映画『負け犬の美学』感想  自己を客観視出来ない者、それが負け犬!!

45歳の中年プロボクサー、スティーブ。試合に負け、現在の戦績、49戦13勝3分33敗…。鳴かず飛ばずのスティーブだが、妻と子供の4人暮らし。習い事をしている娘の為に、ピアノを購入しようと思い立ったスティーブは、お金の為に、欧州王座を狙うタレクのスパーリング・パートナーに立候補するが、、、

 

 

 

 

監督はサミュエル・ジュイ
俳優として活躍し、
長篇映画監督は、本作が初である。

 

出演は、
スティーブ:マチュー・カソヴィッツ
マリオン:オリヴィア・メリラティ
オロール:ビリー・ブレイン
タレク:ソレイマヌ・ムバイエ 他

 

 

ボクシング映画、『負け犬の美学』。

ボクシング映画と言えば、
古今東西を問わず、
数多くの作品が作られて来ました。

しかし、
フランス産のボクシング映画というのは、
あんまり聞きません。

果たして、
どんな作品になっているのでしょうか?

何と言うか、
スポ根的なボクシング映画というより、
ファミリー映画!?

 

っぽい?感じになっています。

 

あ、いえ、
確かに、ボクシング映画と言える作品なのです。

しかし、
栄光がどうの、
成功がどうの、
そういうタイプの作品ではありません。

あくまでも、
等身大の生活、
等身大の幸せの範疇の物語。

ボクシングが主題というより、
一人の男の人生の一コマを切り取った作品、

 

そんな印象を受けます。

 

結局はスティーブとしては、
家族の事が一番、

なので、
映画としての印象も、

ボクシング関係の描写がメインではありますが、
それと同じかそれ以上に、
家族との関係に重点が置かれています。

 

フランス映画としては、
分かり易い。

しかし、
ボクシング映画として観ると、
「やっぱりフランス映画だな」と思う。

そんな印象を受ける作品
それが『負け犬の美学』です。

 

 

  • 『負け犬の美学』のポイント

負け犬たる所以とは?

主観と客観の違い

好きな事をやるか、分を弁(わきま)えるか

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 『負け犬の美学』前半部のあらすじ

本作『負け犬の美学』は邦題。

原題は『Sparring』、
ボクシングで、
戦法の確認や、試合前の調整で行われる、
試合形式の練習方式「スパーリング」の事でしょう。

これに『負け犬の美学』という邦題を付けたのは、
言い得て妙というか、
本作の持つ強烈な皮肉を表す、
ピッタリの題名だと思います。

 

本作の主人公、スティーブ・ランドリーは、
45歳のプロボクサー。

冒頭の敗北にて、
戦績は49戦13勝3分33敗。
勝利からは既に3年離れています。

そんな彼には、ボクシングの才能はありません。

本作風に言うならば、「持っていない」のです。

観客からは馬鹿にされ、罵声を浴びせられ、
警備員からは選手として認知すらされず、

しかし、
何故そんな状態でボクシングを続けているのか?

それは、
「ボクシング」それ自体が好きだからなのです。

 

腕力で勝敗を決める単純性、
自己を鍛えるという快感、
勝利の喜び、etc…

ボクシングをするという事には、
様々な喜びがあります。

スティーブも、
ボクシングの持つ、麻薬の様な魅力に取り憑かれている一人。

むしろ、
しがみついているとも言えます。

そんな彼も、
妻のマリオンとの約束で、
健康面や、踏ん切りを考慮してか、
50戦を節目にプロボクシングの試合を引退する事にしています。

外傷性進行性脳疾患、
最近では、慢性外傷性脳症と言われる、
いわゆる、パンチドランカーを心配しての事です。

 

極一部のチャンピオン以外のボクサー以外は、ボクシングのみでは食えず、
バイトをして生計を立てている者が殆ど。

況んや、負けが込んでマッチアップすら困難な、スティーブおや。

彼もレストランでバイトをしています。

そんな、生活すら困難と思われるスティーブですが、
妻と長女に長男と4人暮らしの家庭を築いています。

どうやって生計を立ててるの?
という疑問はありますが、
どうやら奥さんも働いていて共働き。

しかし、
そういう状況でありながら、
娘のオロールにはピアノを習わせています。

もっと、実用的な事を習わせた方が良いんじゃないの?
と思うかもしれませんが、
娘の好きな事をやらせているのでしょうね。

 

スティーブはピアノの先生に尋ねます。

オロールは「持っている」のか?と。

先生は、
ボクシングとピアノは違うから、
「持っている」という言葉では言い表せない、
的な事を言います。

まぁ、ぶっちゃけ、ハッキリ言わずに、
「持って無い」という事を婉曲的に表現した言葉ですね。

しかし、何故かスティーブは先生から太鼓判をもらったと勘違い、
娘が音楽を家でも練習出来るように、ピアノの購入を決意します。

その為に、
試合以上に危険と言われる、スパーリング・パートナーの仕事を受ける事になるのです、、、

 

  • 主観と客観

いやいやいや、ヤバイよ、これ、
スティーブさん、認知に問題あるよ!
完璧パンチドランカーじゃないですか!

…と、思いますよね。

でも、ちょっと違うのです。

何故、認知に問題があるのか?
それは、
娘の事、即ち、身内の事だからです。

 

スティーブは、客観的に見ると、
ハッキリ言って負け組、負け犬です。

試合には勝てず、
人には馬鹿にされ、
お金も稼げていません。

しかし、
スティーブ自身の目線で見ると、
彼は幸せな家庭を築き、
自分の好きなボクシングを続けている、充実した生活を送っています。

つまり、
主観的には幸せな生活を送っていると言えます。

 

結局は、何が幸せなのかは、
自分自身がどう思うか、という事に尽きるし、

本作では、
その自分の信じる道を一意専心に突き進む事の素晴らしさを謳った作品であるのです。

 

だがしかし

現実はそんなに甘くない

 

自分の悲惨な現状を、
その現状の心地よさに甘んじて、
「自分はそれで良い」と満足する事は、
そこから抜け出す機会を捨てていると言えないでしょうか?

人は、自分の事になると甘くなり、
正しい判断、選択をする事が困難です。

自らの成長を自主的に促す為には、
自己を客観視するという難しい事が必要になります。

 

スティーブは、自分の好きな事をしていると言えば聞こえは良いですが、

その為に、
生活は困窮し、医療保険にも入っていない始末。

自分と家族の為には何が必要なのか、
それを客観的に判断出来るならば、
とっくにボクシングを辞めて就職していたハズです。

そして、その甘い判断は、
身内である娘にも当てはめています。

 

娘のピアノの腕前も、
ピアノに詳しく無い私が聞いても、
「持っていない」と思わせるほどのヘボさです。

しかし、そこは親の引け目、
一生懸命に夢中になっている娘には才能があると、
そう自分が思いたい願望を事実を履き違えているのです。

 

そんなスティーブですが、
物事を客観視出来ない訳ではありません。

試合に臨むタレクの戦略に疑問を呈し、

自らが思う対戦相手に有効な戦略、
「リングの中央で試合を組み立てる相手に対し、逆にタレクがリングの中央をキープして相手のリズムを崩す」
という理に適った戦略を提言する事も出来ます。

岡目八目、
スティーブでも、
他人の事になれば、まともな判断を下せるのです。

自らの戦績では、発言に説得力が無いのが悲しい所ですが、、、

 

  • テーマと相反する、現実のリアルさ

本作『負け犬の美学』では、
他人には理解されずとも、
自分の道を進む事が幸せなのだという事をテーマとして描いてはいます。

しかし、
現実の世界では、
自分の好きな事だけで生きて行く事は困難であり、
その事の悲惨さをも同時に描写しているのが、
本作のひねくれた面白さとも言える部分です。

 

スティーブだって、客観的な目線でまともな判断を下し、
ボクシングの戦略について一家言もの申す事だって出来ます。

しかし、
ボクシングの試合で負け続けたその戦績が、
彼の発言に説得力を持たせません。

哀しいですが、
好きだからという理由で続けた彼の人生は、
結果を伴わない為に、
他人にとっては考慮に値しないものなのです。

好きな事を人生で続ける事は困難です。

 

スティーブは、
タレクの公開練習でボコられます。

タレクはまるで、
『あしたのジョー』の力石徹の名言、
ヘッドギアを外し「1ラウンドじゃねぇ、一分だ!」と宣言したのと同じ様なノリで、
スティーブを完封すると観客に宣言します。

有言実行、
タレクはスティーブをボコし、
父のボクシングが見たいと熱望していた娘のオロールは、
その事実と観客の野次に耐えきれず、退場してしまいます。

愛する娘に哀しい思いをさせた、
これが現実なのです。

 

因みにこのシーン、
ラストで、娘の演奏を聴きながら、
しかし、演奏を最後まで聴かずに退場したスティーブの様子と共通しています。

娘がヘボ演奏だとは分かってはいても、
それを認めずに、自分の幸せな印象のみを胸に、
聴く事を放棄して立ち去っているとも見えないでしょうか?

父の最後の試合を観に行く事が出来なかった娘と、
娘の演奏を最後まで聴けなかった父。

しかし、互いに、
その結果は満足がいく、笑顔がのぞくものでした。

ボクシングやピアノの実力という不都合な部分からは目を逸らし、
自身の満足感のみを、共に相手に伝えているシーンとも言えます。

 

ボクシング映画では本来盛り上がる場面の、
最後の試合。

しかし、本作では、
まるで本屋で流れている環境音楽の様なBGMを流し、

そのノリで、娘の演奏シーンまで共通するトーンを作っています。

いやぁ、
眠くなりました。
というか、寝ました、ラストシーンで

本作では、
試合の結果がどうの、
実際の演奏の腕前がどうの、は問題ではないのです。

自分の行動に満足感を抱くかどうか?
それを描いているからです。

 

結局、本作のクライマックスは、
公開スパーリングを終えて、
スティーブとタレクがカジノで語らうシーンでしょう。

タレクは、スティーブの戦績を聞き、
そこまで負けて続ける意味があるのか?と尋ねます。

スティーブは言います、
「敗者が居るからこそ、勝者がいるのだろう?」と。

 

敗者、負け犬の自分が居るからこそ、
勝利者が輝く、

ある意味、開き直りですが、
自分の人生を卑下するでも無く、
むしろ誇っているかの様にも見えるそのスティーブのスタンスこそが、
本作のテーマの二面性を最も表しています。

スティーブ自身には、堂々として信念の宣言であっても、
他人から見ると、それは虚勢にしか見えない

自分の好きな事を続ける道は素晴らしいが、
反面、結果が伴わなければ、
他人には理解されず、困難な道である。

そういう人生を送る覚悟が、
本作を観ている人間にはあるのか?

そう問いかけている作品でもあるのです。

 

  • 小ネタ

ボクシング映画のボクシングシーンは、
綿密な「振り付け」を行う事が普通であるとされています。

しかし、本作『負け犬の美学』では、
そういう打ち合わせをせずに、
流れに任せたガチの殴り合いをしているそうです。

 

その相手役のタレク役を演じたのは、
実際にWBA世界スーパーライト級で王座に就いた経験のあるプロボクサーのソレイマヌ・ムバイエです。

実際、
スティーブ役のマチュー・カソヴィッツとソレイマヌ・ムバイエの動きを比べると雲泥の差

 

象徴的なのは浜辺のシーン。

べた足で鈍くさいスティーブと、
軽やかな動きのタレクの二人のシャドーボクシングの対比にて、
二人に圧倒的な実力差があるという事実が一目で分かるものとなっています。

ヘボボクサーを演じたマチュー・カソヴィッツが凄いのか、
それとも、本当にヘボいのか?は措いておいて、

やっぱり、トップレベルのプロボクサーは凄いのだなと、
あらためて気付かされます。

 

 

本作『負け犬の美学』はシビアな作品です。

物語はスティーブにとって切りの良い所で終わっても、
この後の生活を客観的に思うと、
不安しかありません。

 

折角、スパーリングで稼いだあぶく銭を、
娘のヘボピアノの練習の為に散財するその計画性の無さ。

 

また、娘のオロールは、
今は父親が好きな年齢です。

親を絶対視し、自己の延長として見ているので、
公開スパーリングでボコられても、
父に失望すると言うより、
父を馬鹿にされた理不尽さを自分の事の様に嘆いてくれています。

しかし、これが思春期となり、
親も、自分とは別個の人格を持つ一人の人間だと認識出来る様になると、

その感情は、軽蔑へと容易く変化してしまいます。

今後、人生で結果を残してこなかったスティーブが、
子供とどう接して行くのか?
その事の困難さも予想されます。

 

好きな事を好きにやり続けるのは、素晴らしい人生とも言えるが、

それは、他人には認められず評価もされない困難な人生である。

現実のシビアさを描き、
自分はどう生きればいいのか?
その事を考えさせられる、

『負け犬の美学』は栄光とは無縁でも、
しかし、人生について語った作品なのです。

 

 

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