とあるサイトの呼びかけに応じて集まった子供達。彼達の目的は、共に自殺する事。自殺の前に、その事について話し合おうと主催者のサトシは提案する。しかし、12人の定員のハズが、何故だかその場には13人いて、1人、既に死んでいた、、、
監督は堤幸彦。
主な監督作に、
『トリック劇場版』(2002)
『イニシエーション・ラブ』(2015)
「20世紀少年」シリーズ 等がある。
原作は冲方丁の『十二人の死にたい子どもたち』。
出演は、
アンリ:杉咲花
シンジロウ:新田真剣佑
ノブオ:北村匠海
サトシ:高杉真宙
メイコ:黒島結菜
リョウコ:橋本環奈 他
12人の見知らぬ子供達があつまり、
集団安楽死を目論むが、
何故かそこには、イレギュラーの13人目がいて、
既に死んでいる、、、
この設定だけで、
面白さが保証された様な作品が、
本作『十二人の死にたい子どもたち』です。
さて、では、予告編を観てみましょう。
この予告編を観た印象だと、
イレギュラーの13人目が残りを殺して回る、
密室でのデス・ゲームが始まる!!
…ように思うかもしれませんが、
そんな事はありません。
そもそも、
本作は、デス・ゲーム系の話では無いのです。
というか、
本作は、
ミステリ的な要素がありつつも、
ミステリがメインですらありません。
端的に言うと、
殺し合いが観たい方、
謎解きが観たい方は、
なんとな~く肩透かしを喰らいます。
各人、各様の事情があり、
それ故、自殺を目指して集まった12人(+α)。
本作では、
その各人の事情と、
キャラクターの個性、
それを演じるフレッシュな役者の演技を楽しむ。
そう割り切って観るべき作品だと思います。
十代の「死にたい」人間が集まった何が起きるのか?
まぁ、こういう事になるかもね。
そんな感じの感想になってしまう作品、
それが『十二人の死にたい子どもたち』です。
あ、
あと、これだけは言わせて!
『北斗の拳』で、
巨大ババアに会ったケンシロウはこう言いました。
「お前のようなババアがいるか」
私は本作の新田真剣佑を観てこう思いました。
「お前のように筋肉ムキムキの病人がいるか」と。
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『十二人の死にたい子どもたち』のポイント
映画版、真剣10代しゃべり場
意思疎通の大切さ
空気を読むのが日本人
以下、内容に触れた感想となっております
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予告編が、既に仕掛け
本作『十二人の死にたい子どもたち』は、
その予告編の、
「この中には、人殺しが混じっています」
「死にたいから、殺さないで」
そういうセリフから、
密室でのデス・ゲームを予想させられます。
しかし、
それはミスリード。
実は、
ミステリ的な「騙し討ち」は、
予告の時点から始まっていたのです!
予告から予想される作品の印象は、
アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』か?
萩尾望都の『11人いる!』か?
クエンティン・タランティーノの『レザボア・ドッグス』か?
『バトル・ロワイアル』か?
多くの人間が、
おそらくは、
残虐な殺し合いを予想し、
そして、
そんな過激な方向性を観客は望むと分かっていて、
「煽り」を入れる予告を作る。
観客の嗜虐性を刺激する予告から、
本篇は、
それとは真逆のヒューマニティを謳うラストの展開をもってくる。
謂わば、
観客の趣味、嗜好で釣っておいて、
「それは間違っている!」と説教を始める作品、
それが本作『十二人の死にたい子どもたち』なんですね。
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映画版、真剣10代しゃべり場
さて、
殺し合いをしないなら、
彼達は何をするのか?
それは、
「真剣10代しゃべり場」を始めるのです。
「真剣10代しゃべり場」とは、
かつてNHKで放映されていたTVバラエティ番組です。
(2000年4月~2006年3月)
10代の人間が10名前後集まり、
とあるテーマについて、
それぞれの主張をぶつけ合う。
10代故の、
見識の無さ、浅薄さ、思い込み、自己主張の強さ、
そして、純粋さがウリの作品でした。
本作は正に、それ。
今回のテーマ「自殺の是非」について論じた、
映画の特別版、といった印象です。
本作をオチまで観ると、
皆、本当の事を、
他の人間にキチンと言わない。
その事から、
そもそも、謎でも何でも無い所に、
ミステリが生まれています。
それと同じで、
本作の「子どもたち」が抱える悩みは、
大人から観ると、如何にも小さいものばかり、
悩みでも何でも無い事ばかりです。
目の前の悩みだけに、
真剣に考え過ぎなのです。
生きていると、
その悩み以上の苦悩と苦痛と屈辱が、
いくらでもあります。
しかし、
10代であるが故に、経験の少なさから、
目の前の困難が絶大かつ絶対的な絶望だと、
感じてしまうのですね。
しかし、
その純粋さ、
真っ直ぐさが、若さ故の力でもあります。
本作では、
その力点を、自殺の方向に誤って向けています。
それを、
どのように物語としてまとめるか?
その点、困難であり、
期待する所だったのですが…
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空気を読んだ結末
本作では、
「自殺をする」という意思を誰も貫徹せず、
「やっぱり、や~めた」と皆が言い出して終わります。
そんなんで、良いのか?
自らの人生の困難に絶望し、
自殺しか無いと覚悟を決めて、
若さ故のほとばしりを、負の方向に向けてしまったのではないのか?
最後の多数決、
あれは、
あのシーンは恐ろしいです。
生きようと主張する人間が現れた。
一人が賛同し、
二人目が賛同し、
徐々に皆が賛同し、
全会一致で可決されます。
何となく、
場の雰囲気で、流されて、自殺を止めてしまっていないか?
いや、
そもそも、自殺自体、思い付きなのか?
「死ぬ」という事を、フワッと決めて、
だから、
「生きる」という事も、フワッと決められるのか?
「死ぬ」という緊張感から解放されたから、
最後は笑っていたのか?
むしろそこは、
「死ぬ」という初志を貫徹出来ず、
悔し涙を流し、陰鬱な雰囲気で帰る所ではないのか?
「死ぬ」という最後の選択すら、
場の空気を読んで決めてしまう、
日本人の民族的悪癖を描いたシーンと言えるでしょう。
知らぬ間に、他人の主張の影響を大きく受ける、
自分の意見を変える事に、ためらいが無い、
そういう身軽さこそ、
若さ故の特権です。
12人という人間が、
それぞれの主張を持ちながら、
ネガティブな方向では無く、
最後には生きるという選択をする。
結果自体は素晴らしい事です。
しかし、
作品として、意思として、
人間が簡単に自説を翻し、それをなぁなぁで許し合う、
その軽佻浮薄さを描くのは、
人間の浅薄さを観せられている様で、心苦しい感じもします。
簡単に死んだり、殺したりする事で、
命を粗末に描く作品も多いですが、
「生きる」事を選んで、
逆に命の浅薄さを描くというのが、
本作の隠れたテーマなのかもしれません。
ミステリ作品の様でいて、
ミステリでは無い。
デス・ゲームを始めそうで、
デス・ゲームでは無い。
ヒューマニティを謳いながら、
命の浅薄さを描く。
一見する所の印象の、
悉く裏を行く作品、『十二人の死にたい子どもたち』。
「ハッピーエンド?」を描きながら、
とても、そうは思えない、
なんとも、不思議な印象の作品です。
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冲方丁(著)の原作小説はコチラです
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