母が闘病生活をしているコナーは学校でいじめられている。コナーの楽しみは絵を描く事。ある日、時計が12時7分を指した時、地響きと共に墓地の巨大なイチイの木が動き出した、、、
原作小説『怪物はささやく』は夭折したイギリスの作家ヴォーン・ダウト氏の原案を基に、アメリカのパトリック・ネスが書いた児童文学だ。
パトリック・ネスは映画『怪物はささやく』の脚本も担当している。
監督はJ.A.バヨナ。他の監督作品に
『永遠のこどもたち』(2007)
『インポッシブル』(2012)
『ジュラシック・ワールド/炎の王国』(2018)がある。
主演のコナー役にルイス・マクドゥーガル。
『PAN~ネバーランド、夢のはじまり~』等に出演。
コナーの母リジー役にフェリシティ・ジョーンズ。
『博士と彼女のセオリー』(2014)
『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー』(2016)
『インフェルノ』(2016)等、最近露出が増えた来た女優だ。
他、共演にシガニー・ウィーバー、トビー・ケベル等。
そして怪物役にリーアム・ニーソンと出演者が豪華である。
本作『怪物はささやく』はファンタジーだ。
とは言っても『ハリー・ポッター』シリーズの様に魔法が飛び交ったり『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの様に異世界冒険譚でもない。
いわゆる
イマジネーションと対話するタイプのファンタジーである。
本作では怪物がコナーと対話を繰り広げる。
いきなりコナーの前に現れて物語りだした怪物の目的とは?
そして怪物は何をもたらすのか?
少年が直面すべき真実とはいったい何なのか?
刮目して観てほしい
以下ネタバレあり、イキナリモロバレします
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怪物がささやく理由
怪物は何しに、何故コナーの前に現れたのか?
答えはズバリ作中で発言している。コナーを癒やす為である。
つまり、コナーが母の死を受け入れられる様に怪物はその準備にやってきたのだ。
怪物が出現する12時7分は母が亡くなる時間である。
3つの話それぞれの教訓もコナーに優しく、告白の勇気を促す。
1つ目は「物事は見た目通りの単純な善悪では語れない」
2つ目は「自らの信念を捨て去ってはならない」
3つ目は「注目を浴びるために目立つ事をすると、前以上にスルーされてしまう」といった事である。
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コナーが語る4つ目の物語
怪物に促されてコナーが告白する彼自身の物語とは、彼の悪夢、即ち「母の手を離してしまう」という事である。
もっと率直に言うなら、看病疲れしていたコナーは、「いっその事早く死んでくれ」と思っていたのだ。
コナーはそう感じてしまう事に罪悪感を抱えていた。
だから彼は自分を罰する事を欲し、マゾヒストとなった。
いじめっ子に目を付けられていたのではない、いじめっ子にガン付けて「母の死を願う自分を罰する」為に殴る様に仕向けていたのだ。
だからコナーは自分の不都合な真実を相手に喝破された時、逆ギレ的に怒りを爆発させてしまった。
結果、引きに引いた周りの大人も同級生も腫れ物扱いでコナーを「無視」する事にして、彼を決して罰する事はなくなってしまう。
3つ目の物語である。
しかし、1つ目の物語の様に物事は単純ではない。
看護に疲れてしまう事は、果たして「悪」なのか?
一見そう見えても、そこには複雑にいろいろな事が絡まっている以上、必ずしもそうとは言えない。
だからこそ、2つ目の物語、「母への愛」という揺るぎない真実は手放してはならない。
むしろ、心からの想いを失っていなければ、それこそが愛の証明になるのだ。
怪物は一度、コナーに自分の「不都合な真実」を自覚させておいて、それからその「真実」にコナー自身で折り合いを付けられる様に優しく諭す。
そのタイムリミットが12時7分だった。折り合いを付ける前に母が死んでしまったら、その後ずっと罪悪感につきまとわれてしまうからだ。
ともあれ、コナーは間に合ったのだ。
- 結局、怪物とは何だったのか?
本作の怪物、イチイの木のエントの正体は何か?
単にコナーの一族を見守ってきた守護精霊なのか?
これは私の一つの解釈として聞いて欲しい。
あの怪物はコナーの祖父であり、母イジーの父のアバター(化身)であったのだと思う。
薬が効かないと母のリジーに告白したシーン。コナーは「それは嫌だ」という絶望とともに「ようやく終わる」という安堵も共に感じた。
上手くいかない現実の不条理さと悲しみ、そして「ホッ」としていまった自分への自己嫌悪のあまりにコナーは口がきけない程の怒りを覚えた。
イジーはその気持ちは分かる、と言っていた。同じ様な事が、母と祖父の間でもあったのかもしれない。
祖父も早くに亡くなった。彼もイジーに何らかのアドバイスを授けていたのでは?
そして、イジーはその思い出(実際、絵本として残していた)をコナーに事ある毎に語り、その潜在意識が「コナーの見た怪物」となり形づくられたのでは?
ラストにイジーが見たのは、コナーから見ると怪物だが、イジーには父に見えていたのかもしれない。
そしてメタ的な事を語ると、怪物役のリーアム・ニーソンがイジーと思われる女の子をだっこしている写真が2度ほど写ったからだ。
つまり怪物=リーアム・ニーソン=祖父であるのだ。
その写真の構図も、ラストのイジーの絵本の中の「女の子を肩に乗せる怪物」の絵の構図と似ていた。
あなたはどう思いますか?
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このタイプのファンタジー
異世界系ではない、このタイプのファンタジーには心に残る名作が多い。
思いつく他の作品に映画の
『パンズ・ラビリンス』(2006)
『テラビシアにかける橋』(2007)や
小説の『思い出のマーニー』等がある。
本作『怪物はささやく』が気に入ったら、これらも観てみては如何だろうか。オススメだ。
病気の家族の看護疲れ、介護疲れの果てに相手の死を願ってしまう。
これは誰にでも起こり得る。
しかし、それで罪悪感に囚われ自暴自棄になってはいけない。
その思いを抱え受け入れ、その上で相手を愛する事を忘れていなければ、お互いが安らかに別れる事が出来るだろう。
それが、病気と闘いながら原作の原案を作ったヴォーン・ダウトのメッセージなのかも知れない。
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こちらは原作
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さて、次回は自分を罰するのではなく逃げてしまった男の話『武曲』について語りたい。