映画『峠 最後のサムライ』感想  侍の信念を貫く事の「格好良さ」と悲劇!!

慶応三年、大政奉還により徳川の世の中は終焉を迎えた。
翌、慶応四年、戊辰戦争が勃発。薩長主導の西軍が目前に迫る、長岡藩。その家老・河井継之助は軍事的中立を目指すのだが、、、

 

 

 

 

 

 

監督は、小泉堯史
黒澤明に師事し、助監督を経て監督デビュー。
監督作に、
『雨あがる』(2000)
『阿弥陀堂だより』(2002)
『博士の愛した数式』(2006)
『明日への遺言』(2008)
『蜩ノ記』(2014) がある。

 

原作は、司馬遼太郎の『峠』。

 

出演は、
河井継之助:役所広司
おすが:松たか子
牧野雪堂:仲代達矢
川島億次郎:榎木孝明
小山良運:佐々木蔵之介
松蔵:永山絢斗
むつ:芳根京子
岩村精一郎:吉岡秀隆
徳川慶喜:東出昌大 他

 

 

 

新型コロナウィルスの影響で、

当初、2020年9月に公開予定でしたが、
その後、数回の延期を経て、
この度、漸く、公開となった『峠 最後のサムライ』。

コロナで公開延期された映画群の中で、
最後まで、粘った作品です。

最後まで、コロナウィルスに抗った、
正に、サムライな作品です。

…と言っても、何と戦っていたんでしょうか。

 

まぁ、それはおいておいて、

 

スポーツの日本代表の事を、
サムライJAPANとか、
なでしこJAPANとか、言うじゃないですか。

私、その呼称が嫌いなのですが、
皆さんはどう思いますか?

おそらく、
「サムライ」というイメージの格好良さのみで、
自らをサムライと呼ばわっているのでしょうが、

そもそも、
「侍」とは何ぞや、と考えているのでしょうか。

 

で、
本作、『峠 最後のサムライ』は、
正に、幕末における、

侍の、一つの理想像を描いた作品と言えます。

 

 

戦国時代の「武士」と、
江戸時代、太平の世を築いた「武士」は、
実は、似て非なるもの。

それを考慮して、
おそらく、
世間一般の持つ「侍」のイメージとは、
江戸時代のものなのではないでしょうか。

その、
江戸時代の武士のイメージ、

苦境や困難、貧困に喘いでも、
清廉な理想を追い求める姿

 

が、本作では描かれます。

 

しかし、
世間のイメージとは別に、
侍には課せられた義務があります。

主君への、
「忠」と「義」に生きる、
それが、どんな理不尽な選択であっても。

 

そういう、
「侍」の本質というか、
侍を侍たらしめている精神性を、
本作では、ちゃんと扱っていると感じました。

 

そんな本作を観て、
観客は、どう感じるのでしょうか。

やっぱ、
サムライって、カッケー!!

となるのか、

いや、
それは無いだろう!?

となるのかは、
その人、それぞれの感想だと思われます。

 

また、
本作は監督が脚本も兼ねており、

その最初の段階から、
主人公の河井継之助を、役所広司が演じる事を想定して書いていたと言います。

それ故か、

役所広司演じる、
河井継之助の言葉の力が、凄い!です。

 

言葉の力とは、
その、内容もさることながら、

声というか、音の具合というか。

台詞にした時の、
有無を言わさぬ説得力が、

正に、リーダーたる所以を表しています。

この役所広司の渾身の演技を観るだけでも、
本作には価値があります。

 

侍の矜持を示す、
河井継之助。

それを、役所広司が演じる至福。

時代劇の理想、ここにあり。

『峠 最後のサムライ』では、
そんなサムライの最後の生き様を、観る事が出来るのです。

 

 

 

  • 『峠 最後のサムライ』のポイント

サムライという存在の格好良さと、理不尽さ

河井継之助とイカロス

有無を言わさぬ、役所広司の迫力

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

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  • 役所広司の演じる河井継之助

本作『峠 最後のサムライ』で、
先ず、圧倒的な存在感を発しているのが、
主役の河井継之助を演じる、役所広司です。

 

妻のおすがと居る時には、
優しく、穏やかな感じなのに、

一度、「侍」としての役割を担うや、

有無を言わさぬ迫力と胆力を纏います。

 

本作の河井継之助の性質が表われている象徴的なシーンとして、

長岡藩の若手に追われ、
西軍に与する事を進言される(実際は夜討ち)シーンです。

 

このシーン、
まぁ、ぶっちゃけてしまうと、
言っている事は、若手の方が正しいんですよね。

勝ち馬に乗ろうと、そう、言っている訳です。

しかし、
河井継之助は、それを大喝。

武士の本分は、
主君の意に添う事

元々、徳川の世を支えた武士、
それが、いとも簡単に翻意するとは何事か。

又、我らが主君牧野雪堂は、
そんな状況を憂いている。

ならば、主君の意を汲み、
徳川を支える事が、本懐であろう、と、

そんな感じの事を、
迫力ある声量と声音で持って諭し、

刀を、今にも抜こうとしている相手に対し、
「対話」のみで押し切ります。

 

本作、現代の価値観を持って、
冷静に考えたら、
実は、河井継之助の主張よりも、

対話する相手の方に「理」がある事が殆どです。

しかし、
河井継之助は、
そんな相手の主張を、
悉く、対話によって、丸め込んでしまいます。

唯一の例外が、
全く対話が出来なかった、
怒り心頭の岩村精一郎と会った時のみです。

キレまくっている相手には、
言葉が通じなかったのですね。

 

TVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の原作、
『炎と氷の歌』において、

ロバート・バラシオンが王になれたのは、
その大音量によってだと、
言及されている場面がありました。

本作における河井継之助にも、それは当て嵌まり、
まさに、
言葉によって、そのカリスマ性が発揮されていると言えます。

 

『覚悟のススメ』『シグルイ』などを描いた漫画家、山口貴由に、
『蛮勇引力』という作品があります。

「万有引力」の文字を模して作られたこの題名が示す通り、

『蛮勇引力』では、
サムライの持つ、
「蛮勇」とも言える無謀さに、
人を惹きつける「引力」とも言える魅力と活力があると描かれています。

 

我々が「侍」という存在の精神性に惹かれるのは、

どんな理不尽で、困難な状況でも、

「義」と「忠」を持って、
己の信念を曲げぬ、

その覚悟、力強さ、潔さ、清廉さにあります。

 

「長いものには巻かれろ」という処世術が「賢い」とされる現代において、

この精神性に支えられた生き様、
自らが手放してしまった困難さ=清廉さに、
我々は、憧れを抱くのではないでしょうか。

 

  • サムライとしての選択

故に、
河井継之助が、
どの様な蛮勇を主張しても、
それは、『峠 最後のサムライ』ではまかり通ってしまいます。

 

しかし、
本作の素晴らしいところは、
「侍」の生き様の格好良さを描きつつも、

その描写はあくまでも、フラット。

故に、
同じ場面において、
「侍」の言動に格好良さを感じる人も居れば、

現代の価値観から観た場合、
正反対に、
河井継之助の行動に、問題点を抱く人も居るのではないでしょうか。

 

本作の河井継之助の主張は、

あくまでも、
「侍」の観点から、最善を目指す立場です。

つまり、
主君である牧野雪堂の意思、
そして、徳川の治世を支えた精神性から、
一歩も、外れる事がありません。

 

河井継之助は、
旅籠で「嬢」と呼んで可愛がっていた娘のむつに、
「領民の為の平和を目指している」と語ります。

また、
戦火にさらされた村、
河原で孫(の遺体)を洗っていた老人に、
「必ず、この償いはする」と言います。

しかし、
河井継之助の本望は、
侍の精神性=主君に仕え、その意に添う事であり、

「領民の平和」を、それと天秤にかける事さえなく、
ごく、当たり前に、平和、和平の選択を捨て去ります

 

河井継之助は、
口では、何度も平和や和平を説きます。

しかし、
それを言った時は本気かもしれませんが、
実際には、戦乱已む無しという立場です。

まるで、
カルト宗教の指導者や、詐欺師グループのリーダーそのもの。

本気で言ってはいるが、
実際に自分がそれを「やる」事は無いと、自覚し、理解している存在です。

 

川島億次郎は、
戦乱が起これば、領民を塗炭の苦しみに突き落とすと、
河井継之助に警告します。

これに対し継之助は、
自分の首と支度金を持って行ったら、
西軍の溜飲は収まるだろうと、

何とも、卑怯な提案をします。

この場面、
億次郎に選択を委ねている様で、
その実、継之助が自らの主張を押し付けた場面ですが、

本当に和平を望むならば、
継之助は、
嘆願書と共に、持参金を西軍に渡し、
自身は、その場で切腹すれば、

長岡藩は戦火から免れたのではないでしょうか。

 

あくまでも、
主君の為に生きる「侍」の本望を全うしたが為に、

河井継之助は、長岡藩を戦火へと突き落とします

 

奥羽越列藩同盟に名を連ねた長岡藩は、
その後、
戊辰戦争で最も苛烈を極めたとされる「北越戦争」の舞台となるのです。

 

「義」を忘れ、
勝ち馬に乗るという事だけで、
薩長に与するなどとは、

後の世に、侍の生き様が笑われると言った河井継之助。

しかし、
世の趨勢に、そんな継之助の生き方自体が、
時代遅れだと判定されてしまいます。

河井継之助の精神性に引導を突き付けた戊辰戦争。

故に本作は、
そのサブタイトルに「最後のサムライ」の名を冠したのでしょう。

 

 

  • 河井継之助とイカロス

本作、
監督の小泉堯史は、
先ず、ラストシーンのイメージが最初にあり、
そこから、河井継之助の生き様がどうだったのか、と描いていったそうです。

 

旅籠で、継之助がまつに語った言葉、
「太陽に向かって飛ぶ、鴉」が好きだという話。

そして、ラストシーン
自らを火葬する焚火を凝視する継之助。

本作の河井継之助の精神性を象徴するシーンであり、
これはつまり、
河井継之助は、イカロスなのです。

 

イカロスは、
ギリシャ神話の登場人物。

蝋で羽を作り、
自在に飛翔出来る能力を手に入れましたが、
太陽に近付きすぎた為に、
蝋が溶け、
地面に落下して死んでしまうという人物。

傲慢さの成れの果てを教訓として伝えるエピソードですが、

面白いのは、
このイカロスの事を歌った、
楽曲『勇気一つを友にして』です。

 

『勇気一つを友にして』は、日本人が作詞作曲し、
NHKの「みんなのうた」でヘビーローテーションされた楽曲です。

ギリシャ神話のイカロスのエピソードを元としており、

蝋で固めた鳥の羽で空を飛び、
太陽に向かって飛行したために、
羽が溶け、地面に墜落死する事を1番~3番にて歌っています。

ですが、
その4番においては、

ぼくらは、
イカロスの鉄の勇気を受け継いで、
明日に向かって強く生きて行くと、
歌われています。

 

イカロスの傲慢さを諫めた元のエピソードに対し、

その蛮勇を称え、
勇気と鉄の意志を後の世に受け継ぐと歌った
『勇気一つを友にして』は、

如何にも、日本人的なメンタリティを象徴しており、

こうして見ると、
『勇気一つを友にして』は、
『峠 最後のサムライ』の原作とも言いえるのではないでしょうか。

 

 

 

現代の価値観では「理」に反する「侍」の精神性。

で、あるが故に、
その破滅をものともしない鉄の意志と「忠義」、
その潔さ、清廉さに、

我々は、美しさを見出し、
惹かれるのではないでしょうか。

本作『峠 最後のサムライ』は、
正に、
「侍」そのものの生き方を描いた作品と言えるのです。

 

 

 

司馬遼太郎の原作小説は、上中下の3巻本です。

 

 

 

 

 

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