警察の「211」(緊急通報)の指令室のオペレーター、アスガー。ヤク中や、スケベオヤジの相手をしていた、とある日、情緒不安定な女性イーベンが電話してくる。異常な様子の彼女を宥めつつ話を聞くと、どうやら彼女は現在進行形で誘拐されているらしい、、、
監督はグスタフ・モーラー。
スウェーデン出身、デンマークの映画学校卒。
本作が長篇映画初監督作品。
出演は、
アスガー・ホルム:ヤコブ・セーダーグレン
イーベン:イェシカ・ディナウエ
ミケル:ヨハン・オルセン
ラシード:オマール・シャガウィー
デンマークからお届けします、
一風変わった、
しかし、面白い事、保証済みの作品がコチラ、
『THE GUILTY/ギルティ』です。
本作、
基本は、
オジサンがずっと部屋から出ず、
電話をしているシーンを観ているだけの映画です。
いや、
嘘じゃありません。
職務中に、何かをやって、
その結果、緊急通報指令室勤務を言い渡されているらしい、アスガー。
そのアスガーの元に掛かって来た、
リアルタイムの誘拐劇。
デンマークのシステムでは、
警察に電話を掛けてきた相手の個人情報が、
瞬時にPCに表示されます。
電話相手はイーベン。
誘拐されているという彼女を宥めつつ、
アスガーは警察の司令室に状況を報告し、
今何処にいるのか、
何処に向かっているのか、
犯人は誰か、
車のナンバーは何か、
それらを何とか、イーベンから聞き出そうと奮闘しますが、
あえなく電話は切れてしまいます、、、
本作は、
アスガーが何かをするにも、全て電話越し、
そして、相手もアスガーとコンタクトを取る時は、電話越し。
そう、
本作のメインは、電話での会話劇なのです。
画的な状況は、
殆ど動かない作品です。
ですが本作、それでも不思議と、全く飽きない。
何故なら、
声と、音のみで伝わる情報が、
無限大の想像力をかき立てるからです。
さながら、
昔懐かしのラジオドラマや、
描写力に優れた小説を読んでいる感覚と似ています。
百聞は一見にしかず、
私の解説を読むだけでは、イマイチ伝わらないでしょうが、
本作の「音」の情報量は、
観客の想像を、嫌が応にも沸き立てます。
あ、
本作の場合、
「百聞は一見に如かず」では無く、
「一聞は百見をもたらす」とでも言いますか。
限られた状況での会話劇が、
まさかこれ程面白いとは!
アイデアの秀逸さを、存分に活かした作品、
それが『THE GUILTY/ギルティ』なのです。
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『THE GUILTY/ギルティ』のポイント
ワンアイデアを活かしきった設定
「声」と「音」により広がる想像力
誰の、どんな罪なのか
以下、内容に触れた感想となっております
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限定されたシチュエーションのワンアイデア映画
本作『THE GUILTY/ギルティ』は、
いわゆる、限定されたシチュエーションのワンアイデア映画です。
しかも、徹底している事に、
殆ど部屋から出ない。
観客が観るのは、
オジサンが、ずっと電話の受け応えをしているシーンなのです。
これは、凄い。
クエンティン・タランティーノのデビュー作、
『レザボア・ドッグス』(1992)も、舞台劇の様に一つの部屋で展開する会話劇でしたが、
本作で長篇映画デビューしたグスタフ・モーラー監督は、
それ以上に限定された状況を作り出しています。
何しろ、
本作は、実質、出演は一人。
しかも、
回想シーンなども挿入せず、
あくまでも、画面は、主役のアスガーに固定しています。
本作と似たようなアイデアの映画として、
『[リミット]』(2010)という作品があります。
『[リミット]』は、
棺桶の中に閉じ込められた人間が、
只管、携帯電話をかけるという映画です。
しかし、
「棺桶」という閉塞された状況を強調した『[リミット]』と違い、
本作『THE GUILTY/ギルティ』は、
画面にはアスガーしか移っていなくても、
電話相手との会話で、世界が広がっている感覚があります。
恐怖に震える女性の声、
興奮した男性の声、
不安と寂しさに震える少女の声、
酒に酔った、同僚の声 etc…
電話相手の個性が違う、その事で、
同じ部屋にいるのに、
場面が違う印象を受けます。
会話だけではありません。
本作は、
電話から聞こえて来る「音」そのものにも個性があります。
トトトトトト、
という雨音、
ギシッ、ミシシッ、
と軋む、車の走行音、
ヒュッー、バサバサ、
という風切り音、
移動中?それとも高所に居る!?
音で、その相手のいる状況が、ありありと目に浮かんで来るのです。
確かに、画面には、アスガーが電話をしている様子しか映っていません。
しかし、観客は、
まるで、よく出来たラジオドラマや、
描写力に優れた小説を読んだ時のように、
目の前に、
想像の光景が描かれる事になるのです。
「百聞は一見に如かず」と言う諺がありますが、
本作はさながら、
「一聞で百見をもたらす」とでも言う様な趣、
音を観させる映画であるのです。
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練られた脚本、仕掛けられた罠
小説は、
同じ作品を読んだとしても、
その読者それぞれによって、
捉え方、解釈、
想像で思い浮かべる場面などが、
十人十色、違うものとなります。
本作『THE GUILTY/ギルティ』も同じです。
同じ会話、音を聞いても、
人それぞれ、思い浮かべる状況は違う、
その解釈の幅が、面白いです。
「一聞は百見をもたらす」とは、この事です。
しかし、です。
「一聞は百見をもたらす」という事はつまり、
電話のみでは、
もしかしたら、真実が解っていない、
事実とは、違う場面、状況を、
想像で観てしまっているのかもしれないのです。
五官の内、
聴覚のみを頼りにするコミュニケーションの難しさ、
本来の「百聞は一見に如かず」という言葉でも解る通り、
現実は、
「百回聞いても解らない事でも、一目見れば理解出来る」という事が多い様に、
聴覚のみの情報は、
正確さに欠け、それのみで行動するのは困難なものなのです。
そう、
本作では、
会話劇にて、状況が方向付けられ、
解釈をミスリードさせるという、
「聴覚」のみの情報にて陥る勘違いを、
敢えて観客に促す構成になっているのです。
これが、本作の面白い所。
会話劇のスリリングさ、
予断を許さず進行する状況、
やや暴走気味にアスガーは突っ走りますが、
むしろ、
状況に対応して、事件を解決しようと奮闘する彼の姿を、
観客は応援し、感情移入する事になります。
しかし、それすら罠。
徐々に明きらかになる、
現場の真実の状況を知る事で、
アスガーも、観客も、
自分の見解が180度違ったものだったと、思い知らされる事になるのです。
少ない情報からもたらされる感情移入が、
観客の精神を揺さぶるトラップとなっている。
ゲームの『君が望む永遠』でも使われていた手法ですが、
本作のそれも、
効果的な構成、演出となっています。
以下、本作のオチにも触れた感想となっております
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何が、誰が、罪深いのか?
アスガーは、職務を越えて、事件解決に奮闘します。
仕事時間を自主的に延長し、
同僚に無理を言って、捜査に駆り出し、
奮闘というより、暴走気味に、
むしろ執着とも言える形で、事件に関わろうとします。
しかし、
そんなアスガーの行動は、
悉く、裏目。
寂しがるイザベラに、弟の面倒を見ろ、
と言って励ましますが、
それが、死体を対面する事になるトラウマを植え付ける事となります。
前科のあるミケルに「お前が殺人者だ!」と暴言を発っしましたが、
むしろ、ミケルは事件を解決しようと奮闘していた側。
それなのに、
彼を助けるどころか、
助けを求め、誰にも理解されないという鬱屈を抱えるミケルの悩みを助長させる様な事を言ってしまったという、
後悔と、気恥ずかしさ。
イーベンには、
「ミケルは悪い奴」だと言い、彼を殴れと暴力を教唆し、
そして、
真犯人だと気付かず、
彼女の行為を肯定した事で、
逆に、自分の行為に気付いたイーベンを追い詰める結果となってしまいました。
ストーリーが進行する事で、
アスガーと観客が、単純に思い描いていた事件像とは、
180度違ったものだと、
徐々に明らかになって来る、
この過程のサスペンスフルが、
本作の面白さだと言えます。
そもそも、
何故アスガーは、この事件に執着したのでしょうか?
明日に控えた審問のプレッシャーの為?
相棒のラシードに、偽証をさせる事の罪悪感?
自らが抱える、罪の意識から逃れる為の、
善行の埋め合わせ?
電話番は、本来の自分の仕事では無いと思っていたアスガーは、
俄に沸き起こった事件に、思わず張りきってしまった?
その全てであるでしょうが、
私は、
このアスガーの執着は、
やはり、彼自身の罪への贖罪だったのだと思います。
因みに、
電話番の同僚に冷たくあたっていたというのは、
彼の行為に対する罰に正当性があった為、
逆ギレする形で、
「自分には罪は無い」と強硬姿勢を示す必要があったからでしょう。
さて、
イザベラ、ミケル、イーベンを追い詰めていたと知ったアスガーは、
ラシードに、偽証の取り止めを提案します。
罪を更に重ねた事に気付いたイーベンは、
それを清算しようとしたのです。
しかし、
既に調書を取られているラシードは、
「今更、真実は言えない」と、それを断ります。
アスガーの贖罪は、
無意識にしろ、意識的にしろ、何度も失敗しています。
それでも最後、
イーベンの説得に当たったアスガーは、
まるで、告解をするかの様に、
自らの罪を告白します。
そして、
最後の最後、
ようやく、アスガーの行為は、実を結びます。
何故、最後の説得が成功したのか?
振り返ってみると、
映画の中のアスガーの行為は、
善意と職業意識から来るものではありましたが、
その全てが一方的なものであったと分ります。
何かをするにしろ、
少ない情報により勘違いした、
ある種の「命令」ばかりしていたのですね。
しかし、
最後の説得だけは違います。
アスガー自身も、
イーベンの言う「ヘビ」という、どうにもならない生きる事への鬱屈を抱えているのだと言い、
ここでようやく、お互いの事を深く知る、
双方向の理解が成立するからです。
コミュニケーションとは、
自分だけの、一方的な、
傲岸不遜な自己主張を通すだけでは成り立ちません。
相手の事を思うだけでは無く、
相手に自分を知って貰うという、
相互理解の上で、初めて成り立つのです。
電話番の同僚には冷たくあたり、
妻は家を出て、
相棒には偽証をさせた。
全て、アスガー自身のコミュニケーション不足の所為で、もたらされたものであり、
それは、
本作のテーマでもある、
「聴覚のみでもたらされる、相互理解の不十分性」と、
相通ずるものがあります。
アスガーは、遂に物語の最後で、
自分の「罪」が何だったのかに気付きます。
その彼が、
誰に電話をしたのか?
私は、
「誰か」は問題では無く、
電話にて、散々な目に遭ったアスガーが、
しかし、
電話でのコミュニケーションを捨てなかった事に、
本作の希望を観る思いがします。
画的には限られた状況でありながら、
電話からの「会話」と「音」によって、観客の想像力を喚起し、
目の前に様々な情景を作りだす『THE GUILTY/ギルティ』。
しかし、
そういう限定されたシチュエーションのワンアイデを活かしつつ、
尚且つ、
それがストーリー上のトラップになっている所に、
脚本と構成の妙があり、
本作の面白さを際立たせています。
限られた場面、
限られた登場人物、
それでも、アイデア次第で、
これ程面白いものを作れる。
『THE GUILTY/ギルティ』は、
映画の可能性を、また一つ見せてくれる作品と言えるのではないでしょうか。
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