大からあげ弁当を頼んだ杉山。しかし、6個入っているハズのからあげが、4つしかなかった、、、
「あげもの」を巡る、杉山、浜田、徳永、3人の物語。
それが、奇妙な交わりを見せる、、、
著者は本秀康。
イラストレーター、漫画家。
音楽への造詣も深く、CDジャケットのイラストなども多く手掛ける。
代表作に
『たのしい人生』
『レコスケくん』
『本秀康名作劇場』
『ワイルドマウンテン』
『アーノルド』 等がある。
皆さん、
風邪を引いた時、何を食べますか?
ポカリスエット?
ヨーグルト?
バナナ?
私の場合は、
コカ・コーラとヨーグルトですねぇ。
何故か、コーラの甘味が、私の風邪には覿面に効くのです。
そして、
風邪が快癒した後には、
弱った体に栄養を与える意味で、
からあげバスケットをムシャムシャ食べるのが、
私のパターンです。
…そう、あげもの!
からあげを筆頭に、
とんかつ!
天ぷら!
アツアツのヤツをパクつけば、
それだけで幸せ!
そんな幸せを噛みしめるとでも言おうか!?
本作『あげものブルース』は、
あげものと、
それにまつわる人間模様を描いた作品です。
さて本作、
先ず、特徴的なのは「画」です。
最近の漫画は、
登場人物が10頭身くらいの漫画が多くなりました。
しかし、
手塚治虫の昔から、
いや、それ以前から、
漫画というものは「省略の美学」とでも言う様な様式美がありました。
ぶっちゃけ、
本作は、今の人が読むと、
絵が「下手」だと思われるかもしれません。
しかし、
絵が「下手」に見えても、
漫画としての「画」で見れば、本作は味があります。
話の内容さえ解れば、
別に、キャラが3頭身だろうが、
背景が、写真のトレースで無かろうが、
全く、支障は無いのです。
むしろ、
現在の、十把一絡げのその他大勢の画を見慣れた人間からすれば、
新鮮な感じを受けるかもしれません。
「画」として、味がある作品である上に、
本作は、
そのストーリーも超展開。
は?
なんでこんな所に着地するの?
と、思いつつも、
謎の感動と不思議な余韻が読後に得られます。
この読み味も、
作者の特徴なんですよね。
そう、
作者、本秀康は、
先ず、画が特徴的で、
ストーリーも予想外。
独特の読み味を持った作家と言えるのです。
作者、久しぶりの漫画作品ですが、
その読み味は、本作でも健在。
更に、
作品のテーマの一つとして、
「あげもの」が取り上げられている、
もう、
本作を読んだら、
意味不明で、からあげが食べたくなる事間違い無しです。
つまり本作では、舌でも読み味を感じる事にもなる!?
読んでいると、
あげものの味が口の中に広がる、
『あげものブルース』とは、そういった作品と言えるのかもしれません。
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『あげものブルース』のポイント
あげものが食べたくなり、あげものの味が口の中に広がる
意味不明の感動と超展開
食の思い出、末代まで忘れず
以下、内容に触れた感想となっております
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本作のテーマ
本作『あげものブルース』は、
その画と題名とは想像出来ない程の、
超展開と謎の感動のある作品です。
父の死にまつわる、息子の話である、
徳永秀夫の「かりんとう」というエピソードが中核を成し、
浜田の「とんかつ」と
杉山の「からあげ」
そして、徳永の「てんぷら」という、
あげものに纏わる脇のエピソードが、
特に関連が無いハズなのに、
何故か、読み終わると、全体としてまとまりのある様に感じてしまうという、
不思議な読後感があります。
何故、本作は、
別々のエピソードが、まとまりのある様に感じてしまうのでしょうか?
一見「あげもの」で統一されているから、
の、様な気がしますね。
題名の所為で。
それもあるでしょうが、
やはり、
格エピソードが共通している様に思うのは、
テーマが統一されているからだと思います。
本作のテーマは、
「人間万事塞翁が馬」です。
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食べ物の思い出と、恨み
本作の中核となっている「かりんとう」のエピソード。
それは、
意外性のある超展開ながら、
ある種の感動のある、本作を象徴するエピソードです。
後書きに書いてある通り、
おそらく、作者自身の父との関係、
そして、作者の音楽趣味により生まれたエピソードなのでしょう。
人は、
死にそうな病人だったとしても、
それが、
弱い人間だという訳では無い、
そういう事を、
ちょっとしてエピソードを交えて、描いています。
徳永秀夫の父、秀一郎は、
息子に、誕生日前日、
「かりんとう」をプレゼントされます。
甘い物は苦手なのに、
「食べたら、意外と美味い」と言った秀一郎。
そして、
息子は、父のその言葉を、何時までも覚えており、
父も、
その時の息子の様子を、最後まで覚えていたのですね。
こういう、些細な食のエピソードというものは、
意外と、何時までも忘れないものです。
実は私も、
父と「あげもの」に纏わるエピソードがあります。
ある日、父と私は、二人で天ぷら屋に定食を食べに行きました。
そこで、
天ぷらが5品(くらい)来るハズが、
私には4品しか来なかったんですよね。
父に聞いたら、
もう、5品来たとの事。
なので、
私は店員さんに、
「もう一品が、来てません」と言い、
持って来て貰ったんですよ。
お会計の後、
店を出て、父が笑いながら言うには、
実はなんと、
父の所に、6品来ていたとの事。
何故、
私が聞いた時に、正直に言わなかったのでしょうか?
これでは完全に、
私がクレーム客ではありませんか。
そして、
何故、
実は6品来ていたと、後から告白したのでしょうか?
黙っていれば良いのに、
なまじ、真実を言ってしまえば、
自分は笑い話にして、気持ち良く些細な罪を洗い流せたつもりでしょうが、
コチラとしては、釈然としません。
私が、4つしか食べられなくて、
自分が、6つ食べたから、
怒られるとでも思ったのでしょうか?
しかし、
私が、本来の5つ食べたから、
自分が一個多く食べた事を告白しても、
まぁ、良いだろうと、そう思ったのでしょうか?
完全に、
舐められてますね。
そう、
父にとっては、笑い話、
しかし、
私にとっては、苦い思い出。
これは、
完全に、本作の杉山の「からあげ」「続からあげ」のエピソードと同じなのです。
客観的に見れば、
たった2個のからあげに拘るなんて、
笑い話でしかありません。
でも、ケチケチしている訳では無いのです。
しかしそんな、
ほんの些細な事であっても、
理由の無い、突発的な理不尽さというものを、
人は受け入れる事が出来ないのです。
杉山は、
自分の心の中に何時までも残っていた、
そういう理不尽さを解消する為に、
ラストの行動を起こしてしまったのです。
他人から見ると、
全く意味不明だとしても、
杉山には、
れっきとした動機があったのですね。
しかし、
そこで、です。
対比されるのが、
浜田と徳永のあげものエピソードです。
この二人も、
杉山に絡んで、
ちょっとした、食の理不尽に出会っているのです。
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人間万事塞翁が馬、かどうかは、自分次第
浜田は、
自分の食べた味噌カツと、
隣の客の食べ残しのソースカツを食べ比べようと葛藤します。
その隣の客が、杉山でした。
徳永は、
学生時代に通った天ぷら屋に30年ぶりに行って、
好物の「アナゴの天ぷら」を頼んだのに、
間違った客に持って行かれます。
その客が、杉山です。
浜田は、
気まずい思いをする、
かと思いきや、
「友達いなくてよかった」と、
自分が早まらなくて、ホッとします。
友達と食べていたら、
ノリで他人の食べ残しを食べていたかもしれず、
自分一人だから、
羞恥心に負けて無茶しなかった、
その事に安堵しているのです。
そして、
この時の事が、
後々の、嫁さんとの「とんかつ」のエピソードにも繋がっています。
徳永は、
焼きたてのアナゴの天ぷらが食べられなくて、
ガッカリしますが、
しかしその事が、
思いもよらない「アナゴのおかわり」と「お礼の言葉」を受ける事になります。
そして、
30年前の謎も解けるのです。
どちらも、
些細な「食」のエピソードです。
しかし、二人の場合は、
それをどう受け取るかによって、
マイナスの要因のハズが、
最後には、ちょっと良い話になっているんですね。
「禍福はあざなえる縄のごとし」です。
杉山の場合も、
些細な食のエピソード。
しかし、
上司の「メシ」という言葉にすら反応して、
からあげが足りないという、「理不尽なやるせなさ」を思い出す始末。
しかし、
同じ拘るなら、
例えば、
後からからあげが足りない事を、弁当屋のオバチャンに納得させる様なトークスキルを磨く、
そういう切っ掛けとなる、
みたいな、プラスのエピソードにも出来たハズなのです。
全ては、
本人の受け止め方次第。
杉山の様に、
マイナスの状況で何時までも拘っていたら、
プラスの状況が来ないのですね。
杉山と、
浜田、徳永は、
それぞれ生き方が違っていても、
人生の幸せというものは、
自分の受け止め方次第で劇的に変わるのだと、
3人の対比にて、
本作は描いているのです。
そういう人間模様を描いているからこそ、
本作には謎の感動があると言えます。
私も、
天ぷらでの父とのエピソードで、
ただの、笑い話で済ませられたら、
それは良い思い出だったのかもしれません。
しかし現在、
それは苦い思い出として残っており、
それはそのまま、
父と私との関係性の象徴でもあります。
些細な物事をどう受け取るか?
それが、人間関係を左右し、
その後の人生の幸福を、もたらすのです。
特徴的な「画」と、
謎の感動と不思議な余韻をもたらす超展開のストーリーである『あげものブルース』。
この独特な読み味は、
「あげもの」に纏わるエピソードであるが故に、
味覚を想起し、 目だけでは無く、舌でも楽しむ事が出来る作品と言えます。
そして本作は、私にとっては、
極、個人的にも、身につまされるものがある物語であるのです。
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