかし、短篇の場合は限られた紙幅で簡潔に表現する必要もあります。
その時に採用されるのが比喩表現です。
上手くいけば、簡潔に状況を説明しつつ、共感も得られます。
本作『見えるもの見えざるもの』も、その比喩表現が見られますが、それに味があって面白いのです。
ちょっと長いですが、私の好きな部分を抜粋してみます。
「妻を殺そうと初めて思いついたときのことは、いまだにはっきりと憶えている。最初はごく小さな、辛子の種のような思いつきが、不毛の地に芽も出さず横たわっているだけであった。なんの具体的な考えも無い、漠然とした思いつき。それが、さまざまな思いのたぎる心の闇の養分を吸い上げていつのまにか発芽し、まだ白く柔らかい巻きひげが、ほどなくぽつんと陽光のもとに顔を出したのだ。」(p.140より抜粋)
どうでしょうか?
なかなか美しい比喩表現と言えるのではないでしょうか?
(思いつきは邪悪ですが)
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作品解説
では全12篇の収録作品の解説を簡単にしてみます。
かくて死者は口を開き――
普通に読んだら何て事ないと思いますが、実は読者の「読み」を意識したメタ・ホラー。
死者が口を開くという設定、「かくて死者は口を開き――」という題名、夫を殺した疑いのあるガブリエル夫人という存在。
これらから読者は否応無く二つの展開を意識します。
即ち
1:死んだガブリエル夫人の夫が口を開くのか?
2:ガブリエル夫人が死んで、真相を語るのか?
の二つですね。
著者は、読者にこれを意識させて、さて、どうなるでしょう?と読者の悪趣味さを計っているのが面白い所です。
忌避されしもの
普通にしていても、何だかムカツクわぁって人、居ますよね。
そんな人間には何らかの原因があったのかも?
そのワンアイデアにて書かれていますが、まるでジェイソンみたいにしつこい死体の描写に、恐怖と共にある種の笑いが誘発されます。
恐怖の峰
ストレートなゴシック・ホラー。
20世紀初頭はまだ、人跡未踏の部分が地上にあったのでしょう。
エベレストの頂上すら人でごった返している現在から見ると、ホラーより郷愁すら感じます。
マカーオーン
異界からの来訪者は、恵を(一方的に)もたらす反面、見返りを求める傾向があります。
ですが、この作品ではそういう事もなく、純粋に善意?で物事を解決しているのが、逆に不気味と思ってしまいます。
幽暗に歩く疫病あり
禁忌というモノは決して迷信では無く、避けるべき不幸を後世に伝承するシステムであるのです。
住んではいけない場所、避けるべき教訓、冒瀆行為、これらを留意しない人間には必ず不幸が訪れるという寓話と言えるでしょう。
農場の夜
人を呪わば穴二つ。
結局、罪悪感が見せる幻覚なのか?
呪い的な超常現象なのか?
その判断を読者に委ねているのが面白いです。
不可思議なるは神のご意思
人の苦しみを観察する事に無常の喜びを感じる女性が死に至るまでの顛末。
悪趣味ではあるが、罪とは言えないのではないか?
その言い訳を、自分で受け入れる事が出来なくなった時に、初めて罪悪感を覚え、自殺に至ったのです。
決して全てが邪悪な人間では無い所に、レディ・ロークというキャラクターの複雑な魅力があります。
庭師
何か起こるか!?と思いきや、特にそんな事もなく、普通に終わってしまいます。
ティリー氏の降霊会
降霊会に参加しようとしていた人間が死んじゃって、霊として降霊会に参加しちゃった!!
という、ギャグチックなホラーストーリー。
怪奇小説ではお馴染みの降霊会自体を茶化しているのが面白く、興味深いです。
アムワース夫人
吸血鬼モノ。
何やら下心のある者や、詐欺師連中、相手を利用しようとする者は、
最初は過剰に友好的に振る舞うものなのです。
気を許したらパクリとやられるのは今でも同じですね。
もっとも、現在において吸われるのはお金や時間、労働力ですが。
地下鉄にて
未来の予言というか、サインを見てしまった場合、どう動けばいいのだろうか?
結局決まった運命だからそれを見たのか、
もしかして、自分がそれを止めようと介入すれば、それが切っ掛けとなってしまうかもしれない。
図らずも未来を見て、傍観者と成らざるを得ないという消極的選択を採る哀しさを描いています。
ロデリックの物語
ゴースト・ラブストーリー。
怪奇小説の一種ではありますが、その着地点はハッピーエンド。
そこから逆算したかの様に、この短篇の雰囲気は悲壮感や恐怖感といったものが皆無なのです。
こういう怪奇小説もあるんですね
また、作中にて本作の収録作である
「アムワース夫人」「幽暗に歩く疫病あり」「忌避されしもの」を意識させる描写があり、語り手の「わたし」を作者自身となぞらえているのが面白いです。
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メタ目線の怪奇小説
本作の短篇はゴシック・ホラーが大半ですが、一方で
「かくて死者は口を開き――」「ティリー氏の降霊会」「地下鉄にて」「ロデリックの物語」
にはメタ目線が導入され、収録作全体に厚みを作っている。
読者に展開を予想させるのが目的の「かくて死者は口を開き――」。
怪奇小説でのお馴染みの降霊会という描写をパロディとした「ティリー氏の降霊会」。
予告された悲劇を止め得ない「地下鉄にて」。
著者が自分で自分の作品批評を始める「ロデリックの物語」。
一歩引いた目線で怪奇小説を解体し、
作者と読者が共有する「怪奇小説のお約束」の部分にスポットを当て、それをネタにしているのです。
そして、物語の構造を解体し、メタ目線で語れるという事は、
他のストレートなゴシック・ホラーも、
才能のみのゴリ押しの面白さでは無く、計算されたシンプルさと構造であると言えるのです。
同じ怪奇小説と言っても、
ちょっと違った読み味の物語を並べる事で、物語の技巧と構成も楽しめる短篇集となっています。
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降霊会について思う事
怪奇小説を読むと見かける事の多い「降霊会」や「降霊術」と言われるイベントがあります。
Wikipediaによれば、テーブルを囲んだセッション形式で死者の霊とコミュニケーションを図ろうとするものは、1840年代のアメリカで出現し、その後50年代のヨーロッパでブルジョワサロンを熱狂させたと記されています。
イメージとしては19世紀末~20世紀初頭にて流行した感じがあり、
その時代のイギリス怪奇小説を多く紹介する「ナイトランド叢書」にもその描写が多数見られます。
しかし、はっきり言うと、
私の場合「降霊会」の描写を読む度に、
「うわー、いい大人が非科学的な事に夢中になっちゃって、引くわー」と思っていたのが偽らざる所です。
ですが今回、「ティリー氏の降霊会」を読んでその考えを改めました。
「ティリー氏の降霊会」は、降霊会自体の虚構性・虚偽性をパロディとして扱った作品です。
これは、怪奇小説を全盛で書いていた20世紀初頭のイギリスの作品においても、その事をメタ的に描写する意識があったという事なのです。
つまり、
霊を呼び出すスピリチュアルな儀式として真面目に取り組んでいた人(=カモ)もいたでしょうが、
一方で、「降霊会」自体をネタとして楽しんでいた人も確かに居たという事なのです。
特に20世紀初頭のイギリスなどは秘密結社や魔術師が流行り、ガチのオカルトとして作品に導入していたというイメージがあった為、
怪奇小説の作者と言っても、そんな人間ばかりでは無いと知らされて目から鱗が落ちる感覚がありました。
確かに、考えてみるとそうです。
人間の意識とは昔も今も大して変わらぬもの。
きっと降霊会が流行った当時は、ちょっと日常から離れられる、ドキドキイベントとして刺激を楽しんでいた人が大半だったのでしょう。
そこで、ホストが演出として音を出したり、死者の霊に憑依されたフリをしても、それは「お約束」としてツッコまず、非日常をエンタテインメントとして楽しんでいたのではないでしょうか。
(一部のガチの人以外)
今から100年後から現在を見た場合、未来人はきっと、
「うわー、いい大人が『アベジャーズ』とか見て喜んでるとか、幼稚すぎて引くわー」と思う事でしょう。
現代を生きる私達が、『アベンジャーズ』を非日常のエンタテインメントとして楽しんでいるのと同じで、
当時の人も「降霊会」を楽しんでいたのだと、今の私は思うのです。
前作の『塔の中の部屋』が面白かったE・F・ベンスン。
本作『見えるもの見えざるもの』も、期待にそぐわず面白いものでした。
さて結局、「見えるもの見えざるもの」とは、どの作品の事を言っているのでしょう?
直接に描写しているのは「地下鉄にて」のp.267の部分だと思われます。
ですがそれに限らず、この「見えるもの見えざるもの」というのは、この短篇集自体のテーマを表す言葉でもあるのです。
「見えるもの見えざるもの」、つまり、
この作品の短篇はいずれも、既知が不可知に出会う時の相克を描いているのです。
ある作品は怪奇を描き、
ある作品は悲劇を描き、
ある作品は幸せを描く。
今まで見えていた常識が、怪異という見えざるものによって浸食される、壁が破れる瞬間を描いた短篇集、
それが『見えるもの見えざるもの』なのです。
『見えるもの見えざるもの』が気に入ったら、以下のリンクにて他の「ナイトランド叢書」のシリーズもチェックしてみてください。
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さて次回は、見知らぬ怪異に日常を侵食される、漫画『蟇の血』について語ります。