幻想・怪奇小説『今昔百鬼拾遺 鬼』感想  因縁とは、人間が作るもの!!


 

昭和二十九年、3月。駒沢野球場周辺にて「昭和の辻斬り」と言われる連続通り魔事件が発生した。その最新の被害者で、殺害された片倉ハル子の友人・呉美由紀の話を、記者の中禅寺敦子は聞く。ハル子は、「迚(とて)も恐い」と何かに怯えていた。それは、自身の家系に伝わる「女子が斬り殺される」という因縁であった、、、

 

 

 

 

著者は京極夏彦
「百鬼夜行」シリーズ
「巷説百物語」シリーズ
など、ミステリに怪奇をふんだんに織り交ぜた諸作品で人気を博す。
それ意外にも、
ユーモア小説など、多数。

 

 

 

『姑獲鳥の夏』(1994)でデビューし、
『魍魎の匣』(1995)で話題をさらった京極夏彦。

「これは、どえらい小説が生まれたぞ」

と、当時の読書家を驚嘆させたのも、
今は昔。

分厚いページ数、
ページの見開きの状態で、必ず「文」を完結させるというスタイル、
蘊蓄と饒舌な語り口が持つ、独特の「騙り」の魅力。

「百鬼夜行」シリーズは、
毎回、モデルとなる「妖怪」をモチーフとした事件が起き、

その「怪」を、
「事件の当事者」にとって納得行く形で「終息」させる、
主人公格の中禅寺秋彦が行う「憑物落し」
という謎解きが魅力の作品シリーズです。

 

しかし、
連作の短篇小説集は出版されてはいても、
シリーズの長編は、
『邪魅の雫』(2006)をもってして、
刊行されずにストップしていました。

それが、

約13年の時を経て、
漸く、「百鬼夜行」シリーズの新作長篇が復活!

 

それが本作『今昔百鬼拾遺 鬼』です。

 

とは言え、
本作のページ数は、文庫で259ページ。

本来なら、充分「長篇」と言える分量なのですが、

500、600ページ超えの分量に慣れてしまった作者のファンからすると、
なんだか、短篇を読む様な感覚でしょう。

 

しかし、
13年前のシリーズに、
あらためて触れるとなれば、
リハビリとしては丁度良い分量と言えます。

 

さて、
著者・京極夏彦と言えば、
その諸作品が、
別の作品と関わりがあるという特徴も持っています。

本作『今昔百鬼拾遺 鬼』も、
その特徴を持っています。

そして、勿論、
「百鬼夜行」シリーズの過去作を読んでいたら楽しめる部分も多数用意されていますが、

本作は、単品でもそれなりに楽しめます。

 

「百鬼夜行」シリーズに興味はあれど、
分量が多すぎて、どうも食指が動かない。

そんな人が、
シリーズの「お試し」として手に取ろうという時、
うってつけの作品と言えましょう。

 

また、

「昔は好きだったけれど、すっかりシリーズの内容を忘れちゃった」
みたいな私の様な人間でも、物語の世界観に、すんなり帰って行く事が出来ます。

 

これを機に、
京極夏彦、再デビューを果たしてみるのも、良いでしょう。

 

事件があって、
その謎解きがメインではりますが、

読み味は、まるで怪奇小説そのもの。

作中の蘊蓄の多さ、

そして、
それを語ったり、リアクションしたりする、
登場人物のキャラクターと、会話劇の面白さ。

人によって、
色々な楽しみ方があるのが「百鬼夜行」シリーズの魅力であり、

そのスピンオフとして、
丁度良い分量で、世界観を楽しめる『今昔百鬼拾遺 鬼』。

本作が、
「百鬼夜行」シリーズ復活の狼煙となるか!?

 

 

  • 『今昔百鬼拾遺 鬼』のポイント

手頃な分量のシリーズスピンオフ作品

ファンには最適のリハビリ作品

因縁とは、人画作るもの

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


スポンサーリンク

 

  • まさかの新作!からの、新作発表!?

本作『今昔百鬼拾遺 鬼』は、
著者・京極夏彦の久しぶりの「百鬼夜行」シリーズの新作長篇です。

とは言え、
長大なページ数の作者の「百鬼夜行」シリーズを読み慣れた人にとっては
250ページ程度では、短篇程度の読み味となってしまうのは否めません。

 

とは言え本作は、
『今昔百鬼拾遺 鬼』
『今昔百鬼拾遺 河童』
『今昔百鬼拾遺 天狗』と、
3作連続で刊行される、
その劈頭の作品。

3作合わせると、著者の長篇的な分量になります。

つまり、
ちょっとずつ読む事で、
京極夏彦作品にブランクがあったとしても、
「百鬼夜行」シリーズの「世界観」を取り戻す事が出来る、という訳です。

…それにしても、
ラインナップが、「鬼」「河童」「天狗」って、
まるで、
「ドラキュラ」「オオカミ男」「フランケン」を従える『怪物くん』みたいなノリですね。

 

さて、
本作の「百鬼夜行」シリーズにおける時系列ですが、
メインの登場人物の「呉美由紀」が居る為、

美由紀が初登場した『女郎蜘蛛の理』以降の作品であるという事は解ります。

そして、
p.120 の記述から判断するに、
「伊豆」「箱根」「神無月事件」の後の話だとも分かります。

しかし、
恥ずかしながら、上記の3つの事件が、
どの作品に該当するのか、
私は忘れてしまっています

『女郎蜘蛛の理』は、
織作姉妹のキャラが濃くて、
その後の『塗仏の宴 宴の支度』のインパクトで覚えていたんですよね。

また、同じp.120 に、
「栃木」に兄(中禅寺秋彦)と探偵(榎津礼次郎)と小説家(関口巽)が居るらしい、
と、中禅寺敦子と鳥口守彦の会話で推察されます。

 

「栃木」の事件って、何でしたっけ?

短篇にありましたっけ?

もしかして、
未だ語られぬ新作の舞台!?

色々期待が高まります。

 

 

以下、本作のオチに関わる記述が含まれます

 

 

  • 因縁を作るのは、人

本作は、
「百鬼夜行」シリーズのいつもの如くに、
冒頭に妖怪画と、
その説明文が記載されています。

本作のモチーフ妖怪は「鬼」。

そして、
この「鬼」の解釈が、
そのまま本作のテーマとなっているのですね。

それは、
「因縁」を作るのは、人、だという事です。

 

本作をメタ的に見た場合、
そのミステリ的なオチは、
「被害者が連続通り魔事件の加害者というオチだったら、面白い」
という発想から生まれています。

これを、
如何にも「百鬼夜行」シリーズ的な、
幾層もの「語り」と「騙り」にて、成立させているのが、
本作の面白い所。

分かり易く言うと、
事件の真相について「嘘」を言う人
もしくは、
多くを語らず、本人にとって「都合の良い部分」しか話さない人がいるから、
「真実」が分からなくなった、
そういう事件なんですよね。

 

習慣や、
社会のルール、
禁忌などは、

それを「守る」事で、
生活、仕事に支障をきたさない、
暗黙の決まり事を、明文化したものとも言えます。

本作における
「鬼の因縁」も、それと似た様なものです。

 

つまり、
「悪因」として忌避すればいいものの、

それを真に受けて、
「因縁」として伝えられた事象を敢えて辿る事で、
結果的に悲劇を再生産する事になっているのです。

 

本作では、
その象徴として、
「日本刀」について、研師の大垣が語るシーンがあります。

「刀」は畢竟、人殺しの道具。

しかし、道具であるが故に、
それのみでは忌まわしい物とは言えない。

それを振るう人間が居るから、
死人が出る。

そこから、因縁が生まれると言うのです。

 

「刀」のみではただの道具、
「人」のみでは、ただの「人」。

それが合わさって、
「鬼」という「因縁」が生まれる。

それが本作であり、
「因縁」を作るのは、
人間側の行動であり、意思や解釈であるというのが本作のテーマなのです。

 

最初の「鬼」の解説文の一部を抜粋すると、

「頭は牛」「腰布は虎革」
「牛と虎を合わせて、鬼の形になる」

と記載されています。

本作のテーマを、この解説文にて如実に表しているのですね。

 

これをまとめる、
クライマックスの「謎解き」。

中禅寺敦子は、喋らせて多くを語らず、
刑事の賀川は、逆に先回りしてツッコむ為、人が喋る邪魔になり、
宇野と戸田勢子は「自分がやった」の一点張り。

この不毛なやり取りの快刀乱麻を断つのが、
美由紀の啖呵であり、
本作における「憑物落し」となっています。

 

宇野と戸田勢子の言い分を受け入れてしまえば、
そこに、新たな「因縁」が生まれてしまいます。

その「禍根」を言葉で断ったという意味では、
正に、
本作が「百鬼夜行」シリーズたる所以であるのです。

 

中禅寺秋彦の様な理路整然とした「騙り」。

榎津礼次郎の「破天荒」さ。

これらとはまた違った、
呉美由紀の、幼いが故の「正論」の力強さ。

「憑物落し」のパターンとして、
新しいものを本作は提示した、と言えるのではないでしょうか。

 

 

まぁ、実際は、
たった数回の首実検で、
女子高生が、人を上手く斬れる様になるのか、
それは疑問ですが、
そこをツッコむのは野暮な事。

数回で上手く人斬りが出来るなら、
プロ野球選手は誰でもイチロー並の成績が残せますからね。

 

しかし、
そういう細かい事より、
「語り」と「騙り」の面白さを堪能するのが、本作の魅力。

久しぶりの「百鬼夜行」シリーズ。

そして、
続けてもう2作楽しめる。

今後のシリーズがどう動くのかという期待も込めて、
続篇を待ちたいです。

 

 

 


スポンサーリンク