1949年、冷戦下において、ソ連陣営に組み込まれていたポーランドにおいて、3人の男女が国立のマズレク舞踏団を立ち上げた。その候補者の選別時、歌唱担当のピアニスト・ヴィクトルは、荒削りな才能を持つズーラという問題児に惹かれる、、、
監督は、パヴェウ・パヴリコフスキ。
ポーランド、ワルシャワ出身。
監督作に、
『マイ・サマー・オブ・ラブ』(2004)
『イリュージョン』(2011)
『イーダ』(2013) 等がある。
出演は、
ズーラ:ヨアンナ・クーリク
ヴィクトル:トマシュ・コット
カチマレク:ボリス・シィツ
イレーナ:アガタ・クレシャ
ジュリエット:ジャンヌ・バリバール 他
『ジョジョの奇妙な冒険』って漫画があるじゃないですか。
その、第三部の登場人物に、
エンヤ婆というスタンド使いがいます。
初期に出て来た割には、
かなりのスタンドパワーを持つ存在であり、
そのスタンド能力のみならず、
DIOの腹心的ポジション、
また、
その奇妙奇天烈なキャラクターにて、
人気を…
人気は博して無いな。
ともあれ、
エンヤ婆と言えば思い出すのは、
その泣き方。
「オロローン」とか言う、
意味分からない泣き声を上げていたのを覚えています。
オロローン!
さて、本作『COLD WAR あの歌、2つの心』。
本作、
まず目を惹くのが、
白黒の映像にて描かれる、
静かな映像美。
そして、
冷戦下のポーランド、
フランス周辺における、
数々の音楽です。
特に、本作においては、
監督曰わく、
音楽は第三の主人公とも言えるポジション。
その中でも、
特に印象に残るのが、
本作においてメインテーマとも言える、
「オヨヨーイ」という言葉が印象的な、
「Dwa Serduszka(2つの心)」という民謡です。
オヨヨーイ!
当初、
ヴィクトル、イレーネ、カチマレクの3人は、
地方を回り、民謡を収集し、
地域の文化を振興し、それを残そうと、
理想に燃えて活動し、
マズレク舞踏団を立ち上げました。
しかし、時は冷戦下のポーランド。
ソ連の影響は免れず、
いつの間にか、スターリンを称賛、忖度する歌謡曲を歌う様になってしまいます。
イレーネは舞踏団を去り、
ヴィクトルはフランスに亡命し、フランス版の「2つの心」を作曲したりします。
時代、状況によって、
千変万化し、色々な側面を見せる、
本作における「音楽」。
それと同様、
本作において描かれるは、
時代、状況によって、
様々な側面を見せる、
ズーラとヴィクトルの愛の模様です。
様々な音楽が奏でられつつ、
時代、状況、場所によって、
付かず離れず、
様々な側面を見せるのが、
本作の恋愛模様。
時代に翻弄されつつ、
その時々の「愛」を奏でる、
それが本作『COLD WAR あの歌、2つの心』なのだと言えます。
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『COLD WAR あの歌、2つの心』のポイント
時と場所、恋の空模様
冷戦下、様々に奏でられる音楽の数々
社会状況における文化の違いと、政治利用
以下、内容に触れた感想となっております
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文化の政治利用
『COLD WAR あの歌、2つの心』の舞台は、
先ず、冷戦下のポーランドにて始まります。
本作、白黒映像の作品。
監督曰わく、
当時のポーランドは、
その社会状況が、戦後の破壊の影響が免れず、
白と黒と線とで充分描く事が出来るからだ、と言います。
更に思うのは、
映像から「色」を抜く事で、
より、音楽の比重が、
本作においては重くなる効果が見られます。
スターリンの影響下、
1949年のポーランドでは、
芸術の「唯一の正しい方向」として、
音楽と舞踏の民族性の回帰が図られました。
言葉の印象では、
文化の復興と保護が目的とも取れますが、
しかし、
実態としては、
反社会主義的な芸術の排除という側面があり、
更には、
民族舞踏団の持つ民衆性、親しみやすさが、
それ故に、
文化が政治利用されるという矛盾を孕んでいました。
こういった形で、
政治が、文化を利用するのは、
何も当時のポーランドのみに限りません。
日本においても、
先日、商業捕鯨を再開させました。
こうした、
「国際社会にNOと言える日本」みたいな、
一見、ちょっと格好良く見える強気な態度が、
「日本固有の捕鯨文化を守る為」
という名目でなされ、
それが、
参議院議員選挙における、
当地の票田を狙った、
文化の政治利用という側面がある事を、
見逃す訳にはいきません。
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社会状況を映す、鑑
また、本作は、
当時の社会状況を、
その場面転換、時代変遷に合わせて描いてもいます。
1955年のユーゴスラビア。
フランスに亡命し、
無国籍難民状態のヴィクトルは、
ユーゴスラビアでのマズレク舞踏団の講演を見に行きます。
当時のユーゴスラビアは、
社会主義国家でありながら、
チトーがスターリンと対立した為、
アメリカの打ち出す「マーシャル・プラン」を受け入れる姿勢を示した、
ソ連とは距離を置く、「自主管理社会国家」でした。
ヴィクトルは、当地なら、
いわば、合法的にズーラに会えると思ったのでしょうが、
カチマレクの手引きで、
国外退去されてしまう様子が、本篇では描かれます。
また、
スターリン死去後、
フルシチョフがスターリン批判を行い(1956)、
それが、ソ連とその影響下にある東欧諸国の「雪どけ」を招きました。
それにより、ポーランドにおいても、
外国人と結婚すれば、海外で生活出来る様になります。
その制度を利用して、
ズーラはイタリア人と結婚し、
フランスに亡命したヴィクトルと同棲する(1957)のですね。
こんな感じで、
自分の知らない当時の社会状況も、
映画にて描かれると、
自然と、何となく、理解する事になる。
こういう側面があるのが、
映画という文化の面白い所です。
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愛と恋
そんな、
冷戦下のポーランド(とその周辺国家)における社会状況を背景として描かれるは、
男女の恋の物語。
普遍であり、
鉄板のテーマですが、
本作における「愛」の描写は、
恋人達の逢瀬に特化しています。
先生と生徒。
亡命者と本国に残った者。
収監者と面会者。
無職と人妻。
ズーラとヴィクトルは、
自分達に、社会的状況、倫理的な制約があればあるほど、
自分達の愛を燃え上がらせます。
その一方、
状況としては安定した場面だったハズの、
パリでの同棲関係は破綻してしまいます。
ヴィクトルが魅力手に見えなかったから?
ヴィクトルが、
「2つの心」を、
フランス人の自分の元恋人に訳させ、
それを歌わせようとしたのが気に入らなかったから?
勿論、
それは単なる言い訳であり、
二人の「愛」の性質は、
安定し、穏やかな状況で育むものでは無く、
危険やスリルと背中合わせの場合のみに感じられるものだからです。
ズーラは、
普通にヴィクトルと暮らしてしまって、
醒めてしまった、
だから、ポーランドに帰ったのですね。
その後、
ヴィクトルがズーラを追って、ポーランドに戻るのは良いとして、
わざわざ収監されるというのは、
一見、意味不明な行動の様に思えますが、
二人の関係性に着目したならば、
ズーラから見れば、
「ああ、私の為に人生を棒に振ってしまったのね」と、
彼女好みのシチュエーションを、ヴィクトルは演出しているのだと、解ります。
純愛というものがあれば、
一方で、
こんな、割れ鍋に綴じ蓋の様な、歪な「愛」の形もあるのです。
ズーラは、ヴィクトルを出所させる為に、
権力者となったカチマレクと結婚します。
二人の間には男の子が生まれていますが、
その描写がまた、闇が深いです。
カチマレクは溺愛している様子の息子。
しかし、その子供は、
初対面であるヴィクトルに関心をみせず、
人見知り具合を露わにしています。
子供が人懐っこいかどうかは、
親の性格の遺伝という側面もありますが、
それと同等なものとして、
親の育て方、ネグレクトが影響している場合もあります。
おそらく、
ズーラは、産んだ子供に興味が無いのでしょう。
母親が、子供を構わないから、
子供も、他人とのコミュニケーションに不全を見せる、
本作における子供の描写は短いですが、それでも、
ズーラが家庭的な存在では無く、
あくまでも恋愛体質である事を示しているのです。
彼女が、
安定した状況に安寧を見出せないとい事を、
端的に示しているのです。
また、ラストシーンも印象深いです。
冒頭でも映された、
寂れた、廃墟の教会にて、
ズーラとヴィクトルは、二人だけで結婚式を挙げます。
その後、
二人は睡眠薬らしきものを大量に服薬し、
十字路にて、手を繋いで座ります。
この十字路は、
これまた、冒頭にて映された場所です。
十字路は、古来より、
逢魔が辻と言いますか、
悪魔と出会う場所とも、
悪魔と取り引きする場所とも言われる場所でもあります。
作品の冒頭にて、
廃墟の教会と十字路が映されたのは、
二人の出会いと恋は、魔に魅入られたものだと暗に示していたのでしょう。
ラストシーン、
「あっちの、綺麗な景色を見に行きましょう」というのは、
此岸から、彼岸へと渡るという事。
二人は死を選ぶ事で、
「禁じられた逢瀬」でのみ燃え上がる二人の愛、
その瞬間を、永遠のものにした、
そう、言えるのではないでしょうか。
冷戦下のポーランド、
その社会状況、時代背景を描きつつ、
それらに翻弄され、
しかし、
そういう状況、制約があるからこそ、
燃え上がる愛を描いた『COLD WAR あの歌、2つの心』。
モノトーンの映像美と、
様々に奏でられる音楽の数々により描かれる、
不器用な愛の様子に、
心奪われる作品と言えます。
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