1943年9月、ナチスがポーランドのソビボルに建設した絶滅収容所に多くのユダヤ人が列車で送られる。大半は即刻ガス室送りになり殺されるが、生き残った人物の一人に、ソ連軍人アレクサンドル・ペチェルスキーがいた、、、
監督はコンスタンチン・ハベンスキー。
ロシアの俳優で、本作が初監督作。
ロシアでは国民的な人気を誇ると言う。
監督・脚本・主演として作品に関わっている。
出演は
アレクサンドル・ペチェルスキー:コンスタンチン・ハベンスキー
カール・フレンツェル:クリストファー・ランバート 他。
先ず最初に、
本作『ヒトラーと戦った22日間』はそのタイトルと内容には若干の乖離があります。
本作には、ヒトラー自身は全く出て来ません。
いわゆる、
ヒトラーが主導したというホロコースト、
その象徴たるユダヤ人強制収容所こと、
絶滅収容所の収容者が蜂起し、
脱出を決行するまでの話です。
その反乱のリーダー役となった、
アレクサンドル・ペチェルスキーが収容されたのが、
1943年9月23日。
彼の収容から22日目の10月14日に脱出決行するまでを描いた作品なのです。
なので、
作品中でヒトラーと直接対決する場面がある映画では無いです。
その点だけは、ご留意を。
お?
ならば、『大脱出』みたいなノリの映画なのか?
と思われるかもしれません。
否!否、否、否!
現実は非情、
本作で描かれるナチスの所業は常軌を逸しています。
ひたすら続く、
虐待と屈辱の描写、
下手なホラーよりも、
よっぽど心胆寒からしめる恐ろしさです。
これが現実!
映画作品として脚色した演出をしている事を考慮しても、
これが同じ人間の所業かと思うと憂鬱を感じます。
ですが、
歴史の事実として、
こういう事があったのだと、知っておく事もまた大事。
私などは、
絶滅収容所はアウシュヴィッツのイメージが強かったです。
しかし、
他に5つも絶滅収容所があり、
それぞれユダヤ人が大量に殺されたという事。
そして、
戦後長らく、その事実が隠蔽されて来たという事。
そういう歴史を知る契機にもなる作品として、
本作は大きな意味があると思います。
『ヒトラーと戦った22日間』。
決して楽しい作品ではありませんが、
観て損は無い作品なのです。
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『ヒトラーと戦った22日間』のポイント
人間の恐るべき所業
瞬発力と決断力
歴史を知る契機となる作品
以下、内容に触れた感想となります
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現実の非情さ
本作『ヒトラーと戦った22日間』は、
その勇ましい題名とは裏腹に、
恐ろしい内容となっております。
何となく、
前半の屈辱を耐えた後、
綿密な計画の元脱走を決行、
ナチスの鼻を明かし、
人間の勇気と希望の素晴らしさを謳い上げる、
みたいなイメージを持っていました。
しかし、現実は非情。
そんな映画的な演出を完全に否定する、
カタルシスなど全く無い作品に仕上がっています。
先ず最初からすっ飛ばしているのは、
いきなり、ガス室の描写で、観客の度肝を抜く事です。
列車がソビボルに到着時、
「安心してください」みたいなアナウンスをしておきながら、
即、ガス室送り。
一旦は安心させて、
その流れで、作業的に人間を虐殺せしめる鬼畜の所業が描かれます。
その中に、如何にもメインキャラのヒロインっぽい雰囲気の人間が出て来ますが、
その雰囲気を逆手に取って、即、殺してしまいます。
どんな人間にも無差別に見舞われる、
絶滅収容所における「死」という現実のリアルさ。
この恐怖に震えが止まりません。
更に、ナチスの非道は止まりません。
収容所での居丈高な様子、
収容者を虐げ、
人を人とも扱わないその態度、
虐待と屈辱の連続に、
観ているだけでも虫酸が走ります。
さて、
映画の描写では、
元々反乱の計画はあっても、
それを主導するリーダーが殺されたので、
その代わりとしてアレクサンドル・ペチェルスキー(サーシャ)にその役を担ってもらったという経緯があります。
なので、計画自体は、以前からあったものだと思われます。
普通の映画だと、
この反乱と脱走の場面こそ、
今まで虐げられた分を発散するカタルシスの場面となります。
しかし、本作においては、
その映画的カタルシスさえ否定します。
反乱のメンバーは、
ナチスの幹部を一人ずつおびき寄せ、殺す事で、
その監視体制に穴を開け、
脱走の決行をやりやすくするという作戦を採ります。
その一人ずつ殺すというのがポイントで、
やはりそこには、
今までの恨みが込められていたのでしょう。
その殺し方もまた、
残虐極まるものです。
虐げられた方も、
状況が変われば、いくらでも暴力性を発揮する。
自分達が生きる為に絶対必要な事だとは言え、
戦時における、この絶対的な現実の非情さに、
圧倒されてしまいます。
また、
この脱出作戦も、
緻密さや綿密さというより、
場当たり次第の勢い任せな点が否めません。
この事もまた、リアルです。
現実においては、
流動的な状況の中で、
事前準備における対応が間に合わない事が多々あります。
本作でも、
幹部が怪しんでいる様子を敏感に感じとり、
収容者が集まったタイミングで、
無理矢理、脱出を決行します。
そこには計画性というより、
状況に柔軟に対応出来る瞬発力が試されている感じがします。
ラスト、
皆が皆、脱出を夢にみて大挙して走り去る場面が移されます。
しかし、
ここでも現実は非情。
心は走りだしても、
実際には脱出とは相成らず、
死んでしまう人間が多数いました。
観客が観たかった映像を理解し、
それを挿入しつつも、
現実の不都合なリアルさを観せ続ける事に終始したガチンコ映画。
『ヒトラーと戦った22日間』は、
そんなイメージがあります。
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歴史としての本作
『ヒトラーと戦った22日間』は映画としてのエンタテインメント性を否定しつつも、
しかし、
歴史の事実を題材として扱った作品として、
その意味は大きいものだと思います。
例えば、
「アウシュヴィッツ」という名前は知っていても、
それがポーランドにあり、
また、
同じ絶滅収容所が他にも5つあったという事実を知っている人間は、幾人いるでしょうか?
映画を観て、
その背景を調べる事で、
自分が知らなかった事実を知る契機になれば、
それこそが作品の功績であり、
観る意味があったのだと思います。
最低限の周辺事情は、
パンフレットに分かり易くまとめてあるので、
大変便利です。
そこの(p.14~15)に書いてある、
「ソビボル蜂起と歴史背景」(芝健介:著)
という記事に興味深い事が書かれていました。
舞台となったソビボルから脱出したのは、
最新の資料に拠れば、
360名程度だったとの事。
(フェンスに突撃したのは600人)
映画では、60人位の規模でしたが、
実際のスケールはもっと大きかったのです。
しかし、恐ろしいのは、
その脱出した人間も、
約200人がナチスに発見され殺され、
又、
残りの160人も、
反ユダヤ人主義者に狩られ、
戦後まで生き残ったのは、たったの47人だったとの事です。
(アレクサンドル・ペチェルスキーや、映画内の登場人物のハイム(眼鏡)、セルマ(赤毛の女性)、トマス(幹部を誘導する少年)等が生き残りです)
こういう貴重な生き残りの証言があってこそ、
知れれざる歴史が語り継げられたのだと思うと、
本作の陰惨な世界観の中にも、
一片の希望みたいなものを感じる事が出来ます。
本作は、一応メインとしていロシア映画という体ではあります。
しかし、
その映画内では、
ロシア語、ドイツ語、ポーランド語、オランダ語、イディッシュ語など、
言語が入り乱れたものとなっております。
様々な国籍が入り乱れ、
しかし、
ユダヤ人という共通点のみで虐殺、迫害されるこの恐ろしさを十二分に描写した作品である『ヒトラーと戦った22日間』。
エンタテインメント性を排する事で、
戦争のリアルを突き付け、
歴史という不都合な現実を知る契機となる本作は、
映画というジャンルの意義を満たした作品と言えるのです。
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