映画『カツベン!』感想  観れば、ほっこり幸せな、映画エンタテインメント!!

100年前、映画の黎明期。
サイレント・ムービーが、本邦では「活動写真」と呼ばれていた時代。
映画に、節を付けて解釈を施す「活動弁士」が活躍していた。
大正14年。活弁を目指す青年・染谷は、詐欺まがいの講演を行うお尋ね者一派に身を置いていた。
一派から足抜けし、流れ着いた映画館「青木館」にて雑用を受け持つ事となった染谷。彼はそこでチャンスを得て、活弁として人気を博し、幼馴染みの梅子とも再開するのだが、、、

 

 

 

 

監督は周防正行
ピンク映画出身であり、堅実で、エンタテインメント性に満ちた映画作りのイメージがある。
監督作に、
『ファンシイダンス』(1989)
『シコふんじゃった。』(1991)
『Shall we ダンス?』(1996)
『それでもボクはやってない』(2007)
『終の信託』(2012)
『舞妓はレディ』(2014)等がある。

 

出演は、
染谷俊太郎:成田凌
栗原梅子:黒島結菜
山岡秋声:永瀬正敏
青木富夫:竹中直人
青木豊子:渡辺えり
茂木貴之:高良健吾
永尾虎夫:音尾琢真
橘琴江:井上真央
橘重蔵:小日向文世
木村忠義:竹野内豊 他

 

 

 

先日、行った健康診断の結果が戻ってまいりまして、
それに添付されていた封筒に
「大腸がん検診にて陽性を認めましたので、精密検査が必要です」と書かれていました。

どうやら検便にて、
血便が出ていたらしいですね。

え!?血便!!

いいえ、違います!

今から語るのは、
活動弁士を略した言葉を題名とした、
『カツベン!』についてですね、ええ。

因みに、
私は毎朝快便ですので、
大腸がんなんて認めませんよ!?

 

さて、

映画が勃興した100年前。

当時は、
映画に「声」や「音」はついておらず、

海外では、
上映に併せて、オーケストラの演奏なども行われていました。

いわゆる、サイレント・ムービーですね。

 

本邦では、
上映中、舞台の袖に立ち、
「画」を観ながら、客席に対して、
映像を解説、講釈し、内容を「語り」で説明する、
「活動弁士」略して活弁という存在が居ました

活弁は、
後に「トーキー」と呼ばれる「音、声付き映画」の出現により、
その多くが廃業に追い込まれます。

しかし現在でも、
歴として、活動弁士は存在しています。

 

本作『カツベン!』は、

その活動弁士に憧れる青年・染谷俊太郎を中心に、

活弁の活動と魅力を描きつつ、
ドタバタ展開のエンタテインメント作品へと仕上がっています。

 

 

ヤクザや泥棒、詐欺、裏切り、引き抜き、
逞しい連中を、多く、悪人として描きながら、

しかし、
作品全体としては、
何故か、懐かしい、上品な印象さえ受けるというこの不思議感。

鑑賞して、楽しい、ハッピーな気分になるというのは、
周防正行監督作品の真骨頂ではないでしょうか。

 

周防正行監督作には、
『それでもボクはやってない』や『終の信託』など、
シリアス系もありますが、
本作は、エンタテインメントに振っている、楽しい系ですね。

 

また、周防正行監督の映画作品と言えば、
「いつものメンバー」的な、
常連組が多く出演する事でも有名です。

本作でも、
竹中直人や渡辺えりが主要キャラにて、

また、
田口浩正、徳井優、草刈民代などの「いつものメンバー」も出演、

また、
前監督作の『舞妓はレディ』から引き続き、
上白石萌音や小日向文世といった人物も見られます。

新作の度に、安定して出演している役者の姿を観ると、
個人的には、同窓会的な嬉しさがあります。

 

活動弁士という職業、
かつての映画には、そういう役割があったのか。

そういう興味から入っても、
エンタテインメントとしての楽しさに夢中になれる。

『カツベン!』とは、そんな映画なのです。

 

 

  • 『カツベン!』のポイント

日本映画の黎明期、活動弁士とは何かを知る!

楽しく、ハッピー、エンタテインメント

「バイアス」がかかる事の自己批判

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 映画化作品の着眼点

周防正行監督は、
その映画化する作品の題材に、独特の方向性があります。

「エンタテインメント」に振る時と、
「シリアス」に振る時の振り幅がある事。

そして、
日本独自の文化、風習、社会を描く事に注力している事です。

 

『ファンシイダンス』では、禅宗僧侶の話、
『シコふんじゃった。』は相撲、
『Shall we ダンス?』は社交ダンスで、これは例外的ですが、
『それでもボクはやってない』では、痴漢冤罪と日本の司法について、
『終の信託』では終末医療を、
『舞妓はレディ』にて舞妓を描いています。

そして、本作にて描かれるのは、
活動弁士という職業。

本篇の最後にて挿入されますが、

この「活動弁士」という存在の為、
日本においては、
厳密には、サイレント・ムービーが存在しなかった、との指摘に、
「ほほぅ」と、思わされます。

 

  • 活動弁士と、字幕翻訳

さて、皆さんは、洋画を観る時、
字幕派ですか?吹替え派ですか?

私は、
役者本人の声が聞きたいので、字幕派です。

でも、ぶっちゃけ、
英語がちゃんと聞き取れないので、
吹替えの方が楽ですね。

 

しかし、
役者が発言している映画内の母国語を聞き取れず、

「字幕」なり、
「吹替え」なりの、
他人が翻訳した「フィルター」を通しているという点においては、

「映画そのもの」を、
正しく認識していない、
という事になるのではないでしょうか?

 

『カツベン!』にて描かれる活動弁士は、
現在では、その規模が縮小されています。

しかし、

「理解出来ないモノを理解する一助」という意味において、
現代の映画文化の当たり前として受け入れられている、翻訳や字幕というモノのは、
当時の活動弁士という存在と、その意義においては大差ない存在であり

本作は、その意義を問うているのかもしれません

 

  • 「バイアス」に対する自己批判

そういう視点で観ると、
永瀬正敏が演じた「山岡秋声」というキャラクターの本作における重要性にも気付けると思います。

 

染谷俊太郎の幼少期、
大正4年時代では、
彼の憧れの弁士として、名実共に評価されていた山岡秋声。

しかし、
主な舞台となる10年後の大正14年では、
酒に飲んだくれ、酔っ払い、
自慢の口上も投げやり、
心意気など皆無の、単なるアナウンスの様子に、

それを見守る染谷を失望させていた様にも観られました。

 

何故、山岡は飲んだくれ、落ちぶれてしまったのか?

それは、彼の台詞に現われています。
山岡は、以下の様な趣旨の発言をしていました。

「酔えれば、水でも、茶でも、良いんだ」
「映画はそれ自体で成立しているが、俺達(活動弁士)は映画無しでは存在し得ない」

この言葉に着目するなら、
山岡が自己批判的に、自虐するのも理解出来ます。

 

活動弁士としての名声、評価とは、
如何に、元のサイレント・ムービーに、
独自の節、解釈を付けて、ケレンミたっぷりに、観客に「自分」をアピール出来るか
それにかかっています。

しかし山岡は、
ある時思い至ったのかもしれません。

活動弁士としての力量、評価を高め、
自分が、自分がと前へ出れば出る程、
それは、
「映画」そのものの作品としての価値を貶めているのでは無いのか?

山岡の自虐的な態度には、
そういう葛藤が見て取れます。

 

作品中盤、
酔いつぶれた山岡の代役として、
彼の全盛期の口上をコピーする形で、染谷は登壇します。

そんな彼の口上を聞いた山岡は、激怒します、
「お前の口上は、有名活動弁士のパクリじゃないか」と。

 

悪くいってしまうと、
作品の内容を、自分独自にねじ曲げて観客に伝えている活動弁士という存在の、

更に、その口上をパクるという、

二重の意味での虚飾に、
山岡は耐えられなかったのです。

 

しかし、皮肉な事に、
それを咎められた染谷は、
活弁としての独自カラーを出す為に、

本来はラブストーリーであったハズの、
作中作のサイレント・ムービー「南方のヒロイン」を

観るに堪えない、
ちょいエロギャグストーリーへと、
彼の口上で変貌させるのです。

しかし、
エロとギャグは、観客には大受け。

 

その様子を見る山岡は、

本心としては、
映画の本意を貶めている染谷を責めたくとも、

散々活弁として活躍し、
また、染谷を焚き付けてしまった手前、

鬱屈を抱えるばかりで、
染谷を指弾する事は、到底叶わないのです。

 

そんな山岡も、
嬉しそうな顔を見せた場面がありました。

それは、
クライマックスでの、
ツギハギのフィルムを使った、
コラージュとしての、オリジナル作品の上映時に、

即興で染谷が、
それに口上を付けたシーンです。

ヤクザの嫌がらせで、グチャグチャにされたフィルムの数々。

その使える所だけを繋ぎ合わせたコラージュフィルムは、
いわば、
それ自体がオリジナル作品。

それに口上を付けるというのは、
そのまま、
オリジナル作品であるのです。

だから、山岡は、
オリジナルを演出した染谷の姿に、喜んでいたのです。

 

ラストシーン、
大金を発見し、
焼け落ちた「青木館」が復活出来るか?

という場面で、
山岡は憮然と立ち去ります。

このシーンに、
山岡の活弁としての活動意欲は、
映画館の焼失と共に消え失せていた事が窺えます。

もう、真っ平だ。

立ち去る山岡の背中は、
そう物語っている様にも、思えました。

 

さて、長々と山岡について語りましたが、
それが、本作において何を物語っているのかと言うと、

活動弁士という姿に、
監督は、
「何かを伝える」時の、フィルターとしての媒体は

もしかして、
その伝えたい物事の本質を歪める存在なのではないのか?

そういう葛藤と、
自己批判が、
私には垣間見られます。

 

周防正行監督は、
その作品が評価される反面、

僧侶はそうじゃない、
相撲はそうじゃない、
舞妓はそんな事しない、

など、
自称、有識者に、批判される事もまた、ありました。

 

何かを伝えたい、という想いと、

それを、作品として発表した時の、
自らの「バイアス(独自の方向性)」がかかった状態に、

もどかしい自己矛盾に陥っているのかもしれません。

 

それは何も、映画に限らず、
全てのメディアについて当て嵌まる事です。

物事、事実について、
その場、その時に居合わせ無い場合、

それを知るには、

ニュースや、本、口伝、SNSなどの、

他人が発したフィルターで、
バイアスがかかった状態で、物事を知る事になります。

しかしそれは、
物事の真実では無い。

本作の活動弁士という職業の描き方、

そして、
山岡秋声というキャラクターの描き方を観るに、

そんな事を、私は考えてしまいます。

 

けれど、
そういったメディアやエンタテインメントが、
全て、悪いとは、私は思いません。

そこで興味を持ち、
自らが、率先してそのものに直に接する時、

その時初めて、
自らの「体験」として、物事を消化する事になります

バイアスがかかった情報でも、
その取っ掛かりとしての第一歩になるのなら、

それはそれで、良いのではないか?

そう私は思うのですが、
どうでしょうか?

 

 

 

ちょっと詳しくは知らないけれど、

注目して見ると興味深く、
そして、文化として確実に存在している

そういう題材を映画化するのが上手い周防正行監督が今回取り上げたのは、
活動弁士。

 

この題材を、
エンタテインメントとして楽しく、面白く、ハッピーに昇華する流石の作品作りと、

その影に隠れ、
何かを伝える事の、
自己矛盾を孕んだ葛藤をも盛り込んだ作品『カツベン!』、

周防正行監督らしい、
細心の映画作品と言えるのではないでしょうか。

 

 

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