映画『この世界の(さらにいくもの)片隅に』感想  何重にも重なる「ありがとう」

昭和19年。18歳の浦野すずは、呉の北條周作の家に嫁ぐ。
慣れない土地で小姑にいびられつつも、戦時下、日々、一生懸命生きるすず。
ある日、道に迷ったすずは、遊郭に迷い込む。そこで出会った女性リンと、すずは心を通わせるのだが、、、

 

 

 

 

監督は、片淵須直
監督作に、
『この星の上に』(1998)
『アリーテ姫』(2000)
『マイマイ新子と千年の魔法』(2009)
この世界の片隅に』(2016)がある。

 

原作は、
こうの史代の漫画『この世界の片隅に』。

 

声の出演は、
北條すず:のん
北條周作:細谷佳正
黒村径子:尾身美詞
黒村晴美:稲葉菜月

水原哲:小野大輔
浦野すみ:潘めぐみ
北條円太郎:牛山茂
北條サン:新谷真弓

白木リン:岩井七世
テル:花澤香菜 他

 

 

 

2016年に公開され、
高い評価を得た『この世界の片隅に』。

『この世界の片隅に』について語ったページは、コチラ

制作費の拠出に、クラウドファンディングを行った事で話題にもなりました。

上映時間は129分。

『この世界の片隅に』では、
原作にあった「白木リン」のエピソードを大幅に削っており、

上映時間の兼ね合いや、
予算の都合上、
思い切ってカットしたという経緯があります。

 

しかし、映画のヒットに伴い、
「白木リン」関係のエピソードを大幅追加したバージョンが、
作られる事になりました。

今回の上映時間は、約167分。

実に、40分近くの追加映像、
約3時間の上映時間という大作に仕上がっています。

それが本作、
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』です。

 

 

さて、本作、
実に、ただ、追加シーンを加えた長尺バージョンという訳ではありません。

原作にあって、
映画版にはなかったエピソードを加える事で、

本作は、
前作『この世界の片隅に』とは、

違った印象、違った軸足、
拡がる世界観を感じさせます。

 

 

『この世界の片隅に』では、
呉の嫁ぐすずの目線で、
夫、周作、
小姑の径子と、その娘・晴美との関係性をメインに、
戦時下、日常を貫き通さんとする姿を描いた作品でした。

 

一方、本作『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、

親友となる「リン」の存在が加わる事で、

すずと、夫・周作
そして、
リンと、幼馴染み哲の存在が、
奇妙な三角関係の重なりとして描かれ、

恋愛と、夫婦のロマンス的な部分の印象、

 

そして、

自分の居場所を求める者の、心の彷徨をも、
共に、描かれています。

 

 

単なる長尺版というものでは無く、
新規エピソードを加える事で、
映画そのものの印象すら変えてきた本作。

前作を観て、ファンになった人は勿論、
全くの初見さんにも、本作はオススメ。

(因みに、どれが追加シーンかは、パンフレットに載っています)

『この世界の片隅に』を観るのは5回目くらいになる私でも、
上映時間の長さが全く気になりませんでした。

ラストシーン、
コトリンゴの歌が流れてくるタイミングで、
いつも、泣くんですけど、
大長篇らしく、
今回の鑑賞でも、万感迫る思いがしました。

 

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』、
オススメです。

 

 

  • 『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』のポイント

戦争という非日常の中、日常を生きるすずの生活

細部に込められた、作り込みの拘りと、意味

私の居場所

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 込められたシーン

『この世界の片隅に』では、
描ききれなかったシーン。

上映時間や、予算の都合上、

すずと、リンの交流のエピソードを大幅削除してはいましたが、
随所に、
リンと、テルの存在を感じさせるシーンが挿入されていました。

 

本作『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、
形式としては長尺バージョンですが、

前作を補完する完全版でありながら、

むしろ、
追加シーンを加える事で、作品としては、
前作とは一味違った印象を持つ事になります。

 

広島から、
呉に嫁いだすず。

北條家の周作と、
小姑で「出戻り」の径子と、その娘・晴美、
舅、姑、
伯父、伯母、
ご近所さんとの関係にて、

戦争と日常を描いていた前作。

本作では、そこに、

白木リンにエピソード、
つまり、

周作が、過去、
遊郭の女性であるリンに入れあげ、
彼女との結婚を家族に宣言し、

それを、制止させられたという設定。
(それを主導したのは、小林の伯父・伯母夫婦だったという事)

そして、
そのリンは、
すずが幼少時に出会った「座敷童」であり、

思わず知らず、
リンと心を通わせたすずが、

夫の昔の思い人が、当のリンと知った、
その心の葛藤などが、描かれています。

 

前作でも、
「裏表紙が切り取られた周作の手帳」や、
「軍の教練に向かう周作を見送るときに使う、紅」など、

リンや、テルの存在を匂わせながら、
その説明が全くないシーンが多数ありました。

追加シーンで、
その補完がなされていますが、

そういう側面よりむしろ、

すずとリンの関係性が、
周作を通して繋がっている事

そして、
その過去の周作のエピソードがあるからこそ、

水原哲と、すずが二人っきりで会話出来る様にと、
周作が取りはからった事

その意味が、
前作とは、また違った印象で、感じられる事になります。

 

単純に観ると、
すずと、リンと、周作の三角関係、

すずと、哲と、周作の三角関係、

この恋愛的なロマンスが強調されている風にも観る事が出来ます

しかし、それ以上に、
本作の追加シーンが加わる事で、より一層強調されるのは、

人生を送る上での、居場所を求める、拠り所の無さへの不安だと、
私は感じました。

 

  • この世界の「さらにいくつもの」片隅に

体調が悪くなったすずは、病院に行くも、
懐妊とはいかず、

その勘違いの顛末を、
リンに話に行きます。

「期待してくれた皆に、申し訳無い」というすず、
子供を産むという期待、義務感を全う出来ず、
居所が無いと感じる彼女に、
リンは、こう言います。

この世界に居場所は そうそう無くなりゃせんのよ

この台詞が、
本作のテーマを、如実に表したものだと思われます。

 

遊郭のリンとの結婚を諦める条件は、
幼少の頃、偶然出会った少女、すずとの結婚。

そう主張したという周作は、
身勝手であり、無神経であるとも言えます。

しかし、両親や小林の夫婦は、
それに振り回されながらも、すずを探し出し、
「リン」を諦めさせた。

叔母が「仲人を務めさせて頂きます」と、
結婚式の時に言っていましたが、

前作では何でも無いこの台詞も、
今作の追加エピソード込みで考えると、
小林の伯母さんが主導した、リンとの「離縁」だったと解ります

 

すず自身も、
数々の状況証拠、

周作の手帳の裏表紙の切り抜きと、
リンが持っていた身分証、

周作が「嫁に来る人の為に用意していた茶碗」の柄と、
リンの着物の柄の、

この共通点と、
不用意な発言など、
数々の断片をミステリ的に組み合わせ、

リンが、
思いを遂げられなかった、周作の昔の思い人だったと気付きます。

 

自分は望まれた存在では無く、
リンの代用品では無いのか?

「居場所は無くなりゃせんよ」と言われ、救ってくれた、当の相手に、
自分の居場所を揺らがされる
この二律背反が、本作では描かれます。

 

この「代替品」という要素は、
あり得たかも知れない可能性」というテーマとして、

本作では、そこかしこに配置されています。

 

テルは、
水兵と無理心中を行い、失敗し、
冬の川に飛び込んだ事で風邪を拗らせ、肺炎で亡くなっています。

もしかして、テル(と水兵)の境遇は、
周作とリンが辿ったかもしれない道だったかもしれず、

すずは、哲と夫婦になっていたかもしれず、

妹のすみと同じになっていたかもしれず、

またラストシーンの、
戦災孤児のヨーコが、
径子にとっての、あり得たかもしれない晴美と重なっています。

また、
これは原作での表現ですが、
すずが右手を喪って以降は、
作者のこうの史代も、
背景を「左手」(代替品)で描いており、
それでも、ガタガタの線で描く世界(背景:破壊された価値観)の様子が、
あり得たかもしれない右手(すずの想像力、創造力、表現力)の様子を、
痛々しく描いています

 

そして、様々な可能性があったと示唆されながらも、
その一方で、

本作では、
可能性が、厳然とした現実の前に、
無に帰してしまうという事も、共に描かれています。

 

それは、
晴美の死であり、
リンの割れた茶碗であり、
テルの打ち抜かれた紅であり、
すずの喪った右手であります。

リンは、
花見の時にすずに、この様な事を言います。

「秘密を胸にしまったままなら、それは無かった事になる」
「それはそれで、幸せな事なのだ」と。

大切な思い出を、自分の中だけで大切な宝物とする、
それはそれで、ゼイタクな事だと、リンは訴えるのです。

無くなる事は、ある種の救いであり、完結なのだと。

 

これは、リンと周作の関係性を語った事だと思われます。

しかし、
それに対し、すずが思ったのは、
思い出を誰かと共有する事、これはこれで、ゼイタクである」という事なのです。

 

端的に言いますと、
周作は、

すずが、
自分とリンとの関係に気付いた事を、知っていたと思います。

だから、
お花見で、リンと再会した時、
淡泊な挨拶で素通りしました。

 

過去は、過去の事として、
周作は、現在の、自分の選んだ可能性(すず)の方が、
今は、大事になっているのです。

それを、すずも気付いています。

すずは、周作と、
問わず語らず、
リンとの関係性を共有していますが、
そういう大事な事を、誰かと共有出来るという事

無くなってしまった可能性を「知っている」という事は、

あり得たかもしれない「現在」を体現している身としての、
未来への可能性の継承と、
言えるのかもしれません。

 

広島への原爆の投下直前、
すずは径子に「ここに居させてくれ」と、
自らの居場所を、選択します。

結果的には、
広島の実家は廃屋となり、

すみの見舞がてらに覗いたその場所には、
孤児の兄弟が住み着いており、

最早、自分の居場所は、
否応無しに、
北條家にしか無いという現実を突き付けられます。

しかし、
様々に存在した可能性の中から選択した結果の現在に、
すずは、
「この世界の片隅に、私を見つけてくれてありがとう」と言います。

 

本作では、追加シーンを盛り込む事で、
色んな可能性が増え、拡がった印象があります。

その上で、
日常、私生活、家族、社会、
幸も不幸も、清濁併せ、
共に、これを受け入れた上での「ありがとう」に、

本作の感動があるのです。

 

因みに、
ラストシーンの、
人攫いのカイブツの籠に、
兄のお嫁さん(?)のワニが入っていたのは、

もしかしたら、
何処かで兄も生きて居るのかも、
そういう可能性も示唆されているのかも、しれませんね。

 

  • テルの方言

本作の追加シーンの一つ、
テルとのエピソード。

テルを演じるのは、
今や、屈指の人気を誇る女性声優の花澤香菜

九州地方の独特の方言を語るキャラクターなので、
アフレコするのは、難しかったと思われます。

 

さて、テルの方言、
「知らん人やけん」(知らない人だよ)
「大繁盛たい」(大繁盛なの)
は、博多弁、

「知らん人っちゃ」(知らない人、と言うならば)
は、北九州弁、

となっています。

 

しかし、
同じ福岡県でも、
博多と北九州では、
その方言に、断絶があり、
これが混じって語られているという事に、
特徴があります

パンフレットには、
筑豊の地方の方言では無いのか?
との指摘がありましたが、
実際はどうなんでしょうかね?

 

原作の『この世界の片隅に』には、
こういう語られない、
読み手が色々想像、解釈出来る余地を多数組み込んでおり、

それを映画化した本作は、
その、ミステリ部分を解釈しつつも、

又、
謎は謎として残している部分もあり、

それを、自分で解釈してゆくのもまた、
面白い所です。

 

 

 

前作『この世界の片隅に』で積み残したシーンを追加した長尺版、
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。

単なるロングバージョンでは無い、

追加シーンによって、
映画の印象がまた、
変化するという本作。

良い作品は、
何回観ても良いものですが、

要素が加わるという事が、
視点が変わる事へと繋がるというのが、

今回の、幸せな発見でした。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』、

さらにいくつもの可能性を示唆した本作は、
やはり、良い作品なのです。

 

 

前作『この世界の片隅に』について語ったページは、コチラ

 

 

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コチラは、こうの史代の原作漫画『この世界の片隅に』の上巻です(全3巻)


 


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