映画『ウトヤ島、7月22日』感想  リアリティを突き詰めた創作


 

2011年、7月22日、ノルウェーの首都、オスロの北西40キロに位置する島、オスロ。この場で、労働党の青年部がサマーキャンプが行われていた。その日、オスロの政府庁舎が爆破されたというテロのニュースが舞い込む。動揺しつつも、キャンプを楽しもうとしていた参加者達だが、そこに、銃声が響く、、、

 

 

 

 

監督はエリック・ポッペ
戦場カメラマンや、撮影監督を経て、
映画監督となる。
主な監督作品に、
『おやすみなさいを言いたくて』(2013)
『ヒトラーに屈しなかった国王』(2016)等がある。

 

出演は、
カヤ:アンドレア・バーンツェン
エミリア:エリ・リアノン・ミュラー・オズボーン
オーダ:ジェニ・スヴェネヴィク
マグヌス:アレクサンダー・ホルメン 他

 

 

2019年、3月15日、
ニュージーランドの中部、クライストチャーチのモスクにて、
銃乱射事件が起こりました。

現在(2019年3月17日)、
犯人は、オーストラリア国籍の、
ブレントン・タラント容疑者の単独犯と目されています。

通報を受け、犯人の身柄を確保するまでかかった時間は、36分、

死者は現在、50人だと言われています。

ブレントン・タラント容疑者は、
白人至上主義を掲げ、
移民排斥を訴えているそうです。

 

島国であり、
比較的安全と目されていたニュージーランドで起きたテロ。

これは、戦時を除き、
ニュージーランド史上で最悪の大量殺人事件だそうです。

しかしこれは、
他人事ではありません。

同じ島国である日本も、
今年から、事実上の移民法が導入され、

また、2020年にはオリンピックも開催され、

多くの「他国人」が、日本にやって来ます。

日本でも、移民ヘイトを掲げる人物が凶行を起こす可能性が無いとは言えないのです。

 

テロが人の意識に登ったのは、
2001年、9月11日の、
アメリカ同時多発テロが、その契機となりました。

しかし、
当時、テロとは、
イコール、イスラム過激派、みたいな印象がありましたが、
現代のテロは、それとは少し趣が違います。

自国至上主義、
移民排斥を訴え、
「自分は、国家の文化、人種、生活を守る為に、良いことをしている、そのマニフェストとしての行為だ」と、

ルサンチマンを抱えた自国民が、
その憎悪を、歪んだ形で他者(移民)に向けている傾向が見られます。

 

対象は変わっても、
テロという概念が確実に継承、拡散され世界を蝕んでいるのです。

 

本作『ウトヤ島、7月22日』は、
そういったテロ行為を題材にした作品です。

犯人のアンネシュ・ブレイビクは、
先ず、オスロの政府庁舎を爆破し、

続いて、ボートでオスロ島に乗り込み、
警察の制服を着て、人を整列させ、
しかる後に、銃を乱射したと言われています。

双方併せた死者の数は、77名(政府庁舎:8人、ウトヤ島:69人)にのぼり、

同国における、
第二次世界大戦以降の、最悪の事件と言われています。

また、
単独犯の短期間での大量殺人事件において、
77名を殺害したのは、
これまた、世界最悪の事件だと言われています。

 

パンフレットに拠ると、
当時、ウトヤ島に居たのは569人。

彼達は、
ノルウェー労働党の青年部に所属する人間達でした。

ノルウェーにおいて、
国民の政治参加の意識は高く、

労働党に限らず、
各党の青年部が、その政治的な主義の基盤を、
青年部時代に形成、

多くの国民が、
それに参加し、議論や討論を重ね、
その行動をもって政治に参加しているのです。

 

しかし、犯人は、そのサマー・キャンプを狙った。

政府庁舎爆破時、
労働党党首、首相のイェンス・ストルテンベルグ(当時)は自宅に居り、無事でした。

そして、
犯人は当初、元首相のグロ・ハーレム・ブルントランを標的として狙っていたそうです。

労働党のブルントランは、ノルウェー初の女性首相。

移民排斥を訴える犯人のブレイビクは、
移民政策を推進したブルントランを当初、狙っていたとの事。

しかし、
当日、ブルントランはウトヤ島でスピーチをする予定だったそうですが、
到着が遅れた為、
犯人は急遽、
若者を狙った無差別テロへと予定を変更したのです。

 

本作『ウトヤ島、7月22日』は、
先ず冒頭、
政府庁舎の爆破の記録映像から始まります。

そして、
そのニュースを聞き及んで、
動揺するキャンプの青年部のメンバーの様子が描かれ、

しかし、
それでも日常の範疇にいた彼達を、

一発の銃声が、地獄へと誘います。

本作は、

その銃声から、事件収束までの72分間を、
ノーカットで撮影しているのです。

 

カメラは、
青年部のカヤの行動にほぼ固定。

BGMも無く、

只管、犯人の銃撃から隠れる様子を映すのみです。

 

監督は、戦場カメラマン出身というだけあって、

生の臨場感、
圧倒的なリアリティ

 

を演出する事に注力したという印象を受けます。

 

『ウトヤ島、7月22日』は、
決して楽しい映画でも無ければ、
面白い映画でもありません。

しかし、
テロの恐怖というものを、
これ程までに描ききったという事実に、
驚愕し、圧倒されます。

この事実を、忘れない為に、
観ておく価値のある作品と言えるのです。

 

 

  • 『ウトヤ島、7月22日』のポイント

生の臨場感

72分間、驚異のノーカット

テロから、何を学ぶのか

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 計算された、映画的な演出

本作『ウトヤ島、7月22日』は、
まるで、観客自身も、ウトヤ島に居るかの如き臨場感を持った映画です。

それを可能成さしめたのは、

72分間のノーカットという撮影形式です。

 

昨年、日本で大ヒットした『カメラを止めるな!』の37分間ノーカットも圧巻でしたが、

本作はそれを遥かに上回る、
約2倍の72分間ノーカット、
正に、狂気の沙汰

72分間、
一度も失敗してはいけない、この緊張感

それが、
テロに怯え、恐怖に震える生の臨場感を生成せしめたと言っても、過言では無いでしょう。

 

この72分間を失敗しない為に、
アドリブは徹底廃止、入念なリハーサルを繰り返し、

5日間に亘って、撮影を5回決行、

実際に使われたのは、4回目の撮影だとの事です。

つまり、本作は、
計算して、
事実を映画という媒体に落とし込む事に注力しているのですね。

 

ただ、事実のみだと、
撃ち殺される凄惨な場面、
もしくは、
ひたすら、隠れ続ける動きの無い場面、

それが続く事になります。

しかし、それでは、映画として、成立しない。

その為、
最低限の動きやドラマが、
本作にはちゃんと、「映画としての演出」として導入されています

 

カヤは妹を捜す為に動き回り、
負傷した他人を介抱し、
水辺で隠れ、マグヌスと会話したりします。

そして、そのカヤを、
カメラは徹底して追いかけます。

 

本作は、ドキュメンタリーではありません。

あくまで、事実を再現した、映画という創作です。

なので、モキュメンタリーとも違います。
(モキュメンタリーとは、事実では無い事を、あたかも事実であるかの様に、ドキュメンタリータッチに作品化したもの)

つまり、
「カメラを持った撮影者」がその場に居る訳では無いのです。

 

カメラマンは作中に存在せず、
しかし、観客はあくまでもカメラ目線で作品を観る。

これにより観客は、
カメラの目線を第一人称として、
あたかも映画に参加している感覚を得ます。

まるで、透明人間か、幽霊の様に、

カヤの行動を見守り続けるのです。

 

  • 死亡フラグを立ててまで、伝えたかった事

しかし、
違和感があります。

映画の冒頭、
カヤは、先ず、カメラ目線を向けます。

カヤは、カメラを認識しているのでしょうか?

 

しかし、
その後は、あくまで、カヤも、周囲の人間も、
カメラマンを全く意識しません。

 

ラスト近く、
カヤとマグヌスは潜伏場所で、会話します。

「助かったら何したい?」
「死ぬまでにしたい10の事を言い合おう」と。

オイオイ、それ、完全に死亡フラグじゃないか!!

カヤは嫌がりながらも、真面目に答えます。

「私は、首相になりたい」と。

正に、青年部の鑑。
ナンパ目的でキャンプに参加したマグヌスとは大違いです。

しかしラスト、
カヤは、
自分が逃げる様に誘導した少年が射殺されているのを発見して、
自分を責めます。

映画において、
作中の自分の行動について、
作中で後悔、自己嫌悪をする事は御法度
これまた、死亡フラグなのです。

 

立った死亡フラグを回収するかの様に、
凶弾に倒れるカヤ。

しかし、
その直後にボートが岸に辿り着き、
マグヌスとカメラマン(観客)は、ボートに必死で乗り込み、
九死に一生を得ます。

正に、タッチの差で、
おそらく、カヤが、最後の犠牲者となった、
そのタイミングで、物語とテロは終息します。

 

カヤは、死亡しましたが、
しかし、
カヤは、その行動にて、我々観客に問いかけていると、
私は思います。

「私は首相になりたい」
そう言ったカヤ。

首相になって、世の中に、
何らかの良き変化を与えたかったのでしょうか。

彼女の希望は叶いませんが、
しかし、
彼女をずっと観てきた我々には、
彼女の代わりに、
世の中を良くする義務が課せられた

彼女は、
その作品の冒頭で、我々を見つめたのは、
その遺志を、予め伝えていた
そういう映画的演出の意図が込められているのです。

 

責任感に駆られ妹を捜し、
子供を助け、
負傷者を介抱し、

映画の主人公として、
英雄的な行動を見せますが、

しかし、
どれも力叶わず、
自らも死亡した、カヤ。

彼女の行動は無意味なのでしょうか?

否!

テロについて考え、
社会と政治の在り方、
自分の信条などに、
この作品を観る事で、思い至る。

それだけでも、
充分に、彼女の遺志を継ぐ事になる

それこそ、
本作『ウトヤ島、7月22日』が目指した場所なのであり、

事件を風化させずに、
そこから、何らかの意義や教訓を得る事が出来る、

私は、そう思うのです。

 

 

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