結婚を機に、アルゼンチンで暮らしていたラウラ。妹のアナの結婚式に呼ばれ、娘と息子を連れ、生まれ故郷のスペインの田舎町へと帰郷する。地元で父と住む姉のマリアナや、幼馴染みのパコとも再会し、結婚式は盛り上がる。しかし、途中で離席した娘のイレーネの姿が何処にも見当たらないのに気付き、、、
監督はアスガー・ファルハディ。
イラン出身。
『別離』(2011)
『セールスマン』(2016)にて、
二度、アカデミー賞外国語映画賞を受賞する。
他の監督作品に、
『彼女が消えた浜辺』(2009)
『ある過去の行方』(2013)等がある。
出演は、
ラウラ:ペネロペ・クルス
パコ:ハビエル・バルデム
アレハンドロ:リカルド・ダリン
フェルナンド:エドゥアルド・フェルナンデス
マリアナ:エルビラ・ミンゲス
ベア:バルバラ・レニー
イレーネ:カルラ・カンプラ 他
世間では、
山里亮太と蒼井優の結婚が、
「美女と野獣」ともてはやされております。
しかし、
美女と野獣、という意味では、
このカップルもそう言えるのか?
ペネロペ・クルスと、ハビエル・バルデムは、
共にスペイン出身、2010年に結婚し、
2児を持つ、リアル夫婦なのです。
ペネロペ・クルスも、
蒼井優と同じく、
過去、様々な俳優と、浮名が流れた女優です。
マット・デイモン、
トム・クルーズ、
ニコラス・ケイジ、
マシュー・マコノヒー etc…
(Wikipediaの記述を参考にしました)
そして、最終的に結婚相手として選んだのは、
『ノーカントリー』(2007)で、ちんぽみたいな髪型をしていた、
あの、ハビエル・バルデム。
『ノーカントリー』には原作小説があって、
その作者は、コーマック・マッカーシー。
そのコーマック・マッカーシーの小説『すべての美しい馬』の映画化作品(2000)には、
ペネロペ・クルスが出演しています。
そして、
ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスは、
『悪の法則』(2013)というコーマック・マッカーシーが脚本を書いた映画にて、共演しています。
二人が、良い関係を築いているのを考えると、
意外と(?)山里と蒼井も、上手く行くのかもしれませんね。
そして、
監督はアスガー・ファルハディ。
イラン人でありながら、
今回はスペインが舞台の、スペイン語作品を、
世界的に有名な役者を使って撮影したのが本作です。
さて、イランと言えば、
安倍晋三首相が、
日本の現職総理大臣として、41年ぶりにイランに訪れ、
且つ、
初めて最高指導者のハメネイ師とも対談すると言います。
(2019/06/13現在)
こちらも、正にタイムリーですね。
さて、前置きが長くなりましたが、
本作『誰もがそれを知っている』について語って行きます。
イレーネを探し、
泣き叫ぶラウラ。
それを宥めつつ、
必至に手助けするパコ。
そんなラウラの携帯にメールが届く。
「娘を誘拐した、警察に連絡したら殺す」と。
動こうにも動けない状況に陥る、ラウラとその家族。
ともあれラウラは、
仕事の用事でスペインに来られなかった、夫のアレハンドロに連絡を入れる。
一方パコは、妻のベアに、
「肩入れし過ぎだ」と、忠告を受ける。
そんな中、
再び犯人からメールが届く。
「身代金30万ユーロを用意しろ」と、、、
本作、
観た印象を端的にいいますと、
細部まで気を入れまくった、
徹底して、緻密な構成の作品
と言えます。
正に、
彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の作品なのではないでしょうか。
本作の基本は、
人間関係を巡るヒューマンドラマ
と言えます。
そして、
それと同時に、
徐々に明らかになる、
人間関係を巡るミステリーでもあるのです。
華やかな結婚式のお祭り騒ぎから急転直下、
誘拐という非日常が、
今まで隠されていた、様々なモノを暴き出して行きます。
それは、
直接的な言葉で明らかになる事もあれば、
目線、
言外の態度、
状況推理、
演出、 etc…
色々な表現が、
後に、様々な伏線として活きているのです。
映像という表現方法に、
役者の演技を掛ける。
この相乗効果によるリアリティが、
否応無く、観客をも、
重苦しい空気感に巻き込んで来ます。
濃密な人間ドラマと緊張感。
そして、
ミステリ的な謎解きの面白さもあるのが、『誰もがそれを知っている』。
この題名が示唆する所の意味を考えながら観るのも、
また一興な作品と言えるのです。
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『誰もがそれを知っている』のポイント
濃密な人間関係のドラマ
徐々に暴かれる人間関係を巡るミステリー
練られた演出と構成
以下、内容に触れた感想となっております
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誰もがそれを知っている
本作の原題は『Todos lo saben』。
これはスペイン語で、
直訳すると「誰もが知っている」となります。
英語題も『Everybody knows』である事から、
邦題である『誰もがそれを知っている』という題名も、
それらに準拠したものとなっています。
原題をそのまま変えなかったのは、
即ち、
この題名こそ、本作のテーマを表しているからと言えます。
誰もがそれを知っていながら、
敢えて口にせずにいた事。
そして、
誰もが、それを「思って」いながら、
敢えて口にせずに、問題化・議題化させていなかった事を紛糾させ、
それが白日の下に晒される時、
数々の葛藤が生まれる。
その人間ドラマを描いたのが本作と言えます。
「言わぬが花」
「臭いものに蓋をする」
「触らぬ神に祟りなし」
空気を読んで、
事なかれ主義で済ますという諺の数々がありますが、
本作を観ると、
「ああ、実際、人間関係って曖昧なままで済ませていた方がいい事って、あるよなぁ」
そう、思わずにはいられません。
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緻密な演出、構成
さて、
本作『誰もがそれを知っている』は、
端的に言うと、
誘拐事件の発生により、
常日頃、思っていながら口にはしなかった事が表出し、
それにより、
人間関係が破綻して行く様を描いた作品です。
その人間ドラマを描く為に、
色々と、細かい演出を繰り返し、
その伏線の積み重ねが、
観客に、様々な感情を喚起させる事になるのです。
本作は、
その意味で、非情に緻密に作り上げられた作品、
その演出の意図を色々と考える事に、
ある意味、ミステリ的な面白さがあると言えるでしょう。
例えば冒頭、
先ず、教会の鐘楼の内部が映ります。
鐘は鳴らせますが、
時計は止まっており、
文字盤の「五時」の部分が、欠けている様子が見て取れます。
暗示的な出だしです。
そして物語は先ず、
ラウラの妹、アナの結婚式から幕を開けます。
この結婚式が、
まぁ、陽キャのお祭り。
教会の司祭は、
説教よりも、金の無心をする始末。
また、
結婚式の様子をドローンで空撮し、
自宅での二次会でも、
歌え、踊れの大騒ぎです。
いやぁ、
私の様な陰キャだと、
絶対に、入り込め無い空間です。
…しかし、
そんな陽キャのお祭りにも、
実は、示唆的な演出が入り込んでいます。
先ず、
結婚式を眺める、地元の「呼ばれなかった系」の人達の目線、
これが、凄く陰険です。
この後、
確実に、何か良からぬ事が起こるのだと思わせます。
そして何故か、
結婚式のお祝いで、
歌っている歌詞が「あの日に帰りたい」!?
いやいや、
全く、結婚式にそぐわないでしょう。
かつて付き合っていて、
しかし、今はそれぞれ別の相手と結婚している
ラウラとパコ。
誰もが知っていたその関係ですが、
もしかして、
この二人は、未だ、想い合っているのではないのか?
もしかして、
止まった時計って、
二人の想いも、まだ、昔のまま、止まっているって事?
映画の冒頭なので、
二人の関係は、まだ、観客には理解出来ていません。
しかし、
映画の冒頭で、結婚式にそぐわない歌を皆が楽しそうに歌っていたという違和感は残ります。
その違和感が、
後に膨れあがり、鑑賞中、
「あ、もしかして、二人の関係を示唆した歌だったのかな?」
と、気付くのですね。
また、
本作は、
物語の転換点において、
「水」を印象的に挿入する演出が成されていると、
パンフレットにて松崎健夫氏が指摘していました。
言われると、その通り。
物語が動き出す、
誘拐発覚の場面でも、雨が降っていましたし、
犯人が判明するシーンも、
「水に濡れている、服、靴」が、それを示唆します。
パコがイレーネを迎えに行った時も、
川に何かが投げ込まれる音が聞こえますし、
ラストシーンも、
清掃員らしき人が、ホースで水を撒いているシーンで終わります。
「水」に着目して本作を観ると、
物語の転換点が自然と理解出来ると思われます。
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共通認識という、地元の空気感
そういう細かい演出にて、
物語を積み重ねる『誰もがそれを知っている』。
では、
誰もが知っている「それ」とは、一体何の事なのか?
それは、
ラウラとパコが、かつて付き合っており、
皆、
なんとなーく、
ラウラの娘のイレーネって、生まれたタイミングや、容姿を鑑みるに、
今の旦那のアレハンドロでは無く、
パコの娘なんじゃないのか?
という事です。
しかし、
それが主旋律としたら、
副旋律として、別の「言わぬが花」の本音も暴露されます。
それが、
かつて、ラウラ達の一家の使用人だったパコが、
現在、その一族の土地を買い取り、実業家として成功している事を、
ラウラ達は面白く思っていないという事実です。
ラウラの父、アントニオは、
かつて、当地の大地主だった模様。
しかし、
酒場で酔って絡んだ言い分によれば、
どうやら、賭けに負けて、土地を手放したとの事。
賭けに負けたり、
パコに売ったり、
そうして、今はかつての栄光を喪ってしまった存在なのですね。
で、
何故、酒場で土地絡みで喧嘩を起こしたのかと言うと、
金が欲しかったという事もあるのですが、
これは、
パコに直接「お前の土地、元は俺の土地だ」と言えないから、
他の人に八つ当たりをしている、
という側面もあるのですね。
その語のシーン、
パコが誘拐事件の対応を仕切っている事に、
ラウラの一家は、皆、なんとなーく、面白く無い。
遂に、アントニオは、
「俺の土地を安く買い叩いた、元・使用人の癖に、偉そうにするんじゃねぇ」
みたいな事を言ってしまいます。
これらの事を踏まえて、
ラウラの義兄のフェルナンドの友人で、
元・警察官だというホルヘの助言が、
様々なミスリードを生むのですよね。
我々観客の推理にも影響しますが、
作品の登場人物達の心に、
疑心暗鬼が生まれるのです。
もしかしてこの誘拐事件は、
イレーネが、父親と組んだ狂言誘拐なのではないか?
もしくは、
元々は自分達の土地だという認識が強いラウラの一家が、
パコに土地を売らせる為に仕組んだ意趣返しなのではないか?
そんな風に思ってしまうのですね。
以下、作品のミステリ部分の内容に触れた記述が含まれます。
とあるシーンで、
パコと妻のベアが、
ラウラの一家の食事中に乱入する場面があります。
そこで、
誘拐の事を話すと思いきや、
ベアが話題にするのは、
土地絡みのお互いの「本音」の話。
これは、
誘拐事件にかこつけて、
「パコに土地を売らせ」ようとする、ラウラの一家を牽制するのと同時に、
この事件にのめり込むパコに、
暗に、狂言誘拐の可能性があると示唆する場を設けているのですね。
誘拐を純粋に解決したい、
そう思っているラウラやパコの視点から観ると、
いかにも唐突なシーンです。
しかし、
この事件に、過剰に感情移入せず、
第三者でありながら、
自分達の土地を売られそうになっているという意味においては、
ベアは、当事者でもあります。
その冷静な目線から見ると、
事態が不自然な方向に進んでいると、
ベアからは見て取れる。
つまり、どんなシーンなのかと言うと、
「パコ、あなた、元カノに未練があるんじゃないの?」
そう口にはせず、あくまでも、その一線は越えず、
何とか、パコに思い留まって欲しいと考えるベアの、
必至の訴えである場面なのです。
そして皮肉にも、
誘拐事件は、
正に、ベアが考える通りのものであったのですね。
冒頭、
ベアが結婚式に行く時のドレスを友人(?)に披露している場面、
オバチャン達の井戸端会議の様子にて、
彼女達は、こう口にします。
「地元を出て行ったラウラは勝ち組で、地元に残った(ラウラの姉の)マリアナは負け組」だと。
これは、
誰もがそれを「思って」いながら、
敢えて、本人達の前では口にしない、
その界隈の共通認識であるのです。
ラウラは教会の屋根を修理する金を出す程の、お大尽と結婚した、
勝ち組だと。
それと同時に、一方で、
イレーネは、パコの娘なんじゃないの?というゴシップも囁かれています。
そして、ラウラの一家には、
パコが、不正に土地を入手したという認識が、
心の奥底にあります。
そういう鬱屈を抱えながら生きているのが、
マリアナという存在。
そして、
彼女が愚痴を実際に言っていたのかは分かりませんが、
そういう、親や一族、ご近所の共通認識の元に過ごしたのが、
マリアナの娘のロシオなのです。
文化や考え方、認識というものは、
その土地に拠って、大きく変化、感化されます。
「ラウラ(の夫)は金持ちだから」
「イレーネはパコの娘かもしれないから」
「パコが土地を売る事になっても、元は私達の土地だから」
ロシオにとっては、
ラウラやイレーネ、パコが不幸な目に遭っても、
それはある意味因果応報なのだと、
そういう思いがあったのだと推測されます。
つまり、
ロシオは、
ある意味、その土地に蔓延る根拠の無い共通認識とい空気感に乗って、
誘拐事件という「悪者叩き」を起こしたのですね。
しかし、
自分の起こした行為の結果が、
人間関係を徹底的に破壊する事になるとは。
人は、浅はかに起こした行為の代償を、
後になって支払う事になります。
物語は終わっても、
ここから、マリアナやロシオの地獄が始まる、
本作は、そういう事を示唆して終わってしまうのです。
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ラウラとパコ、アレハンドロの三角関係
そういう人間関係の絡みがドラマとして描かれる『誰もがそれを知っている』ですが、
それを、されに複雑にするのは、
ラウラと元カレのパコ、そして、夫のアレハンドロの三角関係です。
過去、好き合っていながら、
何故、ラウラとパコが別れたのか、
その経緯は、本作では述べられません。
とは言え、
「元・使用人との恋」
「パコが土地を買ったのは、ラウラ経由」
「地元を離れる事が勝ち組」
これらの共通認識を考慮すると、
本人達の意思より、
地元の社会的な観念、家族との関係を踏まえて、
外部的な抑圧により、
別れざるを得なかったのではないかと推測されます。
そして、結婚した相手が、アレハンドロ。
アレハンドロは、
見た目も渋いし、冷静な態度、言葉も立派ですが、
実際は、無職の中年。
(役者の年齢的には高齢者の範疇ですが)
典型的な、
何故か、女にはモテる、見た目倒しのタイプです。
とは言え、
家族に愛されているので、
優しい性格なのだと思います。
しかし、
それが、日常生活や非常事態に役に立つかは、また別の話。
言っている事は、一瞬、理に適っている様に見えますが、
よくよく聞いてみると、
神頼みを口にするだけで、自らは行動しない実行力の無さが際立ちます。
アレハンドロは、
酒に溺れていた自分が立ち直ったのは、
イレーネが生まれたからで、
だから神の存在を信じるし、
神が、イレーネを救ってくれる、
そんな事を口にします。
しかし、
それを言われたパコからすると、
「イレーネは俺の娘」だし、
「イレーネを救う身代金も俺の金」
つまり、お前の神って俺かよ!?
俺はそうじゃないのに、
勝手に存在しない神に祈って何もしない言い訳にするんじゃないと、
そういう思いが湧くのも当然なのです。
「こうなれば、俺が何とかするしか無い」
パコはそう思うのですね。
しかし、
パコがそう思う様に仕向けたのは、
勿論、ラウラです。
ラウラは、
「イレーネがパコの娘」であり、
「神頼みを口にするアレハンドロ」とパコが関われば、
必ず、身代金をパコが用意する事になる、
そう踏んでいるのです。
一方、
アレハンドロは最後まで「何も選択しない」事を選択し、
パコの金すら受け取らず、
私がこうまでお膳立てしたのに!
とばかりに、
ラウラにキレられているのです。
娘のイレーネを心配するあまり、
パコの好意を利用しまくったラウラ。
しかし、
付かず離れず、過去はどうあれ、幼馴染みとして良い関係を築いていた二人の関係は、
この事件により、
完全に破綻したと言えるでしょう。
何故なら、
イレーネの救出の代わりに、
パコは家庭を破壊され、財産も失ってしまったからです。
ラスト、
まるで逃げる様にスペインを立ち去る
ラウラとアレハンドロの一家。
このシーンも象徴的です。
アレハンドロは、
パコがイレーネを奪還した後、
「金は返す」と言いました。
しかし、
イレーネに「何故パコが助けに来たの?」
と質問され、
それに答えず、
沈黙を貫いたアレハンドロ。
答えはいくらでも用意出来たハズなのに、
スルーした態度に、
彼が、口だけで実行力の無い存在だという事を、
印象付ける場面と言えます。
また、
家から出発する時、
アレハンドロは「解決して良かった」とばかりにラウラにハグしますが、
当のラウラは「え?何?」と、困惑気味。
まるで、SEXの後、
片方は余韻に浸ってイチャイチャしたいのに、
もう片方は「は?もう終わったから、離れろよ」みたいな感じになる、
温度差を彷彿とさせます。
ラウラは、
娘が戻って、素に戻って、
パコの家庭をぶち壊したという事実に後ろめたい所があるかもしれませんが、
アレハンドロは、
「痛みに耐えて、よく頑張った」とばかりに、
まだ、事件の余韻に浸っているのですね、
自分は何もしてないけれど。
本作では、
最も奮闘したパコが、
最も不幸になって終ってしまいます。
とは言え、
パコは不幸になりましたが、
それに、後悔は無い、覚悟の上の行為でした。
翻って、
ラウラの一家はどうでしょう。
何もせず、
パコに憎悪をぶちまけただけでした。
しかし、
この後、イレーネが自らの出自に疑問を抱く事は確実ですし、
ロシオ絡みで、一悶着が起こる事も目に見えています。
結局、
起こった事の清算をしなければ、
ツケは後から支払わなければなりません。
ラウラの一家には、
これから修羅場が始まるのです。
「誰もがそれを知って」いながら、
口にしない事で、保たれていた平穏。
その共通認識が白日の下に晒される時、
露わになる人間ドラマと、
それにまつわるミステリとサスペンスを描いた作品、
『誰もがそれを知っている』。
徐々に息苦しさを増すドラマの面白さに加え、
犯人捜しのサスペンス、
演出意図を想像するミステリなど、
様々な要素が楽しめる、
凝った作りの良作と言えるのではないでしょうか。
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