映画『ドライブ・マイ・カー』感想  耐えがたくとも、罪悪感を背負って生きて行く覚悟

舞台にて、演出と出演も兼ねる家福悠介(かふくゆうすけ)。脚本家の妻・音(おと)と二人暮らし。
ある日、海外出張で家を出た家福だが、現地の荒天によってフライトがキャンセル、家にとんぼ返りしたのだが、そこで妻は何者かと性行為に没頭していた。こっそり家を出る家福。
何事も無かったかの様に過ごした後日、「今夜、話がある」と音に告げられた家福。その日、家に帰ると、音はくも膜下出血で倒れていて、、、

 

 

 

 

 

 

監督は、濱口竜介
東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作である『PASSION』(2008)にて注目される。
その後も
『なみのこえ 新地町』『なみのこえ 気仙沼』『うたうひと』(2013)のドキュメンタリー作品や、
『不気味なものの肌に触れる』(2013)を発表。
長篇映画監督作の商業作品として、
『ハッピーアワー』(2015)
『寝ても覚めても』(2019)がある。

 

原作は、
村上春樹の短篇小説『ドライブ・マイ・カー』。

 

出演は、
家福悠介:西島秀俊
渡利みさき:三浦透子
高槻耕史:岡田将生
家福音:霧島れいか
コン・ユンス:ジン・デヨン
イ・ユナ:パク・ユリム
ジャニス・チャン:ソニア・ユアン 他

 

 

 

第74回カンヌ国際映画祭にて、
脚本賞、国際映画批評家連盟賞、等を受賞。

第79回ゴールデングローブ賞にて、
非英語映画賞受賞。

そして、
第94回アカデミー賞にて、
国際長編映画賞を受賞 等、

様々な受賞歴を誇り、
海外にて高い評価を受けている作品、

『ドライブ・マイ・カー』。

 

日本での公開日は2021年8月20日でしたが、
アカデミー賞ノミネートの報や、
実際に、アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した事で、

現在(2022/04/19)でも、
映画館にて異例のロングランが続いています。

 

 

日本にて、
映画作品がヒットするには条件があって、
先ず、
女性が、作品を観に行くという事が大前提にあり、

その上で、
1:アニメ作品
2:TVドラマの続き
3:海外の映画祭で評価される

のいずれかに属します。

『ドライブ・マイ・カー』は
勿論、「3」に属する作品であり、

いわば、
ストレートな実力のみで、
観客動員を成し遂げた作品と言えるでしょう。

 

 

さて、そんなこんなの『ドライブ・マイ・カー』ですが、

私は、鑑賞をスルーし続けてきました。

何故なら、
オシャレな感じが苦手なのと、
原作の、村上春樹作品が苦手なのと、
上映時間が179分という長時間に耐えられる自身が無かったからです。

いやぁ、私もどちらかと言うと、そろそろ老人ですからね。

映画を観ずして、
その作品が、自分に合うか、合わぬか、
それ位は、感じ取れるという訳です。

ほら、人間関係でも、
初対面での
「合う、合わない」という印象が
付き合ってみても、「やっぱりそうだった」という事が、
殆どだと思いますが、

それと、同じ事ですね。

 

しかし、
アカデミー賞で、
国際長編映画賞を受賞したとなれば、
話は別。

アカデミー賞の作品賞を受賞する作品って、
結構政治が絡むので、

作品の純然たる評価としては、
面白く無いものも、多数あります。

その一方で、
国際長編映画賞の方は、
海外(アメリカ外)作品向けの賞なので、

忖度が無い分、
純粋に、面白い作品が多い印象です。

それを受賞したとなれば、
作品に興味が無くとも、

せめて、義務感で観に行く必要があったという訳です。

 

 

で、実際に観てきた感想といたしましては、

面白く、興味深い作品でした。

賞を貰わないと、
決して、観るタイプでは無かった為、

そういった意味でも、
海外の映画祭の評価って、絶大だな、と思いました。

 

とは言え本作、

娯楽性というよりも、芸術点の高い作品

 

ですので、
インスタントに面白いというものではありません。

作品をどう解釈するのか、
それは観た個人の判断に委ねられ、

そういった意味で、
余白の多い、懐の深い作品

 

です。

 

なので、
年に数回しか映画を観なかったり、

直接的に、観て面白い!

という作品を求めているのなら、

「コナン」の映画とか、
「アベンジャーズ」系列の映画とか、

そっちの方が、断然にオススメです。

 

また、
鑑賞前に感じていた懸念、

オシャレ映画という雰囲気、
村上春樹作品特有の空気感、
上映時間の長さというネックは、

そのまま本作を、

合う、合わないのタイプに分ける要因でもあります。

端的に言うと、
誰が観ても、面白いという作品では無いのです。

 

海外で賞を獲得した話題作。

とは言え、
万人が観て、気に入る作品ではありません。

観てつまらなかったら、
正直に、そう言っていい作品です。

私も、
本作がもし、賞を獲っていなかったら、
見向きもしなかったでしょう。

 

訳分からないけれど、
オシャレな雰囲気に浸り、
色々な独自解釈をして楽しむ、

そういう心のゆとりがある方なら気に入る、

『ドライブ・マイ・カー』は、
そういう作品だと思います。

 

 

  • 『ドライブ・マイ・カー』のポイント

作品の解釈の余白を楽しむ作品

性行為と運転

罪を抱えて生きるという事

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

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  • 映画作品としての『ドライヴ・マイ・カー』

『ドライブ・マイ・カー』の原作は、
村上春樹の短篇小説、「ドライブ・マイ・カー」。

「ドライブ・マイ・カー」は、
短編小説集、
『女のいない男たち』に収録されており、

元々の原作「ドライブ・マイ・カー」は、
ビートルズの楽曲『ドライヴ・マイ・カー』から題名を流用しているそうです。

 

映画の『ドライブ・マイ・カー』は、
「ドライブ・マイ・カー」以外にも、

『女のいない男たち』に収録された他の短篇小説、
「シェエラザード」「木野」のエピソードも投影されており、

更に、作品のメイン舞台を東京から広島に変更しています。

又、
劇中劇で演じられる、
チェーホフの『ワーニャ伯父さん』は、
もう一つの原作と言える程、作品に影響を与えており、

原作が短篇であるが故に、
映画化において、手を加える余地が大きく、
独自の設定を加える事で、
より、世界観を拡げていると思われます。

 

これにより本作は、
より、余白の広い、

観客の解釈に委ねられる作品になっているのではないでしょうか。

 

そして本作は、
カンヌ国際映画祭や、ゴールデングローブ賞、
アカデミー賞など、

海外での映画祭で、高く評価されています。

 

本作は、
その劇中劇において、

演劇の出演者を多国籍にし、
また、
演劇での使用言語も、
出演者の地元の言語をそのまま喋らせるという、
多言語演劇を実現しています。

日本語、
中国語(北京語)、
韓国語、
韓国手話 などが入り乱れるカオスぶりですが、

それを実現するのは、
演劇の「本読み」の段階で、
感情を込めず、
出演者が皆、そろって平坦に台詞を読み上げるという手法を、
徹底的に繰り返す、

いわば、
言葉の基礎訓練を積んでいるからなのだそうです。

そして、この手法は、実際に、
本作などの映画を撮影する前段階で、
濱口竜介監督自身が取り入れているそうです。

 

そういう、
多国籍、多言語、手話の活用という多様性は、

アカデミー賞の現在のトレンドであり、

監督は、意図して、
海外での映画祭の賞を狙って、
作品を作り上げていると思われます。

 

実際に、
同年のアカデミー賞で作品賞を獲得したのは、
手話が作品で取り上げられている『コーダ あいのうた』(2021)ですし、

前年のアカデミー賞作品賞を受賞した『ノマドランド』(2021)の監督のクロエ・ジャオは、
その次回作『エターナルズ』(2021)では、
アメコミヒーロー映画に多国籍の多様性を取り入れています。

 

何が言いたいのかというと、
賞を獲得する様な作品を作る監督は、
それを常に意識しているという事です。

その時に、どんな作品が求められているか、
その時流に乗り、

そして本作は、
意図が見事に嵌っているのです。

つまり、本作の凄さは、
偶然では無く、狙ってヒットを打ったという、
その点にあります

 

アカデミー賞と言えば、
「ウィル・スミスのビンタ事件」がありました。

その事について、どう思うかと、
式に参加した、帰国後、
日本のマスコミ尋ねられた西島秀俊の返答が秀逸。

アカデミー賞の受賞式では、
5分ばかり、外に出られる時間があり、
自分は、丁度その時、外に出ており、
現場を目撃していない、

的な事を、答えていました。

これは、
安倍晋三や菅義偉などの政治家が多用する
「ご飯論法」というヤツで、

巧妙に質問の意図をずらし、
質問の真意とは違う回答をする事で、
答えたくない事を避ける手法です。

つまり、
ウィル・スミスの行動の是非について私見を言えば、
どっちに転んでも炎上しますが、

その回答を上手く、西島秀俊は避け、

誰も知らないアカデミー賞受賞式の小ネタを披露する事で、
その場を切り抜けているというスマートぶりです。

 

映画の主役を地で行く格好良さですね。

 

  • 音の性行為

さて、漸く、映画の内容を語ります。

 

家福音は脚本家ですが、
その「本」は書いているというよりは、

巫女や口寄せの様に、
何処からか、降りてくる言葉を口走り、

それを、介添え人が筆記するという形式、

いわゆる憑依型の作家です。

で、
その口寄せの儀式が、性行為であり、
多人数と不貞行為をはたらいていた音にとって、
それは、
創作と切っても切り離せない行為ではありましたが、

家福悠介にとっては、
それを「どす黒い深淵」と表現しました。

 

荒唐無稽な設定ですが、
とりあえず、雰囲気で性行為を描写する村上春樹作品ならではの設定と言えます。

 

さて、作中、
音が最後に「降ろして」いた脚本は、
「前世がヤツメウナギだった女子高生の話」です。

途中までしか語られなかったそのエピソードは、
伴侶である家福よりも、

音の浮気相手である、
間男の高槻の方が、
先の方まで、話の内容を知っていました。

つまり、ここから推測出来る事は、

その期間、
高槻の方が、より、セックスの回数が多かったか、
もしくは、
よりセックスの時間が長いのか
それとも、
より、セックスが気持ち良いのか
そのどれかだと思われます。

つまり、
高槻の方が、
悠介よりセックスの相手的には、良かったのかもしれません。

 

また、そこから敷衍して考えるに、

複数の相手を性行為をしていたという音は、
性交渉をする相手から、
その物語を引き出しているのではないか、という推測が成り立ちます。

 

つまり、
音にとってセックスとは創作行為であり、

夫より上手い(?)相手をみつけて、
より、没頭していた、と言えます。

 

サレ夫である悠介は、
それを「心の暗黒」と表現しましたが、

それを、客観的に眺めるみさきは、
「そういう人」と喝破していました。

 

脚本を不貞の相手から引き出していた、
という事は、

つまり、
「前世がヤツメウナギの女子高生の話」は、
そのまま、高槻の話でもあるのです。

 

恋する相手の家で、
空き巣を殺して、その死体を残したのに、
何のレスポンスも無い、
ただ、監視カメラが玄関に備え付けられたのみ、
自分はそのカメラに「私が殺した」と繰り返す、

これは、

音と浮気をした相手は自分なのに、
悠介はそれに気付いていながら、動じる様子も無い、
ただ、演劇の監督として、自分を指導するのみ、
なので、車の中で自分は、「俺が浮気相手だ」と繰り返す、

この高槻の真意は、
世界(世間)に、
自分がここに居ると、気付いて欲しいという、
必死の訴えに聞こえます。

 

バーで他の客に絡んだり、
女癖が悪かったり、
喧嘩っぱやかったり、

その表現方法が狂ってしまっているのは、
恐らく、
音の口寄せの媒体された後遺症であると思われます。

昨日と何も変わらない平穏な日常が、
しかし、
暗黒に一変してしまった、

と、「前世がヤツメウナギの女子高生の話」で高槻は語っていましたが、
それは、
音と性行為をした後の、彼自身の状況であるのです。

 

そういった意味で、
20年間夫婦を続けられた
=音との口寄せの儀式でも壊れなかった悠介は、

彼女にとっての唯一のパートナーであり、

だからこそ、
浮気相手の高槻は、
悠介に嫉妬したのだと思われます。

で、
それを自覚していないのが、
当の悠介本人のみ、という状況なのでしょうね。

 

  • 運転と性行為

性行為という観点から『ドライヴ・マイ・カー』を眺めると、
もう一つ、
「車の運転」についても考察出来ます。

 

車やバイクなど、
その乗り物に愛着のある人間は、
他人がそれを運転する事を嫌います。

単純に、
「生殺与奪の権を他人に握らせる」事に忌避感を覚える、
『鬼滅の刃』の冨岡義勇の様な感覚があるのでしょうが、

まるで、
他人に恋人を寝取られたかの様な嫉妬を覚えるという人も、
一定数いると思われます。

 

音に「君の運転が嫌だ」と言ったり、
みさきの運転代行を最初は断った家福は、
後者だと思われます。

 

家福にとって、

愛車である「サーブ900ターボ」の中で
音の音読カセットテープを聞くのは、

妻を喪った彼の
性行為の代替行為と言えます。

 

一方、みさきは、

中学の頃から、
水商売の母の送り迎えで、
車を運転していたと言いました。

車の運転が性行為に通じるというのなら、
その設定は、

母に強要されて、
中学の頃から売春させられていた、

という事を暗示しているのかもしれません。

 

また、
母に無垢な幼児の人格が表われたという、
前後の脈絡の無い、突飛な設定も、
もしかして

母の強要によって、彼女の中に生まれた人格
ではなくて、
母の強要の結果、自分が実際に生んだ子供
の事なのかもしれません。

地滑りで母を見捨てた時に、
それと同時に、
自分の子供も見捨てたのかも?

かなり、突飛な解釈ですがね。

 

  • 罪を抱えて生きる覚悟

本作『ドライヴ・マイ・カー』において、
家福のわだかまりとは何だったのか、

それは妻の音の不貞というより、

「話がある」と言われた日に早く帰っていたなら、
くも膜下出血で倒れていた音を、救えていたのかもしれない、

その、「未必の故意」であるのではないか、
その罪に悩んでいたからです。

 

みさきも、
地滑りで潰れた家から、
助けられたかもしれない母の事を思って、

その罪悪感から逃亡するかの様に、故郷を後にしています。

 

本作で描かれてきたのは、
「結局は、他人の意図は分からない」
故に、意図を汲んで、解釈するのは自分だけれど、
相手を信頼する事が、結局、自分にとって一番であるという事です。

それは、
音の不貞行為のエピソード、

そして、
多言語で成立する、
多国籍キャストの演劇によって、
示唆されています。

相手の言語が分からなくとも、
演題(「ゴドーを待ちながら」「ワーニャ伯父さん」)を
皆が演じているという信頼関係から成り立っている演劇であるからです。

 

本作ではそのクライマックスで、
「ならば、自分自身はどう捉えればよいのか」という命題にシフトします。

他人に対しては、
相手の意図が分からなくとも、信頼関係を持って、そういうものとして受け入よう。

それが出来るならば、

自分が罪を抱えても、
それこそが、自分の人生なのだと、
立派に苦しんで、耐えたのだと、その最後に胸を張れる様に生きる

「ワーニャ伯父さん」の、そのラストの台詞が

家福と、みさきの二人が辿り着いた心境とシンクロします。

 

自分は、コレで良いんだと、
罪を抱えて生きる覚悟が出来るならば、
それは逆説的に、
罪の重みからの解放になっているのが、印象的です。

高槻の場合は、それに失敗しており、
10代の女性に手を出して事務所を解雇された事も、
「嵌められた」と否定し、
見ず知らずの他人を殺害するという、
「自己責任を認めず、自分以外の拒絶」を繰り返す人物の帰結は、
破滅だと描かれています。

 

ラストシーン、
韓国のスーパーで買い物をしているみさき。

彼女の車は赤い「サーブ900ターボ」に見え、
後部座席には大型犬が乗っています。

それは、
家福の車と、
コ・ユンス、イ・ユナ夫妻の愛犬を譲り受けたのでしょうか?

勿論、違います

人は何も、その人生において、
人間関係から、苦しみと罪悪感のみを感じて生きて行く訳ではありません。

他人から受け取るものには、
愛や、喜びや、希望だってあるのです。

 

広島から、新たな土地へ旅立ったみさき。

「ドライヴ・マイ・カー」とは、
車を運転するという能動的な行為。

人生を運転に例えるならば、
みさきはその一歩を、自らの意思で踏み出したという事。

彼女は、
家福や、コ・ユンス、イ・ユナから受けた影響を胸に、
新天地でも、ちゃんと生きているんだと、
その示唆が、車であり、犬なのです。

故に、彼女が元気だというのは、
そのラストの、唯一の笑顔にて、表されているのではないでしょうか。

 

 

 

賞を獲得したからと言って、
万人が面白いと思う、インスタントな作品ではありません。

確かに、合う人、合わぬ人、はいるでしょう。

しかし、
長大な時間に込められた、
真摯に語られる作品のテーマ性、

他人を肯定し、罪悪感をそのまま背負い、自分を赦すという、喪失からの立ち直りを描き、

また、

その解釈を観客に委ねる余白の広さにより、

『ドライヴ・マイ・カー』は、
刺さる人には刺さる、

印象深い作品と言えるのです。

 

 

コチラが村上春樹の原作「ドライヴ・マイ・カー」収録の短篇集

 

 

 

 

コチラは、もう一つの原作とも言える、アントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』

 

 

 

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