映画『アリータ:バトル・エンジェル』感想  目、デカっ!!最早、映画に不可能は無いのか!?


 

富裕層のみが住むと言われる、天空の都市ザレム。そこから落ちるゴミを拾って、サイバー医師のイドは、ジャンク品として再活用していた。ある日、頭のみのサイボーグ少女を見つけたイド。彼は彼女を復活させ、アリータと名付ける、、、

 

 

 

 

監督はロバート・ロドリゲス
メキシコ系アメリカ人。
本作の監督をするつもりだったという、ジェームズ・キャメロン(製作、脚本)に替わってメガホンを取った。
主な監督作に、
『エル・マリアッチ』(1992)
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(1996)
『スパイキッズ』(2001)
『シン・シティ』(2005)
『プラネット・テラー in グラインドハウス』(2007)
『マチェーテ』(2010)等。

 

原作は日本のSFアクション漫画、木城ゆきとの『銃夢』。

 

出演は、
アリータ:ローサ・サラザール
イド:クリストル・ヴァルツ
ヒューゴ:キーアン・ジョンソン
チレン:ジェニファー・コネリー
ベクター:マハーシャラ・アリ
ザパン:エド・スクレイン
グリュシカ:ジャッキー・アール・ヘイリー 他

 

 

10年以上前から、噂された事、
『銃夢』の映画化権を、あの、ジェームズ・キャメロンが獲得した、と。

ジェームズ・キャメロンと言えば、
『エイリアン2』(1986)
『ターミネーター2』(1991)
『タイタニック』(1997)
『アバター』(2009)と、
大ヒット作品をいつくも監督した、
現代アメリカ最高のヒット・メイカーと言えます。

まさか、
それは事実なのか?

しかし、『アバター』で、3DCGを流行らせたジェームズ・キャメロンなら、
SF漫画であっても、映画化可能なのでは?

嫌が応にも、期待が高まりました。

 

しかし、時は流れ
「いつ、映画化するの?…」という疑問が発生、
結局、塩漬けのままで、企画倒れなのか、、、?

そう思っていた所に、
ロバート・ロドリゲスが監督に就任したというニュース。

まぁ、正直、ジェームズ・キャメロンが降板した事は残念ですが、
ロバート・ロドリゲスも、CG映画に造詣が深い監督。

これ以上の代わりは居ないと思われます。

 

さて、本作、を一言で言うと、

実写とCGキャラを合成した、
SFアクション映画。

 

メインのキャラクターは実写ですが、
主役のアリータは、完全CGキャラとなっています。

 

映画というジャンルでは不可能な事も、
漫画なら、実現出来る。

そういった側面が、
日本の漫画作品にあった事は、厳然たる事実。

しかし、
ハリウッド映画は、

資金力と技術力があれば、
遂に、日本の漫画でさえ、映画化出来る、

 

その事を証明してしまったのです。

私は、原作の『銃夢』は未読なので、
原作との比較では語れませんが、

一、漫画ファンとして、
この事実に震撼すると供に、

一、映画ファンとしては、
遂に、ここまで来たか、と感慨深い所もあります。

 

そんな本作の見所はやはり、

CGを駆使したアクションの数々、

 

縦横無尽に駆け回るアリータの活躍は、
爽快感があります。

 

さて、そのアリータ、

ビジュアルが印象的、
「目」がデカいです。

 

最初は違和感がありますが、
映画を観ている間に、徐々に慣れて行きます。

 

CGとアクションに目が行きがちですが、
本作は、

背景、衣装、施設などの、
美術面も目を惹きます。

 

ただ、観ているだけで、面白いというのが、
CG大作の強味、

それを存分に活かしている印象です。

 

ストーリーは、
おそらく、原作を上手くまとめているのだろうな、
という事は分かります。

その一方、
本作がヒットしたら、
続篇を作ってやるぞ、という下心丸見えの終わり方

一応、
一つの物語として終わりますが、
真の決着は見えないままです。

 

漫画的な表現を実写で表現した『アリータ:バトル・エンジェル』。

続篇を観たいなら、映画館へゴー!

 

 

  • 『アリータ:バトル・エンジェル』のポイント

漫画的な表現を実写化した作品

アリータ、目、デカっ!!

下層民は、富裕層の見世物

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • アリータの目

本作『アリータ:バトル・エンジェル』で、
真っ先に気になるのは
やはり、アリータの巨大な「目」です。

初見では、
「アニメをリアルなCGにしたら、なんだか、昆虫みたいで、気持ち悪いな」
とちょっと思ってしまいます。

しかし、映画が進行すると、
アリータのキャラクターの魅力もあり、
何だか、宝石みたいで綺麗だな、惹き込まれそう
と思ってしまう、このミラクル。

何故、こういう見た「目」にしたのでしょうか?

それには、いくつか理由があると思われます。

 

先ず、
人種的な多様性を、映画のもたらす為、だと考えられます。

本作の舞台は、
全世界の人類の、生き残りが集まったという設定の、
アイアン・シティ。

なので、メインキャストも、
オーストリア人の、クリストル・ヴァルツ(イド)
白人アメリカ人の、ジェニファー・コネリー(チレン)
黒人アメリカ人の、マハーシャラ・アリ(ベクター)

と、まぁ、ある意味典型的ですが、
人種をばらけさせています。

特に印象的なのは、
ヒューゴ役のキーアン・ジョンソン。

彼は、本作で映画デビュー。

ぱっと見、ちょっとアジア人にも、
見えなくもない、感じが、本作のコンセプトに合っていたと思われます。

そんな中で、
主役のアリータ(原作での名前は「ガリィ」)は、
誰が演じるのか?

モーションキャプチャーと声を担当したのは、
監督と同じ、ヒスパニック系のローサ・サラザール。

しかし、そのビジュアルは、CGのアニメキャラに差し替えられています。

 

近年、
ハリウッドの作品では、
出演者の多くを白人が演じたり、
原作のキャラクターを白人が演じる事を、
「ホワイトウォッシュ」と称し、
人種の多様性を排除する行為と認定する傾向があります。

例として、
本作と同じ、
日本の漫画『攻殻機動隊』を原作とする実写化映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』の主役、
草薙素子(ミラ・キリアン少佐)を、

白人のスカーレット・ヨハンソンが演じた事が批判されていいました。

 

それを鑑みると、
本作でも、主役のアリータは日本人(アジア人)が演じないと、
ホワイトウォッシングであり、
人種の多様性にも反する事になります。

しかし、
現実には存在しない、CGアニメキャラが、それを演じたどうか?

アリータの様な巨大な目をした人間は、
現実に存在しないと、誰が観ても、
それこそ一目で分ります

つまり、そもそもの、人種問題を回避する事が出来る
そういう効果を狙ったものだと考えられます。

 

そして、もう一つは、
アリータが、サイボーグだと、観客に印象付ける為
という点もあります。

 

  • 映画での漫画的表現

日本の漫画やアニメで特徴的なキャラクター造型として、

髪の色が有り得ない、とか、
どう見ても、彫りの深い白人に見える、
などがあります。

そして、最も印象深い特徴として、
日本の漫画や、アニメのキャラクターは、

殊更、目が大きい事が挙げられます。

 

デフォルメした表現として、
目や、手や、足といった、
動きで感情を表現出来るパーツを大きく見せた方が、
キャラクターが印象的で可愛く見えます

いわば、
日本の漫画やアニメ表現のテンプレとして使われている手法ですが、

それを、まさかの、実直に映像として再現したのが、
映画版の『アリータ:バトル・エンジェル』と言えます。

 

映画にて、
こういった、明らかに目が大きいという、
漫画的な表現を導入する事に、どういう意味があるのでしょうか?

それが先程述べた、
アリータがサイボーグという「人工物」だと一目で分かる、という事なのです。

 

CGを、実写に取り入れた作品で、
先ずその先鞭となったのは、
『マトリックス レボリューションズ』(2003)での、
ネオとエージェント・スミスのバトルシーンだと思われます。

この作品は、
実写での格闘シーンから、
CGのキャラクターへ、シームレスに移行していましたが、
やはり、多少の違和感があったのは事実。

その違和感を軽減する為に、
ネオもエージェント・スミスも、サングラスをして「目」を隠していたという点に注目出来ます。

 

その後、
アメコミ映画作品の『アイアンマン』(2008)では、
それこそ、
漫画のキャラクターそのものを、映画に導入する事に成功していましたが、

「アイアンマン」というキャラクターは、
機械のスーツであり、人間の見た目をしていませんでした。

 

そして、ジェームズ・キャメロンの『アバター』(2009)。

全世界的に「3D映画」というものが、
映画館にて地位を得る事になった、その契機の作品です。

その『アバター』では、
生き生きとした、生物としてCGキャラが出て来ますが、
それも、
人間そのものでは無く、
宇宙人(先住民族のナヴィ)でした

 

つまり、
現時点では、CGで「写実的な人間」を再現するのは、まだ成功していないのです。

その一方、
アニメ映画という括りでは
人間をデフォルメした形で、写実的な人間「らしい」表現をする事には成功しています。

人間をCGで表現するには、
まだ、違和感がある。

しかし、
巨大な瞳で、一目で人間では無いと分かるのなら、
逆に、CGで人間を表現しても、そこに違和感は無い

という、逆転の発想をしているのです。

 

人間では無い、彼女はサイボーグだよ、

それが一目で分かるから、
実写の人間達に混じっても、違和感が無い、

まさに、表現におけるアイデアの勝利であり、

こういう発想こそ、
不可能性を可能せしめんとした、
日本の漫画が目指していたコンセプト。

そういうスタンスを、
映画でも観る事が出来た事に、
正に、日本の漫画を真に理解している作品と言えます。

 

さて、
そんな漫画的表現の一つとして、

アリータはバトルで五体バラバラになるシーンがあります。

本来、人間なら、グロくて不可能なシーン。

しかし、サイボーグだから、平気だよ、
というスタンスなのでしょうが、
それでも、少女がバラバラになるのは、衝撃的なインパクトがあります。

本作は、全年齢鑑賞可能。

おそらく、
血が吹き出ないから、全年齢対象なのでしょうが、

直前の犬が殺されるシーンでは、
その直接描写を避けていただけに、

犬が死ぬシーンはボカして、
サイボーグならバラバラにして良いものか?

首を引っこ抜いて、
脊椎が芋虫の様にウネウネ動くのは許されるのか?

この倫理の倒錯ぶりに、
映像の表現規制の穴を突いた、印象的な攻めたシーンと言えます。

こういう、
表現に対して、攻めた姿勢を貫くのも、
日本の漫画的であると言えます。

 

  • 「見る」という行為

本作『アリータ:バトル・エンジェル』はアクション映画。

基本として、
アクションの派手さ、格好良さを追求し、
特に「モーターボール」のシーンは印象が深いです。

また、ストーリー的にも、
アリータが、徐々に他人と打ち解けて行く所が見所です。

 

ストーリー当初は、
記憶も無く、
好奇心に引っ張られるまま、
お転婆放題だったアリータ。

兎に角、猪突猛進型で、

イドの忠告を聞かずに突っ込んだり、
ヒューゴに「心臓をやる」といって、戸惑わせたりします。

そんなアリータも、
物語の終盤では、

イドの気持ちを汲んで「お父さん」と言ったり、

自分の「モーターボール」のトライアルを放棄して、
ヒューゴの救出に向かったり、

人と人との距離感を理解し、
人間らしい感情を迸らせていきます。

自分の信念、アイデンティティを追求しつつ、
しかし、
そんな自分の意思を主張していた存在が、
他人とのコミュニケーションの中で、徐々に社会性を獲得してゆく。

サイボーグでも、中身は人間。

それが理解出来るから、
観客はいつしか、
アリータの巨大な「目」が気にならなくなるのです。

 

しかし、その一方、
本作のテーマの一つとして描かれている、
富裕層と下層民との対比、
それを印象付ける本作の表現、

富裕層は、下層民を、彼達の「目」を通して観ている
という面に、
意識が向く様になっています。

 

本作の舞台であるアイアンシティは、
富裕層が住むザパンから降ってくるゴミを享受して存在しています。

富裕層からもたらされるトリクルダウンとは、
結局、ゴミでしかないという隠喩かもしれませんね。

逆に、
アイアンシティからは、物資を吸い上げているザパン。

本作は直接ザパンの内部が見えないので、意識の上には登りませんが、
しかし、
下層民の富を吸い上げて、富裕層が存続しているというこの世界観は、

普段は意識させずとも、
下層民の富を吸い上げ、長時間働かせて存在している上級国民という
現実の存在の映し鏡です。

ヒューゴの様に、
上級国民への道という、決して実現しない夢をエサに、
良い様に使い捨てられる存在が居たり、

「鶏口となるも牛後となるなかれ」のコンセプトで、
下層民でありながら、
富裕層が、同じ下層民を吸い上げる手助けをするベクターの様なキャラクターも居ます。

本作では、
そんな下層民のガス抜きとして、
過激な競技の「モーターボール」が流行っており、
皆がそれに熱狂している、という世界観です。

 

しかし、
「モーターボール」の鑑賞が下層民の娯楽である様に、

富裕層の象徴であり、本作の黒幕であるノヴァは、
下層民の目に仕込まれた「遠隔臨場チップ」により、
下層民の生活を覗き見し、
自由に意思を操る事が娯楽です。

ノヴァにとっては、
アリータの奮闘も、
下層民の喜怒哀楽も、

その全てが、娯楽なのです。

そう、言ってしまえば、
我々が、観客として観ている本作『アリータ:バトル・エンジェル』という映画という娯楽は、
ノヴァが観て楽しんでいるものと同意なのです。

本作は、ノヴァが覗き見している下層民の物語、
つまり、
観客は、ノヴァと視点を共有しているのです。

 

このメタ目線に気付いた時、
観客は、何とも言えぬ嫌な気持ちを味わう事になります。

それは、普段は意識しない、
映画を観るという行為の本質にまつわる、
根本的な問題であるからです。

他人の人生を、娯楽として享受する罪深さ

そして、
それを、意識して受け入れる、富裕層の傲慢さ。

アリータの印象的な「目」、
そして、ノヴァの「遠隔臨場チップ」による、下層民の覗き見に象徴されるもの、

本作はつまり、
「目線」というものを意識せよ、
映画という娯楽をただ享受するだけの罪深さを意識せよ、

そういう警告の意味をも含まれていたのかもしれませんね。

 

  • 出演者補足

本作で、ヒューゴの友人の一人であり、
アリータとも打ち解けた人物のコヨミを演じたのは、ラナ・コンドル

ベトナム生まれの、シカゴ育ち。

『X-MEN アポカリプス』(2016)にて、ジュビリー役を演じていました。

2019年に開始されたTVシリーズ『Deadly Class』では、
「サヤ・クロキ」役として、メインキャラクターを演じています。

本作や、「X-MEN」の続篇が作られれば、
続投間違い無しのキャラクターなので、
ヒット状況によっては、
今後、出演作が注目されるかもしれません。

 

サイボーグ犬を多数駆使するハンター・ウォリアー、マクティーグを演じたのは、ジェフ・フェイヒー

『プラネット・テラー in グラインドハウス』(2007)
『マチェーテ』(2010)といった、
ロバート・ロドリゲス監督の他作品に出演しています。

原作でも活躍したキャラクターという事なので、
続篇があれば、
彼も出演するでしょう。

 

ノヴァ役は、エドワード・ノートン
アリータの記憶に出て来た師匠的な存在(ゲルダ)は、ミシェル・ロドリゲス

いずれも、有名な役者なので、
その点においても、続篇に含みを持たせていると分かります。

 

 

 

日本漫画の『銃夢』を映画化した作品『アリータ:バトル・エンジェル』。

映画では不可能と思われた漫画的表現を、
次々と実写化して行く様子に、

技術の日進月歩の凄さを実感させられます。

 

富裕層と下層民との対比、

「観る」事の娯楽の傲慢さ、

様々なテーマも盛り込んだ、
てんこ盛りの映画でもあります。

 

物語も、続篇に含みを持たせたもの。

ヒットするか?

出切れば、シリーズ化して、続きが観たい、
そんなアクション・エンタテインメント『アリータ:バトル・エンジェル』です。

 

 

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