引っ込み思案で対人恐怖症、いわゆる陰キャのエヴァン・ハンセンは、セラピーで勧められた方法、自分に対するポジティブな手紙を出す事で、自信を付けようとしていた。
「親愛なる、エヴァン・ハンセンへ…」
図書館で、思わずプリントアウトしたその手紙。ひょんな切っ掛けで、これまた変わり者として学校で知られているコナーという同級生が持ち帰ってしまった。
3日後、エヴァン・ハンセンは、コナーが自殺した事を知る。そして、彼の所持品は、その手紙のみだった。まるで、親友に宛てた遺書のような、、、
監督は、スティーヴン・チョボスキー。
監督作に
『ウォールフラワー』(2012)
『ワンダー 君は太陽』(2017)等がある。
原作は、
2015に初演された舞台『ディア・エヴァン・ハンセン』。
出演は、
エヴァン・ハンセン:ベン・プラット
ハイディ・ハンセン:ジュリアン・ムーア
ゾーイ・マーフィー:ケイトリン・デヴァー
シンシア・マーフィー:エイミー・アダムス
ラリー・モーラ:ダニー・ピノ
アラナ・ベッグ:アマンドラ・ステンバーグ
ジャレッド・カルワニ:ニック・ドダニ
コナー・マーフィー:コルトン・ライアン 他
本作『ディア・エヴァン・ハンセン』は、
2015年に初演された、
同名の舞台が元ネタとなった映画版です。
そして、本作の主演、エヴァン・ハンセンを演じるベン・プラットは、
舞台にて、最初にエヴァン・ハンセンを演じたオリジナルキャストなのだそうです。
ですが、
アメリカ本国では、30間近のベン・プラットが、
高校生を演じるのは、年を取り過ぎているのではないか?
との批判があったそうです。
まぁ、
その辺、オリジナルの舞台を知らないので、
私は全く気になりませんでした。
ほら、
土屋太鳳が女子高生役を演じたりするじゃないですか、
まぁ、そういう事もあるし、
別に、目くじら立てる必要ないんじゃないかなぁ、と思います。
で、
煽り文句で、
『ラ・ラ・ランド』(2016)とか、
『グレイテスト・ショーマン』(2017)の名前が上がっていますが、
ぶっちゃけ、本作は、
ちょっと、先の2作品とは、毛色の違う映画になっております。
まぁ、実際、
本作の音楽担当は、
先の2作品も手掛けた、
ベンジ・パセックとジャスティン・ポールという人達なのですが。
『ラ・ラ・ランド』と『グレイテスト・ショーマン』の2作品は、
色々な要素のある映画ですが、
恋愛要素っていうのが、
大きなウェイトを占めています。
一方、本作、
『ディア・エヴァン・ハンセン』にも、
まぁ、そういう要素はありますが、
メインとして描かれるのは、
ままならない思春期の鬱屈です。
なので、
ぶっちゃけ、陽気なパリピには向かない映画と言えます。
何グチグチ言ってんだ?としか思えないでしょう。
でも、
もし、この映画を観るあなたが、
現在、若しくは、過去、
どっちかというと、
スクールカーストの下位の土台寄りのポジションだったとしたら、
本作は、刺さる部分も多いです。
エヴァン・ハンセンの、
骨折した腕のギプス。
アメリカには、
快気を願って、友人がギプスにサインをするという「おまじない」がありますが、
誰にも、サインしてもらえなかった、
エヴァン・ハンセン。
何の気紛れか、
「これで、親友のフリが出来るな」と、
コナー・マーフィーは、エヴァン・ハンセンの腕のギプスに自分の名前を書きます。
コナー自殺後、
学校で、コナーの両親に会ったエヴァン・ハンセン。
所持品が、エヴァン・ハンセン宛ての「遺書」のみだった事、
そして、
ギプスにサインをしている事を発見し、
コナーの母親のシンシアは、
エヴァンが親友だと思い込み、
息子とのエピソードを教えてくれと頼みます…
で、エヴァン・ハンセンが、
何をするのか…
と、言うのが、映画の内容なのですが、
いくら思いやりからだとしても、
「嘘も方便」も、
度が過ぎれば炎上不可避!!
ってヤツですよ。
青春の悩み、
中学、高校生の時の、
あの、モヤモヤとした気持ち。
生きる苦しみの中で、
もがいて、溺れていた時間が、
蘇るような気がします。
だって、
怖い事から逃げている、
エヴァン・ハンセンって、私だもの。
そんな本作は、
心に孤独、疎外感を抱える全ての人へ送る作品と言えるのです。
あの、
今は卒業してしまった生き難さを、
まざまざと思い出させる、
それが、
本作『ディア・エヴァン・ハンセン』であり、
そこに共感出来れば、
あなたにとっても、本作は確かに、素晴らしい作品となるでしょう。
あと、余談ですが、
本作、
予告篇を作った人が超優秀で、
優秀過ぎて、
映画の内容を1分半で全て紹介してしまっています。
予告篇を観て、
気になって観に行って、
「予告のまんまじゃん」と、
私みたいになるかもしれませんので、
悪しからず。
-
『ディア・エヴァン・ハンセン』のポイント
青春の、孤独感と疎外感
「嘘も方便」も、度が過ぎれば炎上不可避
分相応、身の丈を知る事
以下、内容に触れた感想となっております
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分相応と、身の丈を知る事の大事さ
ミュージカルにて、
第71回トニー賞にて、
6部門を受賞した『ディア・エヴァン・ハンセン』。
本作は、その映画化作品です。
なので、
まぁ、内容バレバレのYouTubeの予告篇でも、
それを期待して、
舞台のファンは観ているのでしょうね。
それはそれとして、
本作で描かれるテーマは、
青春の孤独感と疎外感、
そして、それを乗り越えた先にある、
「ありのままの自分」を受け入れる事にあると思います。
しかし、
本作の「ありのまま」っていうのは、
いわゆる、
「アナ雪」の「レリゴー」の様に、
自分を誇って、決意表明する様な感じでは無く、
やらかしてしまった後の、
ほろ苦い後悔と、
それを経験した後の、精神的な成長という、
どっちかというと、静かなしんみりとした感じのものです。
「分相応」「身の丈を知る」って、ヤツですね。
言葉のイメージとしては、
何となく、
負け犬の言い訳の様な感じがするかもしれません。
しかし、
人間、前もって対策出来る、「予習」が得意な人達ばかりじゃ、ありません。
失敗を経験し、
敗北を認め
今後の人生で、それをどう活かすのかと学習する、
要領の悪い人間は、
そういう、
「復習」にて成長して行くしかないのです。
本作のラストが、
非常にしんみり来るのは、
自分が、
やらかしてしまった時、
他人に、どんなに大きい影響を与えてしまうか、
その取り返しのつかなさと、
その喪失と過失の後でも、
人生が続いて行くという、
新たな一歩を感じさせるからでしょうね。
それは、
どんなに失敗しても、
それは、新たな道の始まりに過ぎないという、
ある種の、
救いになっており、
それが、
本作のラストが、
ハッピーで無くとも、
後味が悪くない所以なのだと思います。
-
孤独感と疎外感
対人恐怖症として、
キョドっている、陰キャのエヴァン・ハンセン。
学校で友達が出来なくて、
一人で昼ご飯を食べています。
唯一の友達は、
「ファミリーフレンド」、
いわゆる、親同士が友達である、ジャレッドのみ。
…まぁ、
実際は、
ジャレッドこそ、親友だというのは、
本作を鑑賞した人間は気付くのだと、思いますが。
本作のエヴァン・ハンセンは、
極端な例と言えなくも無いですが、
彼ほどでは無いにしても、
人見知りして、
学生時代、
人間関係を上手く構築できなかった人も、
多いのではないでしょうか。
しかし、
本作のテーマの一つとして描かれるのは、
その疎外感、孤独感は、
君だけじゃ無いよ、
という事なのです。
映画の鑑賞者が、
主役であるエヴァン・ハンセンに感情移入する事は勿論、
一見、
陽キャに見える、
学校活動に積極的なアラナですら、
抑鬱で、薬とセラピーに頼っていると告白します。
また、
コナーやゾーイの義父であるラリーも、
その見た目は
ナイスで自信満々なミドルエイジなんですが、
そんな彼でも、
初めて3歳のコナーに会ったとき、
受け入れてくれるだろうかと、緊張したと告白します。
他にも、
エヴァンの憧れのゾーイも、
自分が、
「自殺したコナーの妹」として
学校などで「お悔やみ」を言われる事に、嫌悪しています。
だって、
「嫌なヤツ」だったコナーが死んだ事に、
ゾーイは、哀しみを覚えないから、
「お悔やみ」されても、
そんな気も無いのに、ウザいだけで、
自分が「悪者」の様に思えてしまう。
そんな自分に嫌気が差しています。
また、
つっけんどんな親友のジャレッドも、
その態度とは裏腹に、
エヴァンに手を貸してメールを偽造したり、
「コナープロジェクト」のホームページを作ったり、
クラウドファンディングに参加したり、
無表情な外見と違って、
妙に、協力的です。
そして気になるのが、
エヴァンがゾーイとイチャイチャしている様子に、
眉をひそめているシーンがあった事。
その後に、
このシーンに関する伏線回収がなくて、
投げっぱなしの感があったのですが、
パンフレットを読むと、
どうやらジャレッドは、ゲイという設定らしくて、
それを鑑みるに、
どうやら、
エヴァンがゾーイとイチャイチャしているのに眉をひそめたのは、
コナープロジェクトを疎かにした事に怒ったのでは無く、
彼が個人的に、
エヴァンを好きだったから、嫉妬なのかもしれません。
つまり、
終始、ジャレッドがむっつりしていたのは、
自分が好きなエヴァンが、
他の娘が好きだというのに、
それを黙って見ているという、
何と言うか、
秘められた想いみたいなものが、
あったのかもしれません。
これも、一種の、疎外感と言えるのではないでしょうか。
この様に本作では、
エヴァンを始め、
登場人物が、孤独感、疎外感に悩まされている様子が、
数多く描かれます。
それにより、
皆が孤独に苛まれている、
故に、その感情を抱えている君は、私と同じで、一人じゃ無い、
そういう事を描いていると言えるのです。
人は、
他人と共通点を見つけると、
仲良く出来る。
そういう事です。
そして、それはコナーにも言える事です。
作中、登場するシーンにおいては、
家族にも迷惑をかける、
理解不能の暴れん坊という印象しかありませんが、
それを、エヴァンが「エピソードのでっち上げ」で、
コナーにも良い面があったと、
マーフィー一家に思い込ませます。
しかし、
それは果たして、
完全に「嘘」だったと言えるのでしょうか?
もし我々が、
皆等しく孤独感を抱えているとしたら、
彼の疎外感をもまた、
我々と同じ孤独だったのではないでしょうか。
コナーの様な、
コミュ障の嫌われ者も、
その悩みの根っこは、自分と同じなのでは?
そう気付く事が、
本作のテーマであると私は考えますが、
どうでしょうか?
-
役割を演じる、期待に応えるという事
嘘も方便も、
度が過ぎれば大炎上。
本作では、
その様子が描かれており、
動画がバズって一躍有名人になって、
一時的にもてはやされますが、
やらかして炎上してしまったら、
その反動は大きく、
持ち上げられたハシゴを、いきなり取り外されてしまう事になります。
そして、一度火が付いたら、
自分が正義とばかりに、相手を叩きに叩き、
相手が社会的にフェードアウトすれば、
潮が引く様に、あっさり、飽きてしまう。
まさに、現代の炎上案件をそのまま描いています。
さて、そんな本作、
何故、エヴァン・ハンセンは、炎上してしまうような、
「嘘も方便」をやってしまったのでしょうか?
そして、何故、
皆は、エヴァン・ハンセンの嘘を信じてしまったのでしょうか?
先ず、エヴァン・ハンセンは、
嘘を吐いている訳では無いのです。
彼は、
役割を演じてしまったと言えるのではないでしょうか。
家庭では、親として、子供として振る舞い、
学校では、常識ある生徒が求められ、
会社では、上司として、部下としての立場が求められる。
社会生活を円滑に送る為には、
状況に応じた立場を弁える事が、重要になってきます。
食事に呼ばれ、
コナーの母のシンシアに、
友達関係のエピソードを求められたエヴァン・ハンセンは、
その立場を、演じてしまったのです。
彼は、
引っ込み思案で、社交性が乏しく、
友人も多いタイプではありません。
他人に立場を「求められる」という事が、そう多くなかった。
故に、
シンシアに立場を求められた時、
思わず、張り切ってしまったという訳です。
そして、
何故、エヴァン・ハンセンの言葉を、
皆は信じてしまったのか?
冷静に考えたら、
アマラの様に、時系列の矛盾点に気付けたハズです。
一つは、
人は、自分が信じたい、都合の良い事を信じるから、という点があります。
親として、妹として、
同級生として、
そうだったら良いのにな、という、
良い面を前面にフューチャーした状況の方が、
自分の気分も良いから、それに飛び付くのです。
そしてもう一つは、
エヴァン・ハンセンが、コナーについて語る言葉が、
実際は、自分語りとして、
彼の率直な、気持ち、
自分の内なる本音として、嘘偽りが無かったからなのです。
りんご園での、
骨折のエピソードも、
実際は、
自殺未遂であった訳ですが、
エヴァンは、
それを友情エピソードに変換します。
ジャレッドには、
木から墜落し、
助けを待っていた10分間が、
人生で最も笑える時間だったと言っていました。
勿論、それは彼なりの皮肉であり、
死ぬに死ねず、
それでも、誰にも顧みられない自分の惨めな状況に、
自己憐憫を通り越して、
笑って誤魔化すしかなかったのです。
そんな自分では無く、
誰か、手を差し伸べてくれたら…
彼は、自分がして欲しかった事を言っているのです。
コナーについてのエピソードをスピーチした、
あの「バズった動画」の場面でも、
彼は、コナーの様な状況、
自分が苦しい時でも、
周りを見渡せば、きっと、手を差し伸べてくれる人が居るハズだ、
君は、一人じゃ無い、
という言葉は、
そのまま、
自分は、生きていて苦しい、
誰か、自分を見て、
手を差し伸べて欲しい、という、
彼自身の願望だったのです。
こういう、助けを求める言葉というのは、
人は、プライドが邪魔して、
中々、言えるものではありません。
他人の立場に仮託する事で、
自分の本音を語る事が出来た。
そしてそれは、
言葉を聞いた人も、
登場人物も、そして、映画を観ている我々観客も、
人に言えずに抱えている、根源的な悩み、
自分の事を知って欲しい
だからこそ、
エヴァン・ハンセンの言葉が、
刺ささったのですね。
人は、青春の悩みとして、
自分が世界に一人であるかのような、
孤独感と疎外感に苛まれます。
それは、
年を取ると、
徐々に乗り越えて行く事ですが、
それでも、
他人に、自分の事を知って欲しいという淡い期待は、
変わらず、心の中に残り続けます。
だからこそ、
自分が苦しい時は、
素直に、自分をさらけ出す事も、
時には、必要になります。
その時、
誰かが、手を差し伸べてくれるかもしれないからです。
それは、
本作で言う所の母親のハイディの様に、
気付かずにいて、すまなかったと、
そして、彼女自身も、不安感があるのだと、
手を差し伸べてくれる人自身も、
不安を抱えている、だから、
助ける事が出来る、
そういう、
人との関わりの中で、
自分の分相応、
立ち位置を、確立してゆく。
本作『ディア・エヴァン・ハンセン』は、
人生という、
生き難い時間の中で、
それを楽にしてくれる、一助になるのではないでしょうか。
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