映画『ブラック・クランズマン』感想  恐怖より差別が生まれ、差別により恐怖が生まれる


 

1970年代のアメリカ、コロラド州のコロラド・スプリングス。ロン・ストールワースは、この町の初めての黒人警官である。潜入捜査の後、情報部に異動したロンは新聞にて、とある記事を見つける。電話を手に取った彼は、その人種差別団体「クー・クラックス・クラン」に入会希望を告げる、、、

 

 

 

 

 

監督はスパイク・リー
主な監督作に、
『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)
『マルコムX』(1992)
『ガール6』(1996)
『4 Little Girls』(1997)
『オールドボーイ』(2013)他

 

原作は、
ロン・ストールワースの自伝、『ブラック・クランズマン』。

 

出演は、
ロン・ストールワース:ジョン・デヴィッド・ワシントン
フィリップ・ジマーマン:アダム・ドライバー
パトリス:ローラ・ハリアー
フェリックス:ヤスペル・ペーコネン
デビッド・デューク:トファー・グレイス 他

 

 

 

黒人警官が、
白人至上主義を掲げる「KKK」の潜入捜査を行う。

 

もう、このアイデアの時点で面白い、

しかも、本作

驚きの実話ベース。

 

なんだか、
予告の印象もあって、

「黒人が白人の差別主義者にひと泡吹かせる」
みたいな、コメディチックな作品と予想されるかもしれません。

 

しかし、
本作は然に非ず。

確かに、笑いの要素はありますが、

メインはあくまでも、
人種差別がテーマの作品。

 

爽快感や、ユーモア感覚より、

差別主義者の不快感の方が勝っています。

 

決して、軽いノリでは無い、
ちょっと、楽しく観て、快哉を叫ぶ様な作品でも無い、
真面目よりの内容と言えるでしょう。

 

日本は、
アメリカほどの多民族国家では無いので、

本作で描かれる様な差別の描写に、引いてしまうかもしれません。

しかし、
今年から、事実上の移民受け入れが始まる日本にとって、
本作は、決して他人事とは言えないテーマ性を持っています。

正に、タイムリーな作品。

『ブラック・クランズマン』を観て、
来たるべき未来に備えるのも、いいと思います。

 

 

  • 『ブラック・クランズマン』のポイント

人種差別問題

相手を受け入れる事が無い世界

目的至上主義

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 差別問題がテーマの作品

『ブラック・クランズマン』は人種差別を扱った作品です。

「KKK」(クー・クラックス・クラン)は、
黒人差別で有名な、白人至上主義の団体。

しかし、
本作は黒人差別のみを扱った作品ではありません。

 

冒頭、ボーリガードなる人物が登場し、
ヘイトスピーチを展開します。

その中で、
黒人だけでは無く、
ユダヤ人に対しても、差別発言を繰り返します。

ユダヤ人差別と言えば、
第二次世界大戦時のナチスドイツを思い出しますが、

本作は、
リアルタイムで、
黒人同様、ユダヤ人への差別を展開するのです。

 

つまり、本作は、
黒人差別という問題に固執しておらず、
ユダヤ人についても語っており、

差別という感情、思考は、
時、所を問わず、
いつ、いかなる場所にも存在しうるという事を、
観客に思い出させるのです。

 

  • 目的を至上と掲げる事

この、白人至上主義を掲げるヘイトスピーチに対応する形で、

ブラックパンサー党の党首、
コーリー・ホーキンズ(クワメ・トゥーレ)の力強いスピーチも、
作品の冒頭で展開されます。

 

時代背景としては、

Wikipediaの記述を参考にしますと、
公民権運動を指導していたマルコムXが暗殺(1965)された事を契機に結成され、
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの暗殺(1968)により、更なる盛り上がりを見せたのだと言います。

差別に対して、非暴力で以て対抗する事の限界を感じ、

武力によって対抗する事を促したというブラックパンサー党。

本作でも描かれますが、

差別主義者の警官から、
貧しい黒人を守る為の自警団的な意味合いもあったそうです。

 

本作では、
ロンも、フリップも、
「発言は過激だが、その場のノリでの主張で、実害が起きる可能性は極めて低い」
と言っています。

とは言え、
これを客観的に観ると、
暴力蜂起を促す煽動は、危険極まるものだと言えます。

 

ヘイトスピーチをかます白人。

暴力のアジテイターである黒人。

差別に対抗する公民権運動が、
どれほど苛烈であったのか、

当時の差別や弾圧に対抗するには、
より過激にならざるを得なかった

それを、この二つのスピーチにて、
先ず、観客に思い知らせるのです。

 

このブラックパンサー党の主義に表されている様に、

本作においては、

先ず、目的ありき
それを実行する為に、
皆が、己の行動に様々な理由を付けて、
それを正当化しようとする様子が描かれています。

 

差別に対抗する為に、
暴力を用いるというブラックパンサー党の孕む矛盾。

また、
自らの差別意識を正当化する為に、

「相手が悪い」と、
組織的に、
白人以外を排斥する実力行使を繰り返す「KKK」。

 

本作で最も印象的なシーンは、
フェリックスの妻であるコニーが、

「私に人生の目的をくれてありがとう」と言うシーンです。

人生に目的を持つという事は、
生き甲斐に繋がります。

とは言え、
その「目的」というものが、差別である事の恐ろしさ、

そして、それに何の罪悪感も感じない、
むしろ、
喜びを感じているのです。

この、意識の無い無邪気さ、
他人に対する共感性の無さ、無関心こそが、
差別というものを生むのです。

 

クライマックス近くで、
カーラジオから流れてきた言葉も又、印象的です。

「アメリカから、差別は無くなった。しかし、それが白人差別となった」
そういう趣旨のセリフです。

黒人の人権を認める事が、
白人を害すると言っているのです。

聞いている方は、顔面真っ青、
これを、臆面も無く言ってしまう精神、

相手に権利を認める事が、
なぜか、
自分の権利を侵害する事と同意に考えているのです。

これは、
相手が自分より下だと思い、

そして、その根拠が、
民族的な違いという、何の根拠も無いもの。

理不尽に、
優越感を保ちたい、相手より優位に立ちたい

そういう、心の弱さというか、
自身の無さ、
自己主張、欲求を正当化する為に、

自己を高めるのでは無く、
相手を下げる事で、
それを実現しようとする思考、

これこそが、差別の本質であると、
言えるのではないでしょうか。

 

優越感という目的の為に、

自分が努力するのでは無く、
相手を攻撃する事の浅ましさ、恐ろしさ、

『ブラック・クランズマン』では、

そういう差別感情の無意味さと、
そこから生まれる暴力という負の連鎖を描いていると言えるのではないでしょうか。

 

  • ユーモアがあれど、笑えないという現実

本作『ブラック・クランズマン』は、
ユーモア感覚もあり、
コミカルな演技もあり、
大逆転的な逆襲があったりして、
観ている人間が入りやすい要素が沢山あります。

しかし、
観て、楽しい作品では無い、
相手に「キャン」言わせて、スカッとする作品では無いのです。

 

電話口での巧みな話術により、
「KKK」での信頼を得る、黒人のロン・ストールワース。

相手に「君こそ、純粋なアメリカの白人だ」と言われ、
あまりの間抜けさに、
警官達が、思わず吹き出し、
相手をコケにするというシーンが何度かあります。

ラスト近く、
「KKK」の指導者のデュークに
「俺は黒人だよ、間抜け」と言い放つシーンは、
本来ならカタルシスを感じるハズです。

しかし、スカッとしない。

現在を生き、本作を観てきた我々は知っているのです。

一時的な勝利による気持ち良さなど、
差別感情の前には、何の意味も無いと。

 

ラストシーン、

ロンとパトリスが政治談義する部屋を、
何者かがノックします。

警戒しつつ、ドアを開ける二人が見たのは、

窓の先、
遠い場所で燃え上がる十字架。

そして、そこから、現代のニュース映像が挿入されます。

映画で、一時的に差別主義者にひと泡吹かせても、

差別やヘイトは、
未だ無くなっていないという現実を思い出させるのです。

 

 

暴力でも駄目、
知略でも無理、

結局、差別意識は無くならないのか?

いや、そうでは無い、

本作は、
「差別というものは、ある」

それを忘れてはならないと訴える続ける事で、

人では無く、
差別意識、それ自体を攻撃した作品、

それこそが、
『ブラック・クランズマン』が目指した所では無いのでしょうか。

 

まぁ、とは言え、
作中でも言っていましたが、
まさか、将来(現代)において、差別主義者が大統領になるとは、

お釈迦様でも、
思わなんだであろうなぁ…

 

 

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コチラは映画の原作本、ロン・ストールワースの自伝的ノンフィクション


ブラック・クランズマン


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