歴史学者デボラ・リップシュタットが自著『ホロコーストの真実』をひっさげ講演を行っている時に、その本にて「ホロコースト否定論者」と名指ししたデイヴィッド・アーヴィングが乗り込んで来る。さらにアーヴィングは、そのレッテル貼りは名誉毀損だとリップシュタットを英国で訴えた、、、
監督はミック・ジャクソン。
代表作に
『ボディーガード』(1992)
『ボルケーノ』(1997)等がある。
主演のデボラ・リップシュタット役にレイチェル・ワイズ。
主な出演作に
『魅せられて』(1995)
『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(1999)
『ナイロビの蜂』(2005)
『光をくれた人』(2016)等がある。
共演に、ティモシー・スポール、トム・ウィルキンソン、アンドリュー・スコット等。
本作『否定と肯定』はいわゆる「真実に基づく」系の映画だ。
なので、登場人物の名称なども実在の人物である。
ユダヤ人歴史学者のデボラ・リップシュタットは、デイヴィッド・アーヴィングに名誉毀損で訴えられる。
本作はその、「デイヴィッド・アーヴィング対ペンギン出版・リップシュタット事件」の顛末を描く
法廷劇である。
法廷劇は言葉での決闘。
本作はその意気で
開始直後からフルスロットルで飛ばしまくる。
上映時間一杯緊張感が続く感じだ。
論点はこうだ。
アーヴィングは名誉毀損で訴えた。
よって、リップシュタットは自著での主張、
「アーヴィングはホロコースト否定論者」だという事を法廷で証明しなければならないのだ。
だがこれは、訴訟の勝敗だけに留まる事では無い。
リップシュタットが負けると、
あたかも「ホロコーストが無かった」かの様な印象を世間に与えてしまう。
これら、アーヴィングが仕掛けた罠にどう対応して行くのか?
そこが見物である。
全く文化の違う人間に絡まれる不条理と恐怖、
そして、
歴史を自分の都合の良い様に解釈する事の恐ろしさを描き、
また、
真実をずらし、単純な構図に矮小化させ、インパクトのある言葉で直感的な印象を得ようとする、
正に、現代至る所で見られる「劇場型」に踊らされる事の危険性を描いている。
法廷劇としての面白さ、
歴史や文化の有り様を知れる面白さ、
人間の恐ろしさを思い知らされる苦悩。
本作『否定と肯定』には色々な考え得るべき物が詰まっている興味深い映画である。
以下、内容に触れた感想となっています
スポンサーリンク
-
本作の面白さ
本作『否定と肯定』は現実にあった法廷劇をベースにした映画だ。
そして、そこで描かれるテーマ性が様々な見方を提供してくれる。
先ずは
1:法廷劇
丁々発止の裁判の様子が面白い。
2:文化の違い
何を基盤に生きているのかという人間としての違い。
そして、国が違う事での裁判制度の違いなどに見所がある。
3:歴史歪曲の恐怖
事実を基盤に歴史を語るのでは無く、
自らの主張に添う形で歴史を切り貼りする事の異常性を描く。
4:劇場型への危機感
より大きい声でより単純な言葉を言った方が勝つという、「劇場型」社会がはらむ危険性を描く。
*以下、内容にかなり触れた物となっております。
-
法廷劇、文化の違い
まずは1と2について見てみよう。
リップシュタットはその自著にてアーヴィングを「ホロコースト否定論者」として貶めた。
これはレッテル貼りであり名誉毀損だとアーヴィングは訴えたのだ。
それも英国で。
何故英国なのか?
リップシュタットはユダヤ系のアメリカ人である。
なので、アメリカでは駄目だったのか?
アーヴィングが英国で訴えたのは、
英国では、名誉毀損の裁判の場合、被告人が自身の身の潔白を証明しなければならないからだ。
つまり、裁判における労力が段違い、原告であるアーヴィングは名誉毀損を指摘するだけなのに対し、
被告のペンギン出版とリップシュタットには立証責任があるのだ。
リップシュタットは英国で弁護士を雇う。
因みに、英国では
資料を集め、戦略や方針を決める事務弁護士と、
実際に法廷で弁論を行う法廷弁護士に別れ、チームで裁判を戦う。
この文化の違いも面白い。
この弁護団のチームの持つ、勝つための戦略・方針が的確且つ効果的なのも面白いのだ。
裁判は陪審員を交えず、判事一人の判断に委ねる。
これは、人数の多さからの「紛れ」を排除する為だ。
「劇場型」のアーヴィングに対応した形であろう。
ホロコーストの生存者を証人として呼ばない。
生存者は生き証人であるが、その記憶の細かい所まで鮮明だとは必ずしも言えない。
アーヴィングは必ず、重箱の隅をつつく質問をし、矛盾点を指摘してくる。
それは辱めだし、裁判にも有利に働かないからだ。
アーヴィングとの反対尋問にて法廷弁護士のリチャード・ランプトンは目を合わせなかった。
目を合わせずに否定されると、相手は苛つくそうだ。
握手の拒否もよかった。
冷静な弁護団に対し、リップシュタットは常に鼻息荒く感情的で猪突猛進型である。
ちょっと空気読めない人に見えるが、リップシュタットの映画でのキャラ付けには理由がある。
ともすれば弁護団は完璧過ぎて、裁判に勝つために感情を廃している様に見えがちである。
そう見えないのは、リップシュタットのみを感情に縛られた「思慮の無い」人間として描く事で、
つまり、予め無感情の弁護団と対比する存在を作っておくことで、裁判の勝敗に感情を持ち込む必要性の無さを観客に分からせる為である。
「人の振り見て我が振り直せ」。
リップシュタットは、観客が当然思う感情を先走りする事で、裁判において感情を優先させる事の不毛さを表すキャラクターであったのだ。
こけた頬、力強い目力でレイチェル・ワイズはデボラ・リップシュタットを見事に熱演した。
(若く見えるが、1970年生まれである)
今回の裁判は、「アーヴィングがホロコースト否定論者である」という事の証明のみに焦点を絞って、
それを立証したリップシュタットと弁護団の勝利なのだ。
-
歴史歪曲の恐怖
アーヴィングは自己弁護の一環として、
「ホロコースト」自体を否定する。
ホロコースト自体が無いのなら、「ホロコースト否定論者」という言説自体なりたたないからだ。
さらに、後に裁判で明らかになるが、
資料の抜粋、翻訳作業において語句の省略を施す事で、事実を違った印象に導く、
つまり、歴史の歪曲を図っている。
これが怖ろしい。
実際、ネットに様々な言説、文章が溢れている現代において、
何が正しくて何が事実なのかを見分けるのは難しい。
単純に、執筆者の勘違いや知識不足、資料不足による間違いもあるだろう。
だが、一方で、
偏向が加えられた情報を意図して流す輩も確実に存在している。
有名な言葉に「嘘を嘘と見抜けないと~」があるが、
現在は嘘だらけで何が正しいのは全く分からない状況だ。
リップシュタットが感じた不安もそれである。
自分が正しい事を言っているのは確かなのに、
自信満々な他人に声高に否定されると、自分の足下がぐらつくような不安感を感じるのだ。
歴史の歪曲を企むものはそのささやかな不安感を突いてくる。
これは詐欺師も同じである。
これに当たってはまず、やはり自分の自信の育成が必要だ。
そして自信とは毎日の絶え間ない修行や勉強においてのみ形成される。
沢山の資料にあたって、先入観に囚われず、事の真偽を真摯に判断する根気も必要になるだろう。
難しい事だ。
-
「劇場型」への危機感
実物のアーヴィングは見映えの良い英国紳士で、当意即妙の受け答えをこなす人好きのする人間であるそうだ。
そういう見た目の良い人間がズバリと分かり易く、インパクトのある言葉で物事を言った(否定した)時、絶大なる説得力を持つ。
この場合の「インパクトのある言葉」とは、
「人が聞きたいと思っている言葉」であったり、
「痛快で過激な批判」だったりする。
そのような言説を弄し、物事を単純な善悪二元論に貶め、根拠の無い事や実現不可能な事を声高に保証し、自分を実際以上の存在に見せる。
そういう人の目を意識して、表面上のみ相手の期待に添う言説を弄する輩を「劇場型人物」と呼びたい。
日本では小泉純一郎で有名になり、
先の衆院議員選挙でも小池百合子が展開したものとして広く知られているだろう。
本作『否定と肯定』でのアーヴィングもそれだ。
わざわざリップシュタットの講演に乗り込んで、人のいる中で論戦を仕掛ける。
裁判という、受けると根気と時間とお金が必要な泥仕合に相手を引きずり込む。
どちらも、第三者から見たらどういう効果があるのかを計算した行為である。
「劇場型人物」の言説を聞いた観衆は熱狂し、その人物に力強さを感じる。
それもそのはず、何故ならその言説は、単に観衆が潜在的に聞きたいと願っていた言葉を言っただけなのだから。
だが、劇場型人物の言説に、信念や正義や歴史の事実は考慮されていない。
その瞬間、自分にとって何が利益になるかという事しか念頭に無いからだ。
なので、後にその公約を果たすという形で、考えられない様な行動を取る事がある。
しかし、公約という建前があったり、民衆の熱狂的な支持率があったりした場合、非常識な事もまかり通ってしまう。
何となく何処かの国の米大統領を彷彿とさせないか?
さらにこの状況が加速すると、
非常識のラインが下がり、国家自体が大胆になり、隣国との衝突を招き、戦争を引き起こす。
民衆が気付いた時には既に遅く、独裁恐怖政治が誕生しているのだ。
実際にこの状況に陥った国があった。
『否定と肯定』で問題となったナチスドイツもその一つである。
近年、ドイツを悪者にする映画が増えている。
それは単純に、ナチスという悪役をやっつけるのが痛快であり、
批判の声も上がりにくく、
しかも観客の動員が見込まれるという事もある。
また、ヒトラー死後70周年に合わせて作られたタイミング的なものもある。
しかし、今、何故こんなにもナチス関連の映画が作られているのか?
それは、現在の政治、社会状況が「かつてのナチスドイツ」を彷彿とさせるものに近付いて行っているからだ。
大衆迎合、移民排斥、軍備拡張、自国の利益優先。
そしてアジテーターたる指導者。
行き着く先は戦争だ。
映画を作るお金持ちやインテリ達は既に、無意識の内にその恐怖を感じ取っているのでは?
だから同時発生的に「ナチスドイツの恐怖を忘れない映画」が生まれているのではないだろうか?
世界が再び混乱に陥らない様に、
今、自分達はどうすべきか?
せめて正しい情報の取捨選択位は出来る様にならなければいけない。
70年前から続く戦争の因縁による、
17年前の法廷劇だが、
正に今、我々が直面している社会状況を鮮烈に描き出したこの『否定と肯定』。
これは必見の名作である。
映画の原作となった、デボラ・E・リップシュタットによる裁判の記録
スポンサーリンク
さて次回は、戦争とは大義名分、その大義名分に囚われた話、映画『セブン・シスターズ』について語りたい。