映画『PLAN 75』感想  すぐ、そこにある、弱者切り捨てというディストピア

75歳以上の高齢者が、自ら死を選ぶ事が出来る制度「プラン75」が国会で可決された。
角谷ミチは、ホテルの客室清掃員。78歳ながら、未だ現役で頑張っていたが、同僚の高齢者が勤務中に倒れた事が切っ掛けとなり、退職させられてしまう、、、

 

 

 

 

 

 

監督は、早川千絵
長篇映画監督デビュー作で、脚本も兼ねた本作にて、
第75回カンヌ国際映画、「ある視点」部門に出品され、
新人監督に送られるカメラドール特別表彰を与えられる。

 

出演は、
角谷ミチ:倍賞千恵子
岡部ヒロム:磯村勇斗
岡部幸夫:たかお鷹
成宮瑶子:河合優実
マリア:ステファニー・アリソン
藤丸釜足:串田和美
牧稲子:大方斐紗子 他

 

 

2022年から、
年金の繰り下げ受給が、
最大、70歳から75歳まで延長されました。

年金の支給開始は、
原則として、65歳で、

繰り下げを請求する年齢、期間で、
5年で42%
10年で84%の増額率となります。

 

年金は、
自分で申請して始めて貰えるものなので、
何もしないと、
勝手に繰り下げ受給が始まります。

申請すれば、年金が貰えますが、
その時、
65歳時にさかのぼって受給するか、
繰り下げ受給という形を取るのかを選択出来ますが、

5年が時効で、
それ以上を遡って受給出来ないので注意が必要です。

 

又、
繰り下げ受給を選んでも、

その後の自分の寿命により、
何年生きた場合、
繰り下げ受給しなかった時より多く貰えるかが違うので、

一律で受給者が、儲ける制度とは言えないです。

 

年金受給期間の繰り下げを延ばしたのは、

これにより、
年金の申請漏れや、

寿命の関係で、
トータル、年金の支出を抑える事を目的とした制度であり、

結局は、パッと見、おいしい話に見えて、

受給者側のメリットは少ない場合も多いです。

 

 

 

そして、本作『PLAN 75』です。

75歳から死を選ぶ事が出来る制度、

と、言えば聞こえは良いですが、

それは、上っ面のお為ごかしであり、
その実態は、

社会全体で、
弱者の切り捨てを振興しているという、
恐ろしい出来事なのです。

 

 

本作で描かれる「プラン75」は、
先に述べた年金の繰り下げ受給制度を彷彿とさせるものであり、

完全なるフィクションとは言えず、

現実と地続きの未来を描いているからこその、
悲壮なリアリティに満ちた作品です。

 

 

そんな『PLAM 75』ですが、

主役の角谷ミチが78歳、
「プラン75」の申請年齢に達しており、
その彼女が物語の主役です。

それと同時に、本作においては、

「プラン75」にて働くスタッフ関係者、
申請窓口で働く市役所員、
コールセンターのオペレーター、
施設で働く海外労働者 など、

制度を取り巻く人間模様を広く描く事で、

社会全体に、
どれだけの影響を与えるのかという事を表しています。

 

リアリティがあり、
共感出来る部分が多々あるが故に、

より、
問題提起に満ちた作品。

近未来を予見するというより、

今、現在の社会の問題点すら浮き彫りにする作品、

それが本作、『PLAM 75』なのです。

 

 

 

  • 『PLAM 75』のポイント

現実と地続きのリアリティ

制度申請者、制度関係者、それぞれの人間模様

で、自分だったら、利用するのか?

 

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

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  • 追い詰められる老人

本作『PLAN 75』は、
近未来フィクションなのですが、

あくまで、現実と地続きのリアリティがあるからこそ、
その説得力が凄い作品です。

 

面白い映画は、起承転結がハッキリしていますが、
さらにその冒頭、
作品を印象付ける「つかみ」の部分があれば、
なお、ベストです。

 

本作においては、その冒頭、
老人ホームらしき場所で連続殺人を行った犯人が、
「老人負担が日本を滅ぼす」と主張するシーンがあります。

この衝撃のシーンは、
2016年、元職員の植松聖が起こした、
「相模原障害者施設殺傷事件」を、
明らかに彷彿とさせます。

この時点で、
問題提起において忖度しない本作の態度に、
ただならぬ覚悟を感じます。

 

そんな本作、

主人公の角谷ミチは、78歳。

ホテルの客室清掃員として、まだ、現役で働いていましたが、
同僚の高齢者が勤務中に倒れた事で、

リスク回避の、
事実上のクビを言い渡されます。

 

年齢が故に、
ハローワークでも、
飛び込みで突撃しても、
再就職は厳しい状況。

更に、
自分の住まいの団地が取り壊されるという事で、
新居を探しますが、

これまた年齢により、
どの不動産会社でも、
断られる始末。

 

角谷ミチは、いわゆる独居老人なのですが、
資産も、
家族も無い老人を、
社会は受け入れないという非情な現実を、
これでもかと、見せつけてきます。

これは、
社会のシステムであり、
弱き者を排除するこの風潮は、
映画の作り話では無く、
今、現在の日本の現状であるが故に、

本作の「プラン75」という政策が、
フィクションならぬ現実味を持っています。

 

映画内の印象的なシーンに、
客室清掃員仲間の老人達が、
健康診断で病院を訪れますが、

その受付のTV画面が、
延々と、「プラン75」を流している、
という場面があります。

まるで、
ネットのスポット広告の様に、
ピンポイントで老人に向けたこのメッセージを流す事に、
悪趣味な現実主義が見て取れます。

 

しかし、

社会全体で、
老人の逃げ場をどんどん排除し、
「プラン75」へと、

まるで、
自分の意思で決めたかの様に追い込むこの手法には、
残酷さを禁じ得ません。

 

  • 周辺を描く事で浮かび上がる問題点

『PLAN 75』の監督、早川千絵は、
そのインタビューにて、
本作を作った切っ掛けとして、
「相模原障害者施設殺傷事件」があり、
また、
社会全体が、弱者に厳しくなっていると感じ、

その問題提起として、本作を製作したと語っています。

 

この問題を語る手法として、
本作は、
「プラン75」を選択する(せざるを得ない)当事者の角谷ミチの他、

「プラン75」の窓口係、市役所職員の岡部ヒロム、
「プラン75」のケアテレフォンオペレーター、成宮瑶子、
「プラン75」の施設で働く事になるマリアという、

それぞれの、スタッフの視点をも、同時に描いています。

 

岡部ヒロムは、
「プラン75」の窓口係で、
制度を利用しようと、その窓口にやって来た、
疎遠な伯父の岡部幸夫と、偶然出会います。

三親等の近親者という事で、
担当から外されたヒロムは、
親戚として、個人的に、幸夫と付き合う事になります。

朝、ゴミ拾いをしている事、
出稼ぎが多く、その先で必ず献血している事、
質素な、ワンルームで暮らしている事、
客が来る事を想定しておらず、食器も自分のモノしかない事、

75歳の誕生日を過ぎて直ぐに、
「プラン75」に申し込みに来た事。

 

ヒロムは、
対象者としてでは無く、
親しいものとして、幸夫を見る事になります。

そして、仕事の関係上、知った、

「プラン75」の利用者が死後、
遺灰がリサイクル処理され、
廃棄か、おそらく、飼料なり、肥料なりに転用される事を知って、
衝撃を受けます。

ヒロムは、
息を引き取った幸夫を施設から勝手に連れ出し、
火葬にしようと奮闘します。

 

この事から分かるのは、

制度の推進者は、
相手を「人」をしては認めていないからこそ、
それを、勧められるという事。

そして、
死者の供養というものは、
死者その人の為というより、
遺された人の、心の安定の為に存在するという事です。

又、
ざっくばらんに言うと、
そういう、哀しむ身寄りが居ない人が、
「プラン75」を利用する事になるのだと、
本作は描写されています。

 

成宮瑶子は、
「プラン75」を利用する事に決めた対象者に、
転身を思い留まらせる為に、
定時連絡を入れる、ケアオペレーター。

彼女は角谷ミチの担当となり、
本当は禁止されていますが、
個人的に、ミチと会う事になります。

 

情が移った瑶子は、
最後の業務連絡を、涙ながらにミチに語った後、
更に、個人的に連絡を入れます。

しかし、
ミチは固定電話を電話線から外し、
結局、瑶子とは繋がりませんでした。

その後、食事休憩中でしょうか、
後ろで、新人研修をしているベテランスタッフの言葉を、
何とはなしに聞いている瑶子の姿が映ります。

制度利用者が翻意しないよう、
老人の心に寄り添い、云々かんぬん…

それを聞き流しつつ、
瑶子はカメラ(観客)を見つめます。

 

本作には、
登場人物が、カメラ(観客)を見るシーンが、
いくつかあります。

先ず、冒頭、
客室清掃中の角谷ミチが、ふと、こちらを見るシーン。

瑶子が、見るシーン。

そして、
「プラン75」の施設に、ミチが行く途中、
遊んでいた少女が、
こっちを見て、手を振るシーンです。

 

少女のシーンはまだしも、

先の2つのシーンは、
明らかに、観客を、出演者が見つめているシーンと言えます。

何故、
物語の登場人物が、
さも、観客を意識しているかの様な「メタ」なシーンを入れたのか?

ミチのシーンは、
冒頭の衝撃のシーンと併せ、
これが、現実を地続きだと、知らせる為

食事と、
飲料を、
無理矢理飲み込んで、
苦しそうにカメラを見つめた瑶子のシーンは、

共感性を呼び起こさせる為だと、思われます。

 

ミチを個人的に知る事で、
対象者として処理する事が出来なかった瑶子。

しかし、
観客である私達は、
安全な位置で「他人事」として処理してはいないだろうか?

それを許さぬ為に、
私は、あなたを見ているぞ
=この問題点を、あなたはどう処理するのか?
という事を投げかけているのではないでしょうか。

 

瑶子もヒロムと同じで、
対象者を知ったが為に、
苦しむ事になります。

しかし、
彼女なりの「供養」が許されぬが故に、
瑶子は、
より、苦しむ事になったのだと思われます。

 

マリアは、
フィリピン出身。
祖国に病気の子供が居り、
その治療の為に、お金が必要で、
介護施設から、
より、給料の払いが良い、
「プラン75」の施設で働く事になります。

彼女の仕事は、
処理後の死体の運搬など諸々で、

また、
利用者の遺品の処理なども、
その業務に含まれています。

 

同僚の藤丸釜足は、
遺品処理中、
めぼしいものを見つけると、
それを、自分のモノをしてクスねています。

彼は、マリアに、
「ホトケさんを、忘れるな」と言い、
まるで、盗みが供養であるかのような口ぶりで、
役得を正当化しています。

 

しかし、
哀しいかな、藤丸釜足の言は、
グゥの音も出なく、正しいのです。

 

75歳以上が、
安楽死をする権利を得る、
「プラン75」。

もし、遺品があるのなら、
家族に引き取られるのが、当たり前です。

しかし、
そうでは無い。

つまり、
「プラン75」の利用者は、
結局、
身寄りの無い独居老人(角谷ミチ)や、
親戚とは疎遠な貧困老人(岡部幸夫)が多いのだという事です。

 

ここには、
社会階層の格差が、確かに存在しています

ホテルの客室清掃員の元・同僚の一人、
一緒に、クビになった老女に
仕事を辞める事になったので、
娘の子供(孫)のベビーシッターをやろうかね、
嫌だけど、
と、言っていた人がいました。

進退窮まった角谷ミチは、
昔の同僚に電話して、
そのベビーシッターを、
仕事として、自分が出来ないだろうか、と、
頼みます。

勿論、むべに断れるのですが、
これは、

例えるならば、
学校のテストの当日に、
「あ~俺勉強して無いわ~」とか言いつつ、
実際は、
90点くらいの点数を取る同級生と同じメンタリティと言えます。

 

つまり、
同級生は勉強する必要が無い、
だから、勉強していない、

元・同僚も同じで、
ベビーシッターをする
=娘夫婦と同居する
=仕事をする必要が無い、
=住むところにも困らない
という事を意味しており、

根本的に、
勉強しないと高得点を取れない生徒や、
仕事をしないと、お金も住むところも無い角谷ミチとは、

社会的な立場そのものが、
違うのです。

 

結局、
「プラン75」は「権利」と言いつつ、
その実、

金持ちはそれを利用する必要が無く、
つまり、
身寄りの無い、弱者をターゲットにし、
切り捨てる為の残酷な制度なのだと、
本作では語っています。

 

故に、最後の遺品すら引き取り手がいないのなら、
それを、
「リサイクル」し、
誰かの為になるのなら、
それは、社会全体の還元となり、

強者の理論で虐げられる、
弱者の相互扶助になると言えるのです。

 

伯父の遺体を持ち出してジタバタしたヒロム、

自分の行いに苦しんでいるかの様な瑶子、

そして、遺品を盗むマリア。

制度とは、
対象を知らないからこそ、
利用させられます。

しかし、相手を知った時、
それぞれの形で、
それぞれの供養が必要であると、

本作では描かれているのです。

結局、弱者を切り捨てる事は、
社会全体が閉塞と停滞に進んでしまう
その事を、本作は示唆します。

 

それは別の形で言い換えれば、
今こそ、
相互扶助という、
社会全体の枠組みを、
人間として、互いに知るという形で、
作り上げる必要性を説いているのではないでしょうか。

 

  • で、結局、あなたはどうする?

本作『PLAN 75』における、
「プラン75」という制度、

結局、認めるのかどうかと言うと、
私は、反対です。

 

ですが、
もし、現実にこの制度があったら、
私は、利用するでしょう。

 

私自身、
家族という身寄りも無いですし、
財産もある訳では無い。

角谷ミチは、
装置に繋がれた岡部幸夫を見て、
恐怖に目を見開きましたが、

私には、逆に、
安らかな死に際だと感じられました。

介護や、病気で苦しみ抜く最期では無い、
それだけで、
幸せな死に方だと、
思ってしまったのです。

 

この辺りの価値観は、
人それぞれだと思われます。

ただ、私の場合、そうであるだけ。

 

しかし、
角谷ミチは、
例え、野垂れ死ぬ事になろうとも、

抗い続ける事を選びます。

死に場所は用意されるものでは無く、
自分で選ぶものだ

そういう矜持でラストシーン、

ミチが見つめるのは、

朝日か、夕日か。

本作のラストに込められた、
往生際の悪さを許容する社会こそが、

今後の世の中に、
必要なのだと『PLAN 75』は訴えているのかも、しれませんね。

 

 

 

 

 

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