ゴッサムシティを影から守るバットマン。彼は警部補のジム・ゴードン、検事のハービー・デントと組んでマフィアの資金を押さえようとしていた。追い詰められたマフィアは一人の男を雇う。ピエロの白塗り化粧で狂気の言動を繰り返す、その名はジョーカー、、、
監督はクリストファー・ノーラン。
監督作品に
『フォロウィング』(1998)
『メメント』(2000)
『インソムニア』(2002)
『バットマン ビギンズ』(2005)
『プレステージ』(2006)
『ダークナイト』(2008)(本作)
『インセプション』(2010)
『ダークナイト ライジング』(2012)
『インターステラー』(2014)
『ダンケルク』(2017)がある。
本作は監督の最も人気の作品だ。
主演はクリスチャン・ベール。
ダークナイトシリーズにおいてすっかりアクション俳優の様な雰囲気になった。主な出演作に
『太陽の帝国』(1987)
『アメリカン・サイコ』(2000)
『リベリオン』(2002)
『マシニスト』(2004)
『バットマン ビギンズ』(2005)
『プレステージ』(2006)
『ザ・ファイター』(2010)
『ダークナイト ライジング』(2012)
『アメリカン・ハッスル』(2013)等がある。
共演にマイケル・ケイン、ヒース・レジャー、ゲイリー・オールドマン、アーロン・エッカート、マギー・ギレンホール、モーガン・フリーマン等。
2008年に逝去したヒース・レジャーは、本作のジョーカー役でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。
2008年に公開された本作『ダークナイト』。
これはとんでもない映画だった。
開始5分で分かる圧倒的面白さ。
観客は「つかみ」で既に夢中になってしまう。
続篇とか、アメコミとか全く関係ない。
『ダークナイト』はその一本だけで観る者の度肝を抜く大傑作である。
奇襲と策略で次々と成果を上げるバットマン。
しかし、その彼に対抗するのは理性が通用しないジョーカー。
この不気味な恐怖は2000年代に蔓延していた「テロの恐怖」を如実に表わした同時代的な存在であった。
正義のあり方。
そして、人間性のあり方。
とりわけ、人間が誰でも持っている負の部分。
自らが抱える恐怖と負の感情にどう対峙してゆくか?
それを常にジョーカーは問うて来る。
必見の大傑作だ。
以下ネタバレあり
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映画の起承転結
良い映画は起承転結の構成がしっかりしている。
私はそう感じている。
起:映画の基本的な設定を観客に知らせる導入部。
承:起を受けて日常的な生活、業務、行動などでストーリーが進む。
転:トラブルなり強敵などが発生し、予想外、想定外の困難な事象に対面する。
結:物事の解決、または破滅によってストーリーに区切りが着く。
といった具合である。
そして、名作映画にはさらに「つかみ」の部分がある。
初見で映画にグッと引き込んで来るのだ。
「つかみ」は「この映画はこんな映画なのだ」という生の決意表明をガツンとぶつけてくる部分である。
本作『ダークナイト』においては、ジョーカーによる冒頭の銀行強盗のシーンである。
当時はまだ普及していなかった「IMAXカメラ」を使い撮影されたこのシーンは、臨場感も満点。
そしてここで観られるジョーカーの狂気は、作品を覆う圧倒的な混沌を予感させるものだった。
強烈な「つかみ」は観る者を圧倒し、その潜在意識の部分で名作を観るべく準備を整える。
そして、その後の起承転結で観客の期待に応えた作品こそが傑作と称されるのだ。
本作『ダークナイト』しかり。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』しかり。
「つかみ」起承転結の流れが一番分かり易い作品は
『ダーティーハリー』である。
こちらもチェックしてみると良いだろう。
もっとも、『ダークナイト』においては
「つかみ」起承転転転結くらいになっているのだが。
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ダークナイトの構成
ノーラン監督の作品は「凝った設定を分かり易い構成で観せる」ものが多い。
しかし、本作にはそれが無い。
設定やストーリーテリングは普通である。
その代わり、テーマ性とストーリー自体の強度が従来の作品と比べても並外れであった。
テクニックに頼らず、がっぷり四つに組んでもこれだけ面白者が作れると証明してみせたのだ。
しかもクライマックスが二転三転し、内容的に映画2本分くらいのストーリーとアイデアを詰め込んでいる。
2時間半という上映時間が全く長く感じない。
長時間の集中力を途切れさせない、これは凄い事である。
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度肝を抜く演出
実写に拘るノーラン監督の映画作りは『ダークナイト』にも現れている。
ヘリコプターを落っことし、
トレーラーをひっくり返す。
そしてその最たるものは病院爆破である。
割れる窓こそCGだが、病院自体はマジモンの建物である。
初見の時にはマジで度肝を抜かれた。
ジョーカー役のヒース・レジャーが出す緊張感は本物だった。
「これはもしかして、現地で実際の役者が本当に爆破にいるのか!?」
それが一見して分かるだけに、そのスケールの大きさに圧倒されたのだ。
- ジョーカー
前作『バットマン ビギンズ』ではレイチェル・ドーズがそのテーマを担うキャラクターであった。
本作『ダークナイト』においてテーマを体現するのはジョーカーである。
スケアクロウやマフィア相手にその力を振るうバットマン。
知力、体力、資金力を駆使して相手を追い詰めてゆく。
しかし、ジョーカーは常識の範囲外にいる存在だった。
『バットマン ビギンズ』でジム・ゴードンが懸念した「暴力のインフレ」。
バットマンは理性とルールて対抗するがジョーカーはそれを嘲笑い、何度もバットマンを窮地に陥れる。
ブルースは言う
「犯罪者の思考は単純だ、それを読んで追い詰めれば良い」と。
しかし、このラーズ・アル・グールの教えが全く通用しない。
ルールに縛られた存在では全てが後手に回り、「混沌の案内人」と自称するジョーカーに全く歯が立たない。
ジョーカーは常識の埒外にいる脅威、理解不能からくる恐怖そのものなのだ。
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恐怖の選択、二者択一
しかし、ジョーカーの最も恐ろしい所はそこでは無い。
ジョーカーは事ある毎に選択を迫ってくる。
バットマンの素顔 or 市民の命
ハービー・デント or レイチェル・ドーズ
ウェイン社の弁護士の命 or 病院
一般市民 or 囚人
ジョーカーは状況を作るが自らは手を下さない。
相手にどちらを選んでも後悔する困難な選択を迫り、自身の内面の闇と対峙させる。
自意識による選択。
強いられる選択の「公平さ」、つまり自らの行いに責任を持つ事こそが相手を絶望に落とすのだ。
自分が愛する者を守る為には、相手の命を犠牲にしなければならない。
しかし、それは許される事なのか?
自らのエゴではないのか?、、、
選択者は自らの手を汚すか、自己犠牲を覚悟するしかなくなるのだ。
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ヒーローの堕落
市民に愛されるヒーローを地に堕とす。
これがジョーカーがバットマンに挑む戦いである。
「どんな高潔な人間でも悪に染まる」
この事を証明したいのだ。
ジョーカーはその為には自らの命さえも厭わない。
つまり、相手の仕掛けには事故の強靱な克己心のみでしか対抗できない。
それがジョーカーの強敵たる所以である。
結局は果てしない自己との戦いとなるのだ。
そしてジョーカーは遂にハービー・デントを堕とし、トゥー・フェイスにしてしまう。
ジョーカーの影響を受けたトゥー・フェイスが迫るのは「偽りの公平さ」。
ハービー・デントの時は「運ではなく自ら掴む」と言っていた信念を、トゥー・フェイスはコイントスの単純な二者択一に堕としてしまう。
そしてトゥー・フェイスは自己責任を放棄し、自らを復讐という自己満足にかり出す。
「復讐は自己満足でしかない」
これは『バットマン ビギンズ』でレイチェルがブルースを諫めた言葉だが、そのレイチェルの死が復讐にかり出させる切っ掛けだったのが皮肉だ。
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同時代性を表わす恐怖
本作『ダークナイト』はテーマ性、ストーリー、キャラクター、構成、アイデア、演出、全て素晴らしい。
そしてさらに、『ダークナイト』は時代の空気を反映した、同時代性を表わす作品として幅広く支持された部分があるのだ。
2000年代の世界、とりわけアメリカが感じていた脅威はテロの恐怖。
テロの持つ予測不能さは全ての人間に「公平な恐怖」をもたらす。
そして、テロ=ジョーカーの恐怖は、理解不能、交渉断絶、突発的、相互理解の不可能性からくる未知への恐怖を表わしているのだ。
全世界は知っていた。
そしてアメリカ国民も本当は知っていた。
大量破壊兵器などは言い訳であると分かっていた。
イラクに侵攻したのは、テロに手も足もでないアメリカが、アメリカの国威を見せつける為、叩いても文句が出ない、叩きやすい相手をやっつけてみせただけなのだと。
アメリカは自らのプライドの為、イラクをスケープゴートにした。
自らの手を汚し、相手を犠牲にする事を選んだのだ。
そして、アメリカ国民はその罪悪感に悩まされていた。
また、世界もそれを静観するしか無かった自分の無力さに打ちひしがれていた。
ヒューマニティーはテロやジョーカーの恐怖の前に屈してしまうのか?
そうではない、と『ダークナイト』は謳っているのだ。
バットマンですら全てが後手に回り、ジョーカーには手も足も出なかった。
しかしラスト、ゴッサムの市民は、囚人でさえその人間性を最期まで失わず、ジョーカーに抗ってみせる。
それはただ、「相手を殺せなかった」というだけの消極的な選択だったかもしれない。
しかし、最も弱い者達の選択が、強いられる「公平さ」の恐怖を打ち破る。
この描写に時代の光を見たのは私だけではないだろう。
あのフェリーのシーンこそが、最大のクライマックスである。
そして、その市民の選択を知ったからこそ、バットマンは市民の中に希望を見出す。
その希望を消さないために、
バットマンは(ジョーカーから強いられたものでない)困難な選択を最期に選ぶのだ。
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アメコミ映画覚醒の年
『ダークナイト』の公開年は2008年。
この年は『アイアンマン』も公開された。
『X-メン』(2000)が撞き、
『スパイダーマン』(2002)が捏ねし天下餅
座りしままに、食うは『ダークナイト』と『アイアンマン』
まぁこれは言い過ぎだが、徐々に受け入れられてきたアメコミ映画が完全に市民権を得たのがこの年だったと記憶している。
テーマ性に重きを置いた『ダークナイト』。
エンタテインメントに吹っ切った厨二マインド満載の『アイアンマン』。
この2作が教えてくれる。
原作がアメコミとかそういう括りは関係ない。
「大人の観賞に堪える」とかは体の良い飾り文句だった。
「映画は面白いが全て」であったのだ。
『ダークナイト』と『アイアンマン』によって見直されたアメコミ映画は、興業的にも美味しいと発見され、以降乱発されてゆき、その流れは今に至っている。
現在は一定のクオリティを保っているが、これがいつまで続くのか?
楽しみであり、その凋落が不安でもある。
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スタッフ、キャスト補足
前作に続き本作『ダークナイト』でも脚本はデヴィッド・S・ゴイヤー。
音楽はハンス・ジマー。
制作はエマ・トーマス。
ノーラン監督の妻である。
また、脚本にジョナサン・ノーランの名前がある。
ジョナサンはクリストファー・ノーランの兄弟。
家族的な作品作りがチームの秘訣かもしれない。
チョイ役だが、ノーラン作品常連のキリアン・マーフィーは本作でも健在。
冒頭の銀行強盗のシーンで、銃をぶっ放す銀行員を演じたのはウィリアム・フィクナー。
『リベリオン』でクリスチャン・ベールと共演している。
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ショッキング!!翻訳間違い!!
『ダークナイト』の翻訳で決定的な間違いがある。
それはジョーカーがナースのコスプレをしてハービー・デントと会話するシーンである。
時間にすると(1:50:45)のシーンだ。
ジョーカーがハービーに、恐怖のなんたるかを語る。
作品のテーマの本質にも触れる重要なシーンだ。
以下(1:50:39~45)のセリフを抜粋してみる。
I’m an agent of chaos.
Oh, and you know the thing about chaos?
It’s fair.
訳すとこうだ。
俺は混沌の案内人だ。
なぁ、混沌の本質が何たるか(何によってもたらされるか)は分かってるよな?
それは、公平さだ。
この「fair」の所を「fear」と間違って「恐怖」と訳してしまっている。
この会話で「公平さ」に拘るトゥー・フェイスの暴走が始まるので、この訳の間違いは致命的である。
私の持っている2008年産のDVDも、2012年産のブルーレイでも未だに間違ったままである。
ご鑑賞の際は是非とも注意されたし。
本作『ダークナイト』はバットマンの映画でありながら題名から「バットマン」の名前を抜いている。
「バットマン」という最高のネームバリュー捨てたのは、作り手の並々ならぬ矜持と自身を見て取れる。
そして実際にネームバリュー抜きで面白く、
ネームバリューを捨てたからこそ、ここまでヒットした。
そして、「バットマン3部作」と言われず、
「ダークナイト トリロジー」と言われる程の評価を得て、
「ダークナイト」というヒーロー像を確立したのだ。
『ダークナイト』はまさに10年に一度の大傑作である。
そして、物語は『ダークナイト ライジング』で完結する。
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次回はその『ダークナイト ライジング』について語ってゆきたい。