映画『マッドマックス:フュリオサ』感想  瞋恚の炎を燃やす、寡黙でも饒舌な復讐譚!!

核戦争による世界の崩壊から45年後。
汚染された地上にて、数少ない「緑の地」に住まう少女フュリオサは、バイカー集団の手に落ちた。フュリオサ奪還の為、彼女の母「鉄馬の女たち」の一人、メリー・ジャバザが向かうが、捕らえられ、バイカー集団の長ディメンタスの手によって殺されてしまう。虜囚となったフュリオサはディメンタスの娘として育てられるが、、、

 

 

 

 

 

 

監督は、ジョージ・ミラー
オーストラリア出身。
「マッドマックス」シリーズ、
『マッドマックス』(1979)
『マッドマックス2』(1981)
『マッドマックス/サンダードーム』(1985)
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)
全ての監督。
他の監督作に、
『イーストウィックの魔女たち』(1987)
『ロレンツォのオイル/命の詩』(1992)
『ベイブ/都会へ行く』(1998)
『ハッピー フィート』(2006)
『ハッピー フィート2 踊るペンギンレスキュー隊』(2011)
『アラビアンナイト 三千年の願い』(2022) がある。

 

出演は、
フュリオサ:アニャ・テイラー=ジョイ
ディメンタス:クリス・ヘムズワース
警護隊長ジャック:トム・バーク
イモータン・ジョー & リズデール・ペル(2役):ラッキー・ヒューム

10才のフュリオサ:アリーラ・ブラウン
メリー・ジャバザ:チャーリー・フレイザー 他

 

1作目が佳作。
2作目が、それを超える傑作。
3作目は、ちょっと残念な感じだったけれど、
それから30年後に公開された
4作目は、まさかの大傑作の名作となったシリーズ、

「マッドマックス」

 

4作目「~怒りのデス・ロード」は個人的にも大好きな作品で、

好きな映画ランキング
オールタイムベスト級の作品の一本と言えます。

 

さて、
映画ファンの間でも、
私個人も、
その期待値が公開前から爆上がりだった本作『マッドマックス:フュリオサ』。

実際は、どうだったのかと言いますと、

面白かった!傑作!!

…けれども、個人的には、
「怒りのデス・ロード」の方が好きかな

 

という印象。

「怒りのデス・ロード」は
120中、100分位アクションシーンの体感ですが、
本作は、148分中、
110分位のアクションという感覚。

時間的には本作の方が長いけれども、
濃度は「怒りのデス・ロード」の方が上、みたいな。

 

しかし、本作は前作と比べて劣っているのでは無く、
方向性が違うだけ。

アクションど直球だった「怒りのデス・ロード」は
何も考えなくても楽しめる作品ですが、

本作では、

ストーリー、人間関係、人生の流転を
しっかりと描いています。

 

なので、鑑賞中、ちゃんと物語を追う必要があります。

まぁ、それが普通なのですがね。

 

そして、本作の物語を支えるのは、

圧倒的な意志力に支えられた、
復讐譚

 

主演のフュリオサ役は、
「怒りのデス・ロード」のシャーリーズ・セロンから、
アニャ・テイラー=ジョイへと変更されました。

戦士としての貫禄があったシャーリーズ・セロンですが、

本作のアニャ・テイラー=ジョイは、

若さ故の、
未熟さ、危うさ、
そして、熱さと無鉄砲、執念、という情念が詰まっています。

 

しかし、
フュリオサは、本作であまり喋りません。

強い目力と、
その行動でもって雄弁に代えているのです。

 

血と鉄と復讐による英雄譚。

それが「マッドマックス」という作品、シリーズというのなら、
本作は紛れも無く、その最新、最前線の作品と言えるでしょう。

本作も、やはり大傑作、
『マッドマックス:フュリオサ』は、必見の作品です。

 

 

  • 『マッドマックス:フュリオサ』のポイント

怒濤のアクション!!

英雄としての復讐譚

贖罪(redemption)

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

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  • 続篇としての前日譚

「マッドマックス」シリーズの最新作である
『マッドマックス:フュリオサ』は、
大ヒットした前作、
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)の前日譚。

面白いのは、そのストーリー展開の見せ方です。

 

最初、
フュリオサの少女時代から話が始まり、
彼女の因縁と、その行動原理が語られます。

「緑の地」へと帰る

彼女は、諦めずに、その最終目的へ邁進するのです。

事件が起こり、
それを克服する為に奮闘する。

どんなに時間がかかっても、
どんな場所に居ても、
「緑の地」を目指す。

それは、困難と試練を克服せんとする
神話的な英雄譚であり、

「マッドマックス」シリーズは、
その英雄譚が根底に流れています。

 

そういう骨組みの元、
フュリオサの10歳からの15年間が描かれるのですが、

先ずは、
登場人物、場所も、
「マッドマックス」シリーズでは見慣れない人、所が描かれます。

荒廃した世界にて、
緑が残っている地。

幼きフュリオサと、
彼女の母、
本作の敵役のディメンタス。

我々観客の知らない者、場所が、
先ずは、物語の幕開けを飾ります。

そこから始まり、
荒廃した地を彷徨い、
同じく、
荒れ果てた人心が描かれ、

我々の知る「マッドマックス」の世界観が描写されます。

そして、
砦(シタデル)、ガスタウン、バレットファームという、
我々の知っている場所、

そこに住まう、
イモータン・ジョーやリクタス
オーガニック・メカニック、
人喰い男爵、武器将軍
ウォーボーイズなど、

我々の慣れ親しんだ登場人物が登場、

物語が佳境を迎え、
ラストスパート直前には、
マックス・ロカタンスキーがゲスト登場するという、

より、
「怒りのデス・ロード」の時間に近付くにつれ、
知っている要素が濃くなって行く

その構成が面白いですね。

まるで、
パズルのピースが嵌って行くような感覚、

そして、
どう因縁に決着を付けるのか、
フュリオサの物語としての因縁は、
実は、
「怒りのデス・ロード」の物語なのだと受け継ぐ展開は、

ゾクゾクする構成と言えます。

 

こういう離れ業は、
続篇でありつつ、前日譚という立ち位置だからこそ出来た、
アクロバティックな手法と言えるのです。

 

  • 同じシリーズを、同じ手法で語らず

しかし一方、
過去作と繋がる事の弊害もあり、

観慣れているキャラクターが登場するが故に、
前作(怒りのデス・ロード)との単純比較がなされ、

アクション面での盛り上がりの面で、
「怒りのデス・ロード」より落ちる、
と判断される様に感じます。

 

実はコレは、
監督、ジョージ・ミラーが意図的にやった事。

パンフレットによりますと、
監督曰わく
「違う方法で、同じ雰囲気」をシリーズとして表現しているのだそうです。

思い返せば、
「マッドマックス」「2」「3」「怒りのデス・ロード」と、

世紀末の世界観を描きつつも、
どれも、表現としては、ちょっとずつ違ったものとなっております。

 

確かに本作、
中盤のトレーラーでの攻防戦が、
アクション面で一番盛り上がる所。

なので、
物語構成的に、

一番の盛り上がりを、
ラストバトルに持って来る事も可能だったハズです。

しかし、トレーラーでの攻防戦は、
過去、
「2」「怒りのデス・ロード」のクライマックスで描かれています。

過去作との兼ね合いも考え、
監督は敢えて、シリーズの恒例行事化を避けたのではないでしょうか。

 

アクションでの一番の盛り上がりを中盤に持って来て、

また、更に、
イモータン・ジョーとディメンタスの40日戦争をナレーションで終わらせたのは、

あくまでも、
英雄譚、復讐譚をテーマに
フュリオサの感情面での起伏を物語の主軸に置いたからなのではないでしょうか。

同じテーマを扱いつつ
シリーズ毎に違った手法を取り入れる。

観客は、
アクション面を期待したのでしょうが、

同じ事の繰り返しは「飽き」という弊害もあります。

観客の評価と、
物語上での取捨選択の難しさが、
本作には見てとれますね。

 

  • 神話としての英雄譚

本作『マッドマックス:フュリオサ』の
原題は『FURIOSA : A Mad Max Saga』となっております。

直訳すると、マッドマックス叙事詩とでも言いますか。

「叙事詩」と言うだけあり、
本作は、神話の英雄譚を想起させるものとなっています。

いや、
本作だけではありません。

『マッドマックス2』以降、
監督のジョージ・ミラーは、
ジョゼフ・キャンベルの著作『千の顔を持つ英雄』からテーマの着想を得ているとの事。

つまりは元々、
「マッドマックス」シリーズが
神話の英雄譚的な物語なのです。

 

さて、本作は、
過去作のセルフオマージュも多用しています。

特に、初代の『マッドマックス』
怒りと復讐の物語が
本作のベースとなっていると思われます。

先ず物語の最初、
核戦争によって世紀末が訪れた事が、
ニュース音声で知らされます。

これは、一作目と同じ手法。

 

他のシリーズからは、
例えば、ディメンタスがマイクで演説するシーンなんかは、

2作目で、
ヒューマンガスが村人に
「ガソリンを平等に分け合おう」とマイクで演説したシーンを彷彿をさせます。

世紀末なのに、
フュリオサと警護隊長ジャックが、
マックスと同じように
肩パッド付きの革ジャンを着ているのも、
ある種の「制服」的な趣があります。

武器としてソードオフショットガンが
ジャックからフュリオサに送られるのも
如何にもマックス的です。

 

さて、
過去作のオマージュと、
神話の英雄譚である本作。

神話の英雄譚と言えば、
ホメロスの叙事詩『イリアス』の主人公的ポジションのアキレウスは、
その後、予言としてアキレス腱を射られて死ぬ運命にあります。

『古事記』の英雄、日本武尊(ヤマトタケル)は、
数々の伝説を打ち立てるも、
その最後に死を迎えます。

ファンタジー作家のマイケル・ムアコックの創作した
「エターナル・チャンピオン」シリーズの

紅衣の公子コルムが主人公の小説
『剣の騎士』では、コルムの英雄譚ですが
続篇の『雄牛と槍』では、彼の死が描かれます。

 

英雄は並外れであるが故に、
物語の最後には、
その世界から退場しなければなりません

それが、死で描かれる場合があれば、
風の様に去って行く場合もあります。

 

しかし、
本作では、
フュリオサは死にもしなければ、
物語の舞台から退場する訳でもありません。

それは何故でしょうか?

本作、
その煽り文句の一つに、
「これは彼女の修羅の道」という言葉がありました。

英語では、
「This is her Odyssey」。

「オデッセイ」とは、
これまたイリアスの叙事詩『オデュッセイア』から来ている言葉で、

オデュッセウスが故郷へ向かって
何年も掛けて困難な道のりを旅する話です。

オデッセイを「修羅の道」と訳したのは趣深いですが、
故郷という目標が抜け落ちている分、
元の意味から遠ざかっている部分もあります。

つまり、
基本的に「オデッセイ」とは
途中、過程の物語であり、
必ずしも、神話的な悲劇を終わる事が定型ではないと思われます。

 

故に、
過程の物語である「オデッセイ」である以上、
フュリオサが目的地に着くまでは、
ある意味不死であり、
しかし、困難から退場も出来ないという枷が嵌められているとも言えるのです。

 

  • 「Redemption」

この状況を説明するキーワードが
Redemption」です。

 

「怒りのデス・ロード」にて、
何故、イモータン・ジョーの「ワイブズ」を連れて「緑の地」を目指すのか、
マックスに尋ねられたフュリオサは、
「Redemption」と答えます。

又、本作に於いては、
ブレットファームで大暴れしたフュリオサとジャックを追い詰めたディメンタスが、
二人を見せしめに拷問する時に
これは「Redemption」だと言います。

 

「Redemption」は名詞であり、
「怒りのデス・ロード」の字幕では「贖罪」と訳されていました。

しかし、
意味はそれだけではなく、
google翻訳に拠れば、

「償却」「償金」「救い」という意味も兼ねています。

 

「怒りのデス・ロード」を観てから、
私はずっと、
この「Redemption」という言葉の意味が理解出来ずにいました。

「贖罪」とは何か?
過去に何かあったという事なのか?
残念ながら、結局、作中では語られる事が無く、
解らずじまいでした。

 

しかし、
本作を鑑賞中
ディメンタスが突如「Redemption」と発言した時、
「エウレカ!!」と閃いたのです。

ディメンタスは、
「我々に敵対した罰だ」という意味合いでの発言でしょうが、

監督としては、
ディメンタスの台詞にて、
「怒りのデス・ロード」における「Redemption」という発言を思い出させていると感じました。

 

つまり、
本作を俯瞰して眺めると、
フュリオサの「オデッセイ」は、
悉く失敗しており、

その度に、
様々な人を犠牲にしています。

それは母であり、
警護隊長ジャックであり、
自身の少女時代でもあります。

つまり、
「怒りのデス・ロード」時代のフュリオサが生きているのは、
過去の負債というか、皆の犠牲の下に成り立っており

その意味で、
「借り」があるのです。

本作は
フュリオサの「Redemption」の元になった「原罪」の物語であり、
神話的であるが故に、
不死にて罪を作り続けてしまうのです。

その借りを返す旅
「Odyssey」=「Redemption」であるのです。

 

なので、
人を巻き込んで生き残ったとなれば、
自分一人で目的を果たす訳にはいかないのです。

他人にも「償却」してこそ、
はじめて「罪滅ぼし」となると言えます。

故に、
独裁者から「妻たち」を解放する必要があったのです。

そして、
「怒りのデス・ロード」にて
イモータン・ジョーにトドメを刺すとき、
「Remember me ?」と尋ねます。

本作ではディメンタスを追い詰めた時、
自分を思い出させる為に発する台詞ですが、

本作を観て、改めて「怒りのデス・ロード」を思うと、
イモータン・ジョー個人と言うより、
運命自体に、
「私は今こそ借りを返す」と宣言している様にも感じられはしないでしょうか。

 

  • 左腕とテディベア

本作『マッドマックス:フュリオサ』にて
これまた象徴的なシーンに、

吊されたフュリオサが、
自身の左腕を切断して、
ディメンタスの拷問から逃走する場面があります。
(これまた一作目を彷彿とさせます)

 

フュリオサは右腕に故郷の「緑の地」への
地図ならぬ「星図」を記しています。

これぞ、彼女の行動原理ですが、

一方で、
左腕は失ってしまい、
復讐鬼と化したフュリオサの心情を表す様に、
機械との融合を果たしてしまいます。

神話的な「Odyssey」と
復讐鬼の「Redemption」、
これが釣り合っている状態こそが、
フュリオサという存在であり、

多くのモノを失って、
彼女はそのアイデンティティを確立してしまうのです。

そして
本作でディメンタスが倒されるのは、
結局、単純に、個人に復讐するだけが、
フュリオサの「Redemption」の次元ではないという事をも
示しているのではないでしょうか。

故に、
物語は「怒りのデス・ロード」へと続くのです。

…思えば
フュリオサの名前自体も、
怒りを表す「Fury」という英単語から来ています。

そういう意味でも、
宿命付けられていたのかもしれません。

 

さて、
最後に、ディメンタスのテディベアです。

暴君の持つアイテムとして違和感があるように思います。

作中、ディメンタス自身が語るには、
テディベアは、
死んだ妻子を思い出す縁(よすが)となっていると語っています。

さながら、
子供の持ち物であったという口ぶりですが、

しかし、パンフレットに記載されていた
実際の設定上では、
テディベアは実は、彼自身の子供の頃からの所有物であったそうです。

 

つまり、
狂った世界にて、
狂った存在となったディメンタスが、

過去の無垢だった自分の、
ある意味での象徴としての、
遺物として持ち歩いていたものであると思われます。

故に、
「緑の地」で汚染されずに育ったフュリオサに
自分の分身という意味で「リトルD」と名付け、
テディベアを与えるのです。

 

そしてラスト近く、
テディベアの右腕は破損しており、
バービー人形(?)の右腕が装着されています。

これは、
左腕を機械に置き換え、復讐鬼と化したフュリオサに対し、

右腕を人間にしたテディベアという対比になっており、

暴虐を尽くしたディメンタスでさえ、
その深層心理には、
人間的な要素が残っており、
無意識下では、それを求めていた証左であると言えます。

 

 

 

彼女の「オデッセイ」であり、
原罪の物語である『マッドマックス:フュリオサ』。

足掻きながら罪を重ね、
しかし、不撓の闘志で目的へと邁進する不屈の物語。

豊富なアクションシーン、
練り込まれた設定、
神話的な復讐譚、

本作も間違い無く面白いですが、

どうやら、
興行収入は苦戦している様子。

これも、ある意味「修羅の道」なのか、

しかし、
シリーズをもっと観たい気持ちで一杯です。

 

 

 

コチラが、監督のジョージ・ミラーが参考にした著作

 

 

 

 

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