映画『最後の決闘裁判』感想  主観と客観で揺れる真実と嘘!!権利と虚栄が渦巻く決闘の行方は!?

1386年、フランス。時は、100年戦争の最中。
騎士ジャン・ド・カルージュの妻、マルグリットが、従騎士ジャック・ル・グリに強姦された事に端を発し、12月29日に「神の審判=神判」を下すべく、決闘裁判が行われた。
そこへ至る顛末とは、、、

 

 

 

監督は監督は、リドリー・スコット
主な監督作に、
『デュエリスト/決闘者』(1977)
『エイリアン』(1979)
『ブレードランナー』(1982)
『レジェンド/光と闇の伝説』(1985)
『ブラック・レイン』(1989)
『テルマ&ルイーズ』(1991)
『グラディエーター』(2000)
『ハンニバル』(2001)
『ブラックホーク・ダウン』(2001)
『アメリカン・ギャングスター』(2007)
『プロメテウス』(2012)
『悪の法則』(2013)
『エクソダス:神と王』(2014)
『オデッセイ』(2015)
エイリアン:コヴェナント』(2017)
ゲティ家の身代金』(2017) 等がある。

 

原作は、エリック・ジェイガーの『最後の決闘裁判』。

 

出演は、
マルグリット:ジョディ・カマー
ジャン・ド・カルージュ:マット・デイモン
ジャック・ル・グリ:アダム・ドライバー

ピエール伯:ベン・アフレック 他

 

 

YouTubeのコマーシャル映像って、
人によって違うものになるそうですね。

恐らく、鑑賞履歴により、
個人に最適化されていると思うのですが、

私の場合は、
映画のコマーシャルがよく流れます。

 

その中でも、
センスのあるコマーシャルというか、
プロモビデオだなと思ったのが、

本作『最後の決闘裁判』のトレーラーです。

ちょと、貼っておきますね。

 

 

 

 

こんなにセンス溢れる予告篇を作っておきながら、
パンフレットは制作、販売しないという体たらく。

パンフレットガチ勢のワタクシは激おこですよ!

 

と、言うわけで、
『最後の決闘裁判』です。

本作には原作があって、
映画の公開に併せて文庫化された
エリック・ジェイガーの『最後の決闘裁判』を元にした、

史実に基づく作品です。

 

法廷で証言し、
その内容の真偽について、

決闘で審判を問う。

それは、
神の審判=「神判」として確定される。

何とも野蛮に思えますが、
法定の手続きの元、
(当時の)厳正なる審判なのだそうです。

 

本作では、その史実に基づいて、

決闘裁判に至る過程を、
ジャン・ド・カルージュ、
ジャック・ル・グリ、
マルグリット、
この三者の主観と主張を持って描き出しています。

 

率直に言うと、

『デュエリスト/決闘者』+『羅生門』です。

 

原作も、
迫真のノンフィクションとして、中々に読ませる筆力でしたが、

映画版も、
映像化ならではの豪華さで、

当時の風俗、風習、服装等を再現しつつ、

社会における女性の立場や、
旧友同士の友情が壊れる過程
また、
個人の性格と、組織においての立ち回り方の違いなど、

現代でも通ずる所、考える所が多数ある、
社会派ドラマとしても観る事が出来ます。

 

歴史物、
サスペンス、
SFと、

話題の大作から、カルト的な作品までものにする、

正に、
リドリー・スコット監督の本領発揮と言った所。

上映時間はちょっと長いですが、

それでも、
観る価値のある、示唆に富んだ作品、

それが『最後の決闘裁判』です。

 

  • 『最後の決闘裁判』のポイント

『デュエリスト/決闘者』+『羅生門』

嫉妬 v.s 自惚れ

社会における女性の立場

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

 

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  • 『デュエリスト/決闘者』+『羅生門』

現役の映画監督の中でも、
巨匠と呼ばれる監督の一人、リドリー・スコット。

長いキャリアの中でも特に、
歴史物(グラディエーター等)、
SF(エイリアン、ブレードランナー、オデッセイ等)、
事実に基づいた逸話(アメリカン・ギャングスター、ゲティ家の身代金等)などが、得意な印象があります。

 

そんなリドリー・スコットの初監督作品が、
『デュエリスト/決闘者』(1977)です。

ジョゼフ・コンラッドの短篇小説『決闘』を原作とした作品で、

1800年のフランスを舞台に、

逆恨みした軍人が、
執拗に相手に粘着し、決闘に持ち込もうとする話です。

 

翻って本作。

決闘裁判に至る過程を、

ジャン・ド・カルージュの主観、
ジャック・ル・グリの主観、
マルグリットの主観という3部構成で描いています。

この構成にて、
同じ事実を扱いながら、
主観によって、微妙に、それぞれの真実が違うという事を活写しますが、

それと同じ事を、既に、
芥川龍之介の短篇小説『藪の中』『羅生門』を組み合わせた、
映画『羅生門』で、黒澤明監督が描いています。

 

謂わば本作は、
『デュエリスト/決闘者』+『羅生門』と言った内容。

『羅生門』を元にして、
監督デビュー作の『デュエリスト/決闘者』をリメイクした様な印象すら受けます。

 

とは言え、
「3者の異なる真実(証言)をそれぞれ描く」という構成については、
『羅生門』の方が、圧倒的に面白いです。

ぶっちゃけ、
『最後の決闘裁判』にて、
この3部構成を導入したのは、

ストレートな描き方で、物語が単調になるという事を避ける為でもありますが、
一方で、
映画の尺を稼ぐ為に、
同じ事を3回繰り返しているという打算でもあります。

 

3者の証言が劇的に違った『羅生門』と比べると、
本作の3部構成は、
その差異は微妙な物になっています。

しかし、
差異が微妙であるが故に

ジャン・ド・カルージュ、
ジャック・ル・グリ、
マルグリットの三者の、

性格や、社会的な立場を、
逆に、鮮明に描き出しているとも言えます。

 

「決闘裁判」というパワーワードが、

下世話な野次馬根性にて興味をそそりますが、

本作にてメインに描きたかったのは、
そこだと私は思います。

 

  • 嫉妬と傲慢

真実とは絶対のものでは無く、
それは主観によって如何様にも変化する相対的なもので、
人の数だけ存在している

本作『最後の決闘裁判』では、その様に描かれています。

 

先ず、ジャン・ド・カルージュ。

彼の主観での自分は、
勇猛果敢で、実直、
正しい事は正しいと、
上司相手にも主張せずにはおられない熱血漢。

ジャンは、自分の不遇の原因は、
自分の権利を悉くジャック・ル・グリに掠め取られたが故と考え、
とうとう妻を強姦されるに至り、
已むにやまれぬ決死の反撃として、
決闘裁判へと方向を持って行きます。

 

しかし一転、
ジャック・ル・グリの視点を描く第二章においては、

ジャン・ド・カルージュは、
猪突猛進で思慮分別に欠ける、空気の読めないイモ野郎として描かれ、

一方自分は、
ピエール伯という主君に仕え、
彼の命令から、女遊びまで付き合う忠臣として描かれています。

強姦も、
道徳的な罪の意識は、告白で贖えたと考え、
また、
政治的な問題点も、ピエール伯の後ろ盾で、何とかなると考えている節があります。

 

この二人を、
後のマルグリットの主観の第三章での描写も併せて客観的に判断すると、

ジャン・ド・カルージュは、
何度も上司を訴えるのは、
不正に敢然と立ち向かう勇気というより、
所構わず噛みつく、喧嘩好きのソシオパス的な印象を受けますし、

ジャック・ル・グリも、
下級の家系の出故の、チャンスを逃さない上昇志向は買いますが、
その手法は強引であり、
ピエール伯という「虎の威を借る狐」そのもの、
その傲慢さが鼻につきます。

 

ジャンも、ジャックも、
自分の主観で描かれる物語においては、

共に、
それなりに正統な理由があります

しかし、
それぞれ客観的な判断を下すと、

ジャンは嫉妬虚栄心に、
ジャックは傲慢強引さが、

それぞれの欠点として、明確に浮き彫りになっています。

 

これは、
翻って、現代を生きる我々も、
彼達と然程変わる所も無く、

心の中の真実の部分では、悪いと思いつつも、

理屈や、瞬間的な感情を優先して、
本来の事実をねじ曲げ、
自分だけの真実を作り上げて、日々、生きて居る所があります。

本作では、
それが如何に間違いかという事を、気付かせてくれるのです。

 

  • 女性の社会での立場

そして、第三章のマルグリットの視点で暴かれるのは、
女性が社会で生きる上で強いられる、
理不尽な立場です。

結婚する時は、
持参金や土地の有無で、
有力者に嫁ぐ事になり、
それも、
自分の意思というより、
親の意思。

夫の「所有物」である妻は、
強姦されても、
自らが訴え出る事が出来ない、
夫が、「自分の所有物を毀損された」という理由付けが必要。

義母に至っては、
強姦された事を告白しても、
家系の不名誉になる事は避けろ、
自分も、同じような目に遭った
(つまり、当時の女性は皆、同じような経験があると示唆している)
だから、お前も黙ってろという、同調圧力と諦念の強要。

妊娠にも、
神意が影響するという、考え方。

裁判においても、

性行為の時、イッたのか?
今まで、夫との性行為でイッて無いから妊娠してないんだろ?
でも、
今、妊娠しているという事は、
強姦された時イッたから=
イッたという事は強姦では無いという、

根拠の無い論理にて、論点をズラした上、セカンドレイプをする、
クソみたいな法廷。

 

何もかも、
溜息が出るような、
胸クソ悪い描写が続くのが、

マルグリット視点の物語。

…ですが、

これは、
先程の客観性の話と同じく、

14世紀末のフランスと、
現代とで、
これらの女性の社会状況が、全て解消されているのかと言えば、
そうでは無いと気付かされるのが、恐ろしい所。

 

尊厳が虐げられた状況にて、
自分は正しいと声を上げる事の困難さ、

そして、その勇気の対価が、

自分の生死すら、他人に委ねるという状況に陥る事の理不尽さ。

 

本作では、
その問題点を提起しつつも、

それを、どう解消すれば良いのか、
その答えは見つかりません。

寧ろ、

問題点を理解する事こそが、
社会状況をよくする事の第一歩なのかもしれません。

 

しかし、本作では、
国王以下、
民衆も、
決闘裁判が絶好の娯楽として、

その対決と結果に、
大歓声で熱狂しています。

この品性下劣さ、
他人の不幸こそ、蜜の味として悦楽するのが、
人間の本性

自分と全く関係無くとも、
他人の結婚が反対だと、
叩きに叩きまくる所を見ると、
そう感じます。

 

 

「決闘裁判」という一つの事象を、
3者の視点にて描く事で、

真実が、如何に主観的なものか、

そして、
女性が、社会において、どれ程虐げられているのか、

これを、
娯楽大作映画として成り立たせる、
流石の巨匠監督リドリー・スコットの本領発揮、

『最後の決闘裁判』は、
そんな示唆に富んだ、
問題提起の物語なのではないでしょうか。

 

 

 

コチラが、本作の原作本

 

 

 

 

 

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