2015年、89歳のパトリシアは老人介護施設に入所していた。健忘症を患い、記憶が混乱しているパトリシア。彼女は二つの人生の記憶があった。結婚した人生、しなかった人生。しかし、どちらも人生にも子どもがいた、、、
著者はジョー・ウォルトン。
イギリス出身。他の著書に、
『図書室の魔法』
ファージング3部作の
『英雄たちの朝』
『暗殺のハムレット』
『バッキンガムの光芒』等がある。
本書『わたしの本当の子どもたち』、そのアイデアはSF的であるが、内容に取っつきにくい小難しさは無い。
結婚した人生
しなかった人生、それぞれが交互に描かれる。
特に難しく話が交錯したりはしない。
二つの人生、その違う歴史が普通に語られる。
パトリシアの若年期、子育て期、老年期それぞれが順番に描かる。
そのパトリシアの人生に、
時にツッコミを入れ、
時に共感し、だんだんとのめり込んでいける。
人生は選択と可能性に満ちている。
もし、あの時ああしていたら、、、
その思いを描いた小説である。
以下ネタバレあり
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わたしたちの人生の物語
本作『わたしの本当の子どもたち』に描かれるのは、普通の女性の人生の物語である。
スイーツ脳丸出しの若年期。
人生の理不尽さと幸せを同時に感じる子育て期。
老いと衰えに怯える老年期。
そのそれぞれの人生の描写が、読む人間自身の経験と思い出を刺激し、否応なしに共感を呼び込む。
面白いのは、家庭に入った人生と仕事と恋人に生きた人生を並列する事で、より多くの読者の琴線に触れる形にした所だ。
家族に人生を捧げた人生と、恋人と共に生きた人生を一人の人間が同時に実現するのは難しい。
それを「二つの人生」という形にして、同一人物が同時に経験する形にしているのだ。
それにより、読者は最低でもどちらかの何らかの部分に共感する事が出来る。
普通なら、パットの人生の方が良いだろう。
しかし、憎いのはパット側の歴史がテロと核の恐怖に満ちている世紀末的世界である事だ。
最期に選択する。
愛があるが、恐ろしい世界か、
平和だが、愉しみのない人生か、
果たしてどちらが幸せなのだろうか?
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オルタネイト小説?
本作『わたしの本当の子どもたち』は、マークのプロポーズ(?)に対する返答の如何により世界が分岐する。
そして、違和感を覚えるのはp.126辺りからである。
どうやら、私達の知っている歴史と違う様だぞ、と。
そして、どちらの歴史でもアメリカ大統領J・F・ケネディの後に、弟ロバート・フランシス・ケネディも大統領になっているのだ。
これは、
トリシアの歴史(A)、
パットの歴史(B)、
そして私達が知る歴史(C)、最低でも3つの歴史があるという事である。
単に二者択一ではない。
読む人間の世界も合わせるとそう考えざるを得ない。
ラストのパトリシアの状態は何なのだろうか?
二つの人生を回想している様にも見えるが、
一方、私達の知る歴史(C)のパトリシアが、こうだったら良かったのに、という(A)と(B)の人生を妄想している、または、新たにやり直す為に(記憶の中で)生き直そうとしているかの様にも見える。
人生とは選択の連続の結果である。
そして、幸せとは結局、自身が人生をどう認識するかである。
人生の最晩年、認知力の低下した頭脳の中で、自分の人生が幸せだったのだと思い込んで何が悪いのか?
あのラスト、パトリシアが必死に自分の人生は幸せであったのだと、思い出すのではなく、模索して記憶を作り上げている様に思えた。
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いつくになってもスイーツ爆発
パット(Bの人生)がマークと再会した時の事をビィに語るシーン(p.211)がある。
元カレをくさして、キャッキャウフフするスイーツ脳全開である。
やめてあげなよぉ、、、
そのセリフ、間接的に自分の愚かさを表わしているんだよ、、、
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ネタの補足
どちらの人生でもビィの手伝いをしていた(p.450)というソフィ。
私の様に注意力の足りない読者にとって、伏線を自らバラしてくれるのは有り難い。
折角なので確認してみた。
確かに、
トリシア(A)のパートでソフィが「ディキンスン先生」と言っている場面(p.296)があるし、
パット(B)のパートで「昨日ソフィからあずかった」とビィが言っている場面(p.365)があった。
いやー、気付かないものですね、、、
他にもあるかもしれないが、参考までに。
(A)の人生のトリシアは不幸そうに見えるが、家族関係自体は、夫マーク以外は概ね良好であった。
そして、トリシア自身も積極的で活動的なので、わりかし幸せそうである。
結局は、不本意に与えられた状況であっても、その時々の努力如何で人生はどうにでも変わる。
そんな事も考えてしまう作品である。
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さて次回は、不測の事態も努力で生き残れ!?映画『エイリアン:コヴェナント』について語りたい。