映画『GODZILLA 星を喰う者』感想  英雄の死によってのみ、神話は完結する!!


 

ゴジラを倒す機会を逸したハルオ達。しかし、その絶望と失望から人々を救ったのは、メトフィエスが唱える「神への献身」というエクシフの信仰だった。生き残りのメンバーが次々と信仰に身を委ねる中、英雄として象徴に祭り上げられそうになったハルオは身を隠すが、、、

 

 

 

監督は静野孔文瀬下寛之

静野孔文はアニメ『シドニアの騎士』の監督、
そして劇場版『名探偵コナン』シリーズ作品、2011~2017まで手掛けている。

瀬下寛之はアニメ『シドニアの騎士 第九惑星戦役』『亜人』の監督、
劇場版として『BLAME!』を手掛けている。

脚本、ストーリー原案、シリーズ構成は虚淵玄

 

声の出演に
ハルオ:宮野真守
メトフィエス:櫻井孝宏
マーティン・ラッザリ:杉田智和 他

 

 

 

アニメ版「GOZILLA」シリーズ、
3部作の完結版が本作。

続きモノなので、
本作のみで楽しめる人は稀も稀。

第1部『GODZILLA 怪獣惑星
第2部『GODZILLA 決戦機動増殖都市

の二本を観賞済みである事は必須条件です。

 

さて、
第1部ではアクションを、
第2部では内ゲバを描いた「GODZILLA」シリーズ、

第3部の本作は、

宗教、
そして、観念の戦いを描いています。

 

ぶっちゃけ、
本作にて物語の中心に据えられているのは、

ハルオとメトフィエス。

本作のゴジラは、
圧倒的な存在として君臨し続けていましたが、

本作では物語のピースの一つとして、
背景の一部に下がってしまった印象です。

 

なので、
ゴジラの大暴れが見たい!!

という方には、少々物足りない部分があるのは事実。

 

しかし、
オリジナルと同じ展開でわざわざ作る必要も無く、

外伝としてなら、
こういうストーリー、テーマもアリだと割り切った方が楽しめます。

 

しかし、テーマ的にはメインから退いたとはいえ、

ゴジラのアクションの迫力は健在、

そして、
本作のもう一体のメイン怪獣である、

ギドラの存在感は、
中々の不気味さをもよおします。

 

光の加減、
フラクタルな模様など、

CGアニメーションならではの演出には目を瞠ります。

 

宇宙を放浪したのち帰還し、

変わり果てた地球にて、

ハルオ達旧世代に属する人類は、
何を見るのか。

彼等の行く先を、
刮目して観るべし!

 

 

  • 『GODZILLA 星を喰う者』のポイント

宗教、そして、観念の戦い

ギドラのデザインの美しさ、不気味さ

英雄の死で物語は

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • ハルオの物語、そのあらすじ

今回のアニメの「GODZILLA」シリーズ3部作。

本作『GODZILLA 星を喰う者』まで見ると、
結局、このシリーズのメインはゴジラでは無く、
ハルオという登場人物の物語だったという印象です。

 

第2部の『~ 決戦機動増殖都市』のページにて、
私は、「メカゴジラが暴れなくて物足りなかった」という感想を書きました。

しかし、
本作のテーマからすると、
ナノメタルをメカゴジラとして顕現させる事は、即ち、
怪獣をもう一体作る事であり、

「ゴジラ」という怪獣打倒を悲願とするハルオの物語という観点からすると、
テーマ的に有り得ないものだったのですね。

 

そして、本作のスタートは、
前作『~ 決戦機動増殖都市』のラストから直接続くものです。

つまり、
ゴジラを倒す為に、人を捨て、ゴジラ以上の怪獣(=メカゴジラ)に成るのを拒否した、
この選択から物語は始まっています。

端的に言うと、
ハルオはゴジラに敗北する事を選んだのです。

 

この事実に、
母船のアラトラム号では、ビルサルドがハルオの弾劾を唱えます。

一方、
地球の生き残りは敗北感と無力感に苛まれますが、

そこに付け込む形でメトフィエスが暗躍し、
自らが所属するエクシフの野望成就を図ります。

 

メトフィエスは詭弁を弄し、
エクシフの宗教への帰依を促します。

信徒を増やしたメトフィエスの目的、
それは、最終的には「ギドラの降臨」です。

 

エクシフの母星は、怪獣に滅ぼされたと言います。

しかし、それは正確な言い方では無く、
実際には、
ギドラに捧げられたというのが実状な様です。

 

この「ギドラに捧げられた」というのはどういう事なのか?

エクシフは、
その科学技術にて、人類の行く末を占いました。

しかし、
人類の進化の先には停滞と破滅しか見出す事が出来なかった。

そこでエクシフは、
進化の先の自滅より、
自主的に破滅に身を捧げる事を選びます。

自滅という行為は恐怖を伴いますが、
献身という行為には覚悟が伴うので、恐怖を超越出来るという思考です。

まるで『ジョジョの奇妙な冒険』の第6部、
ストーンオーシャンのプッチ神父みたいな言い分です。

そして、その手段として選んだのが、
この宇宙とは別の物理法則を持つ存在(=ギドラ)に、
星を滅ぼさせるという事です。

 

さて、ギドラとエクシフの宗教の関係ですが、


未来を見通し、絶望したが為に、
それを超越する為に宗教を産み出し、
「ギドラ」を召喚した

のか、


未来を見通し、
その結果「ギドラ」と接触し、母星が滅ぼされる事になったので、
その滅びを正当化する形で、宗教が産み出された

のか、

ギドラが先なのか、宗教が先なのかは、
作中では定かではありません。

パンフレットの設定では、「1」の方ですが、
物語のテーマ的には、「2」の方が面白いと個人的には思います。

 

エクシフは自らの宗教を布教させる為、
即ち、
宇宙をあまねく安寧に導くという使命の基に、
星々をギドラに捧げて回っているとの事です。

そして地球にて、
エクシフの神官であるメトフィエスが、
ギドラ召喚の依り代として選んだのが、ハルオなのです。

 

人類は、結局の所、群体である、
自由意志や個別意識を持つ者は稀、

なので、
強い自意識を持って行動する英雄的な人物一人を転向させる事で、
他の人間は全てそれに従って、群れて後を追う

その英雄にメトフィエスが選んだのがハルオであり、

後から振り返ると明確ですが、
メトフィエスは、
ハルオをエクシフの宗教的に添う形の思考に向かう様に、
彼の意思決定に介入していたのです。

 

メトフィエスはギドラを召喚し、ゴジラを襲わせ、
その完結として、
ハルオにもエクシフの宗教に入信する事、

つまり、「ギドラ降臨」を唱える様にと迫ります。

しかし、ハルオはこれを拒否。

ユウコを見殺しにし、
さりとて、ゴジラ打倒の機を逸し、
どっちつかずで、どちらも果たせず、
絶望に沈んだとしても、

その絶望に地球や他の人間を巻き込む事を拒否したのです。

 

  • フツアの民と、ハルオ

メトフィエスの誘惑を拒否したハルオ。

その一助となったのは、
フツアの民との交流でした。

 

フツアの民は、
相手が敵対していないと判断した後、
ワタリガラス、つまり、旅人であるハルオ達・旧世代の地球人を受け入れます。

この「受け入れる」とは、民族の融和、
もっと分かり易く言うと、
子供を儲けるという事です。

興味深いのは、
これまでハルオと友好的に交流してきたミアナでは無く、
その相手がマイナだった事。

フツアの民にとっては、
ワタリガラスを受け入れる事は、仕事の一環、
そこに、特別な感情は無いという事を意味しているのですね。

 

フツアの民は、
ゴジラを恐れても、
ゴジラを憎む事は無いと言います。

つまり、
フツアの民にとってのゴジラとは、
圧倒的な自然現象と同じであり、
日々の生活の一部の様な存在なのです。

フツアは、
ビルサルドやエクシフ、
さらにはハルオと違い、
ゴジラを排除する事を考えていません。

自分の身を省みずゴジラに挑んだハルオ、
人間を超えてゴジラ以上たらんとしたビルサルド、
ゴジラと共に、人も自然も捧げんとしたエクシフ、

どの道とも違う、
「人」として、命を連綿と繋ぐ道

即ち、
自然現象としてのゴジラとの「共存」を目指しているのです。

 

そのフツアの民、ミアナから、
春に咲く花を見せられたハルオ。

自分の名の由来となった自然現象を目の当たりにしたハルオは、

その自然を守りたいという思いもあって、
メトフィエスの誘惑を拒否したのではないでしょうか。

 

しかし、
最後の最後、
ハルオは、そんなフツア的な安寧すら拒否します。

マーティン博士から、
ヴァルチャーの復活を報されたハルオ。

制御法が失われたと思われたナノマシンも、
ユウコの生体の一部を使用して制御出来、
それにより、ヴァルチャーは起動し、
行く行くは、科学技術を復活出来ると知らされます。

しかし、
そこでメトフィエスの声が聞こえます。

「エクシフの神は敗れた訳では無い。時は我々の味方だ」と。

つまり、
科学技術が進行し、
人類がその進化の果てに、停滞を見出すならば、
再びエクシフの信仰が復活するというのです。

 

このメトフィエスの声。

これは、実際にメトフィエスが喋っているのでも、
ハルオの脳内にメトフィエスが居る訳でもありません。

メトフィエスによって思考を誘導され、
そう育ったハルオにとって、
エクシフ的な献身と浄化の思想は、
彼自身の主張と、根源的に通ずるものがあるのです。

つまり、
ハルオ自身の予感した将来が、
メトフィエスの声という形で表出し、
科学技術の進歩の危険性を警告した、という場面だと考えられます。

 

人間を捨てて怪獣以上の怪獣を目指したビルサルドの科学力、
人間を捧げて、救済を望んだエクシフ、

どちらも、
人間性の放棄を意味し、

故に、
ビルサルド由来の科学技術が、
将来、エクシフの信仰の復活を促す危険性に気付いたハルオは、

ゴジラへのカミカゼ特攻を選ぶのです。

エクシフの信仰の依り代として、作られた英雄のハルオが、
ビルサルドのナノメタルに浸食されたユウコを伴い心中したのは、

フツア由来の進化の果てには、
未来があるかも知れず、

その道を拓くために、
ハルオとユウコは退場せねばならなかったからなのです。

 

そして、
ハルオが、再びゴジラに挑む契機となったのは、
単純に、「怒り」の感情です。

自分と心を通わせたユウコの体を利用して、
科学技術を復活させるという行為が、

単純に感情的に受け入れられなかったのです。

 

考えれば、ハルオの行動は、
ゴジラへの怒りという一点で、一貫しています。

しかし、
ゴジラに敗れる事で、そのアイデンティティは崩壊し、

そこにメトフィエスに付け込まれる事になったのです。

メトフィエスにとっては、
ハルオがゴジラに挑んで敗れ、絶望し、

他人にその役目を仮託する(=ギドラを召喚する)事までを、
計算していたのです。

しかし、ハルオは最後の瞬間に、
ゴジラを超える事も、ユウコを救う事も叶わなかった自分が、
その自分の失敗の為に、地球諸共心中するのは、
おこがましいと、自分に怒った事が、
メトフィエスの提案を拒絶する事になったのです。

 

ハルオは、特攻する前に、
ミアナに、
ただ勝ち続ける(生き続ける)だけなら、
それは動物と一緒だと言います。

しかし、
物語のラストシーン、
フツアの民はヴァルチャーらしき人形を組んで、
それを「フツアの神」の前に建て、拝んでいました。

「恐怖を去らせて下さい」と。

ミアナは、
恐怖によって憎しみが生まれ
それに囚われる事で、
ビルサルドもエクシフも、
ハルオも滅んで行った(負けた)事を見てきました。

それを学んだからこそ、

自ら、フツアの民の勝利の為に身を引いた、
ハルオ(=ヴァルチャー)を拝み、
必要以上に恐怖に囚われない事を、
子供に教えているのですね。

学んだ事を、知識や経験として、
集団の中で受け継いで行く

それは、
野生動物でも見られる文化の継承ですが、

それも捨てたものでは無い、

最後は、そういった希望を見せた終わり方だったと私は思います。

 

ハルオ死にます。

英雄というのは、
戦乱の時代においては存在出来ますが、

一度、争いが終われば、邪魔な存在、

かくして、
英雄という存在は、
その死によってのみ、完結を許されるのです。

役目を終え、
その後の時代で崇められる所まで込みで、
英雄譚となるのです。

 

 

  • ギドラのあれこれ

先ずは、ギドラの顕現から。

ギドラがこの宇宙の物理法則から逸脱した存在、
という設定。

向こうの攻撃は当たるのに、
コチラの攻撃は当たらないというのは、
クトゥルフ神話を思い起こさせます。

また、
コチラの宇宙に顕現する為には、
事象の観測者が必要という解釈。

これは、
現在のSFネタとして、永らく流用されている、
「量子論」からのアイデアだと思われます。

日本では、
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ、
『ドラゴンボール』のセル篇、
そして、グレッグ・イーガンの諸作品の影響で、
現代の作家達の一般教養として刷り込まれている知識ですね。

 

ギドラは、そのCGのエフェクト、
そして、
オープニングのフラクタル模様など、
本作で最も印象深いキャラクターと言えます。

しかし、その能力は、
見ただけでは理解し辛い。

それ故、本作では、
ギドラの活躍シーンには、
実況、解説が伴われています

特に面白いのは、
アストラム号がギドラの襲撃を受けるシーン。

ただ、やられるのでは無く、
船の被害の模様を、
オペレーターがライブ実況する事で、臨場感を盛り上げています。

地上での
ゴジラ対ギドラの実況、解説を行ったのは、マーティン博士ですね。

実況、解説で盛り上げるのは、
『キン肉マン』のテリーマン、
『グラップラー刃牙』の本部以蔵、
『新世紀エヴァンゲリオン』の赤木リツコ etc…

ぱっと思いつくのはこの辺りですが、
ちょっと分かり難い展開を、
物知りの人に解説してもらう事で、
サプライズと状況を盛り上げる効果があります。

 

また、ギドラが黒玉の重力場(ブラックホール?)から出現するシーン。

遠くから、徐々にギドラがぬめり出てくる、
非常にカッコイイシーンですが、

このシーンも、

ウルトラマンの変身シーンや、
ドラマ『西遊記Ⅱ』玉竜の変身シーンなんかを思い出させます。

 

こういう、
先行する特撮やSFのネタとして使うのは、
ネタとして面白いものがあります。

 

あと、
ちょっと残念だったのは、
ギドラのスケール感がイマイチ伝わらなかった事。

ゴジラと比肩するという事は、
巨大なのでしょうが、

その戦いを遠景で描く事で、
結局は比例するものが無い為に、
「単純なデカさ」の説得力が出なかった印象です。

折角、「星を喰う者」という煽り文句があるのなら、
ここは一つ、
月とか、火星とか、
パクッと食べる描写があれば、面白かったと思います

 

 

 

 

「ゴジラ」という絶対ブランド。

しかし、「ゴジラ」シリーズの持つお約束というものから、
本作のアニメ「GOZILLA」3部作のシリーズは、
完全に逸脱したものとなっています。

「ゴジラ」を絶対的な存在として君臨させ、

物語の中心には、ハルオというキャラクターを置き、
彼の人間としての感情の揺らぎをストーリーの軸としたシリーズなのです。

 

新しい事にチャレンジし、
それを貫徹した作品、

本作にて、ゴジラファン、
アニメファンの両方に、
何らかの想いを残せれば、

このプロジェクトは成功だった、
そう言えるのではないでしょうか。

 

 

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