何処かの町のはずれの通りにある、黄泥街。住民は、糞をひり、ゴミを捨て、流言飛語を垂れ流す。住民は、死んだのか、死んでないのか、居なくなったのか、そうでないのか、町自体が、無くなったのか?、、、
著者は残雪(つぁんしゅえ)。
中国出身の作家。
翻訳されている著書に、
『かつて描かれたこののない境地』
『最後の恋人』等がある。
残雪。
何となく、スイーツ臭の漂う、厨二的なペンネームですが、
本著『黄泥街』を読むと、その印象に驚愕します。
その印象を一言でいうなら、
夢の具現化。
ここで言う「夢」とは、勿論、
寝ている時に見る夢の方です。
「夢」であるが故に本作は
脈略無く、
一貫性も無く、
奇妙奇天烈な言動が飛び交います。
一体何を言っているのか?
内容が、全く解りません!
正直、理解に苦しみますが、
何となく解る事もあります。
それは、
うんちぶりぶり!!
住民の会話には脈略が無く、
会話が途方も無い方向に向かい、
流言飛語が飛び交いますが、
それと同じか、
それ以上の割合で、うんこが飛び交います!
何を言ってるのかわからねーと思うが、
実際に読んで頂くと、
言っている事の片鱗を味わう事になるでしょう。
正直、内容は理解出来ません。
言っている意味も解りません。
それでも、
強烈なイメージだけを残して、
そして、
一夜にして溶けさって行く、
夢の様な作品、
それが『黄泥街』なのです。
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『黄泥街』のポイント
うんちぶりぶり
言葉のキャッチボールの暴投ぶり
唯一確かなのは、「不確か」な事、である
以下、内容に触れた感想となっております
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本作『黄泥街』は、
全く意味の解らない作品です。
それでも、
この作品に意味をもたせようと、
翻訳者の興味深い解説が巻末に掲載されています。
それを読めば、私の感想など必要もありませんが、
一読者の思った事として、
多少の意味のあるものとして、
お付き合い頂くと幸いです。
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奇妙な会話劇
本著『黄泥街』は、
最初に導入部があり、
その後の冒頭の「黄泥街」の紹介部分が大変魅力的です。
ゴミゴミして、汚穢に満ちた、
しかし、
何処無く懐かしく、ある種の活気溢れる町の様子が、
生き生きと描かれます。
これから、
この個性的な町で、
どんな奇妙奇天烈な事が起こるのか?
その期待感が嫌が応にも膨らみ、
傑作の予感が漂います。
しかし、
その期待感は、
アサッテの方向に裏切られます。
翻訳者によると、
本作は最初、
「現実主義」の手法で書いていたが、
次第に限界を感じ、
手法を変えたとの事。
その為か、
物語は、後半に向かうに連れて混迷を極めます。
そんな本作にて、
特に印象的なのが、会話劇。
例えば、
Aさんが失踪した人物の事を話題にしたとします。
それに対して、
Bさんはうんちの話題で返します。
すると、
Aさんはそれを受けて、
うんちの話題に転換すると思いきや、
やっぱり失踪人の事を話します。
Bさんもやっぱりうんちの話題を続けます。
本作では、
会話のキャッチボールが成り立たないのが基本です。
Aさんは、
Bさんに合わせてうんちの話題を語る事も無く、
然りとて、
自分の話題に合わせろとツッコむ事もありません。
それはBさんとて同じ。
お互いが、
お互い、その場その時で言いたい事を言い放して、
それで満足して会話が終わってしまいます。
また、
こんな奇妙な会話も見られます。
Aさんが謎の人物の話をします。
するとBさんは、
謎の人物など居ない、と否定しますが、
その根拠を語る段において、話題が別の方向に転換し、
結局、何故Aさんを否定したのか(読者には)解らなくなってしまいます。
珍しく、会話が成り立ったかと思ったら、
やっぱり、自己満足で終わります。
隙あれば、自分語りなのです。
そんな、会話しながら独り言を繰り返すような黄泥街の住民は、
更に奇妙な言動を見せます。
Aさんが、噂話を口にし、
Bさんが、別の話題をするとします。
すると、
Aさんは、Bさんの話題の中から、
自分の話題の都合の良い部分だけ抽出し、
さも、噂話が真実であるかの様に確信するのです。
その時点で、
噂話は、いつしか、
自分発の最新の情報として、(その人物にとって)意味を持つ様になるのです。
かくして、
黄泥街では、
住民の数と同じ位に、
本人にとっては確たる真実、
しかし、
他人にとっては流言飛語でしかない言説が飛び交います。
まるで、
匿名掲示板に見られる、
混沌として、延々と続く、得るもののない罵倒の繰り返しの様であり、
また、
SNSで見られる、
根拠の無い噂話を受け取った人物が、それを本当の事だと勘違いし、
事実として拡散して行く様子を見せられている様でもあります。
『黄泥街』が書かれたのは、
1987年。
しかし、
ネット文化の悪い部分を見せられている様で興味深いです。
かくして黄泥街では、
口にする事が、
全て(本人にとって)真実となり、
混沌を極め、エントロピーは増大し、
いつしか、
町自体の崩壊を招いたと思われます。
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解らない物語
「現実主義」を捨てて、作者が目指した結果、
この様な作品となった『黄泥街』。
『黄泥街』はまるで、
解釈を拒む様な、
むしろ、
解釈する事が不可能な作品を目指したとも思えます。
黄泥街では元々、
ゴミは川に捨てて、流れるままにしていたのだといいます。
しかし、
ゴミをゴミ捨て場に捨てる様になると、
そこからゴミが溢れ、
遂にはゴミを家の前に捨てる様になり、
それが際限なく繰り返され、町がゴミだらけになります。
ゴミ捨て場を作ったハズが、
逆にゴミが溢れているのです。
黄泥街に、王子光(ワンツーコワン)がやって来ます。
彼自身の行動や思考が描写されているにも関わらず、
しかし、
王子光は、たった一人の住民にしか出会いませんし、
黄泥街の住民も、
王子光の存在に疑義を唱えます。
果たして、
王子光が訪れた「黄泥街」と、
住民が住む「黄泥街」は同じものなのか?
それすら、読者には解りません。
王子光に会った唯一の住民の、胡三じいさんも、
自分が出会ったという事実を確と主張しません。
王子光がいた事は描かれていながら、
結局読者は、
その存在を、住民諸共、疑う事になります。
また、区長が居ます。
その区長が、王四麻(ワンスーマー)の実在を疑い、
王四麻の事を方々で尋ねていたら、
それが何時の間にか、
区長自身が王四麻だと噂される様になります。
王四麻を調べていた人物が、
王四麻自身だと見做される矛盾。
『黄泥街』は、
一事が万事、
理解の否定というか、
主観と客観が、
観察者と観察物が、
人物と話題が、
別のモノであるハズの、
自分と対象すらが、同じものとして、融解し、
混同されてしまいます。
結局、
個々の出来事を解釈する事は、
意味も意義も無くなり、
全ての別個のモノが、
並立して存在しつつ、
それを全て同一のモノ、
曖昧模糊としたドロドロとして内包するのが、
黄泥街をいう町と言えるのではないでしょうか。
翻訳者が解説にて指摘した、
「わからない」事というのは、
理解の否定、という事とも、言えるのだと思うのです。
しかし、本著『黄泥街』は、
汚穢と罵詈雑言に溢れ、
理解を拒否していても、
魅力的な物語です。
否定的な事を言いつつも、
何故だかその様子は活力に満ち、
汚らしい描写が多くとも、
郷愁を感じる。
滅びと崩壊を描きつつも、
しかし、
午睡で見る夢の如くに、
安らかなものを感じる。
冒頭と、
最後にて、黄泥街を探す人物、
それは、もしかして、読者自身かも知れない、
そんな、自分の過去の中にも存在しているような場所に、
思えるのです。
『黄泥街』は、
そんな不思議な作品なのだと感じます。
*書籍の2018年紹介作品の一覧をコチラのページにてまとめています。
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