映画『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』感想  これぞ、紛うこと無きB級映画!!


 

人里離れた場所で、妻のマンディと静かに暮らすレッド。しかし、カルト集団に理不尽に襲撃されマンディを殺されてしまう。不気味なバイク野郎、そして、カルト集団に対しレッドの復讐が炸裂する、、、

 

 

 

 

監督はパノス・コストマス
イタリア、ローマ出身。
父親は『ランボー/怒りの脱出』『コブラ』などで知られるジョルジ・パン・コストマス。

 

出演は
レッド:ニコラス・ケイジ
マンディ:アンドレア・ライブズロー
ジェレマイア:ライナス・ローチ 他

 

 

 

いつの間にか、メインストリームから外れ、
しかし、
B級映画専門の俳優として、その個性を発揮している、
ニコラス・ケイジ。

ある意味、
唯一無二の俳優ですが、
その

B級魂が爆発する作品、

 

それが、
『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』です。

 

妻をカルト集団に殺された男の復讐譚

ストーリーを、その一文で終わらせる事が出来るというシンプルさ。

ある意味、
直球の映画の王道展開ですが、

実際、本作を観ると、

大暴投なのだとお分かりになれます。

 

 

本作は、
観る人間の理解とか、
解釈とか、
そういうモノに配慮した作りではありません。

良く言うと個性的、
ぶっちゃけると、自分勝手な作品。

つまり、
本作は面白いかどうかというより、
合うか、合わないか、

観る人間を強烈に選ぶ作品である事は間違い無いです。

 

 

「人に観てもらう」
現代の商業映画は、その前提の下に、作られている感があります。

しかし、『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』は違います。

観る人間に媚びを売る。

そんな配慮は全く無し!

コレが、
俺の表現する世界観だ!!

 

そういう主張に溢れた、
ある意味、正しい作品作りのスタンスを採用しているのです。

 

本作は確かに、
普通の映画を見慣れた我々の様な現代っ子には、
意味が分からない映画と観られるのかもしれません。

しかし、
その強烈な個性こそ、
逆に、人を惹きつける魅力でもあります。

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』は、
正統派のB級映画として、
その個性を楽しむ作品と言えるでしょう。

 

 

  • 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』のポイント

ポエムの様な世界観

からの、地獄の復讐ストーリー

これぞ、王道B級映画

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • B級映画の王道

B級映画と一言で言っても、
それには二つのタイプがあります。

それは、
制作者が意図してB級を目指したのか、

真面目作った作品が、結果としてB級と言われる様になったのか、

その二つです。

 

前者は、
低い制作費や、チャチなストーリーを逆手に取り、
それを個性として発揮している作品。

制作者側も、観る側も、
その前提の下に、作品を楽しむ事を目的としています。

 

しかし、後者は違います。

真面目に、真剣に作った。

しかし、
その個性が強すぎて、
実際に観る側からすると(ともすれば、作った本人でさえも)、
何が起こっているのか、理解が困難な作品

一般人には、その不親切な作りに、
「つまんねぇな」の一言で処理されながらも、

一部の波長が合った観客には、
強烈に残るものがあり、

あれこれ解釈したり、
世界観に魅了されたりする作品。

 

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』は間違い無く後者。

大ヒットする大作映画ではありませんが、

長く、
一部の愛好家に語り継がれる作品となる可能性があります。

 

  • マンディ

本作を観に行った観客というのは、
おそらく、
ニコラス・ケイジの復讐アクションが観たい
そういう動機を持って観に行っているハズです。

しかし、
ストーリー上仕方がありませんが、

本作の冒頭はまず、
レッドとマンディの静かな生活が描かれます。

 

観客は、残酷な期待をしている訳ですが、
その期待のお預けシーンである「静かな生活」で描かれるのは、
マンディのポエム的生活という、ちょっとスカした描写。

絵を描き、
変な小説を読み、
夢の話を語る。

星の話をしていると思いきや、
コミックネタにも理解を示す。

まるで、
サブカル美少女が、そのままのメンタリティで大人になったかの様な存在です。

 

その精神性のみでは無く、
マンディは見た目も個性的。

一見して惹きつけられるのは、
そのデカくて、黒目がちな瞳

目だけ見ると、アニメの美少女みたいな造型ですが、
これがリアルな人間となると、得も言われぬ違和感が沸き起こります。

万人に好かれる風貌ではありませんが、
しかし、
一部の人間は強烈に惹かれる、

そういう、正に本作自身を象徴するかのような存在です。

 

そのマンディは、
夢で子鹿の死骸と遭遇したり、
ムクドリの雛が惨殺された思い出を語ったりします。

美しく、儚いものでも、
無意味に、苦悶に満ちた死を迎える

まるで、自身に起きる運命を暗示するかの如き発言を繰り返すのです。

 

作中ではハッキリとは語られませんが、
マンディには予知能力みたいなモノがあるのかもしれませんね。

ジェレマイアにも、
「死神が見える」と言っていますし。

この「死神」とは、
レッドが復讐鬼としてジェレマイアの下にやって来る事を意味していたのでしょう。

 

最初はカッタるく思えた序盤の描写のハズが
何となく惹きつけられる。

そういう異様な魅力を持つのが、
本作のマンディという存在なのです。

 

  • カルトの恐怖

このマンディを惨殺する、恐怖のカルト集団。

異邦者が地元の生活民に、
理不尽な暴力を振るい勝手に去って行くというのは、
如何にもアメリカ的な不安を表していると感じられます。

 

因みに、
レッドとマンディが暮らしているのは、
「クリスタルレイク」の湖畔近く。

「クリスタルレイク」と言えば、
ホラー映画『13日の金曜日』の舞台として有名な(架空の)地名

ある意味、
惨殺が起こるのが避けられない場所だったのかもしれません。

 

このカルト集団の教祖、ジェレマイア。

女性を囲い、
自分オリジナルの楽曲を製作し、
世間に認められないのは、その世間が悪いのだとのたまう。

日本人なら、
本邦で最悪規模のテロを起こしたカルト教団を思い浮かべる
トラウマものの設定です。

 

マンディの夢や思い出の不安、

クリスタルレイクという舞台、

カルト集団の教祖の設定、

虚実が入り交じり、
避けられない悲劇が妙なリアルさで演出されるのです。

 

  • 地獄の復讐譚

理不尽な暴虐を受け、
レッドの復讐が始まる後半。

その冒頭は、

大阪のオバチャンが着る様な虎のTシャツに、
ブリーフ、
汚れた靴下というファッションのニコラス・ケイジが、
便所で酒を飲みながら唸り、絶叫するという場面。

(実は、このシーンが本作で最も普通で、目に優しいシーンでした)

 

それまでも、画面がちょっと見難かったのですが、

これ以降、後半は、
その殆どのシーンが暗く、赤っぽいライトが照らされているという、
更なる目に優しくない画面。

何故こんな映像になったのか?

それは、
復讐に燃えるレッドの怒りを再現したからに他なりませんが、

もう一つの理由として、
制作者自身が、
薬物をキメているとしか思えません

 

作中でも、
「憐れなヘロイン中毒者が!!」という発言がありましたが、
それって自分自身の事を言っているのでは?

そう思わせる程のキメた世界観、

そう、
本作は、麻薬中毒者が観る悪夢を、
そのまま現実世界に移し替えた、

その異様さが個性となった作品なのです。

 

支離滅裂な描写、

観る側からすると唐突でも、
作った本人には意味のあるシーン、

突然挿入される宇宙や、
アニメのシーン、

素面で観ている観客が、
その解釈に手こずるのは当たり前、

何故なら、
麻薬中毒者が観ている悪夢なので、
その本人にしか(本人ですら)意味の理解が不可能だからです。

 

ヘロイン中毒者が観る、

多幸感、全能感、
そして、理想の女性。

それを外に向かって表現した時、
悪夢的世界が現われた

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』は、そういう作品と言えるのではないでしょうか。

 

エンドクレジット時、
鳥の鳴き声が聞こえていましたが、

それは正に、
マンディの語ったムクドリの声。

潰され、墓に葬られる夢の残滓。

ラスト、
木星にて一人走る戦士が、
マンディを再び手に入れたかの様に見えるシーン。

そして、
最後に映った「マンディが描いた絵」。

これらは全て、
本作が「夢」の様な「超現実」を描写した事を意味しているのだと思われます。

 

 

とは言え、
本作を観た人間が何を思うのか、

それは人それぞれの自由。

観る人間に優しくない、
強烈な個性を持っているからこそ、

逆に、観る人間があれこれ解釈し、
強烈に惹きつける魅力を持っているとも言えます。

それが、本作
『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』なのです。

 

 

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