月と地球との間に存在する「全天開放型軌道庭園」にて、地球に飛来する星を撃ち墜とす<スナイパー>。機械の眼球と繋がった脳内チップが演算を行い、迎撃砲台<トニトゥルス>が星を撃ち、墜とし、愛す。<スナイパー>の平均寿命は短く、17歳の霧原は遂に最年長となった、、、
著者は藍内友紀。
「スターダスト・レイン」が2017年の第5回ハヤカワSFコンテストにて最終候補となり、
改題して出版したのが本作『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』です。
題名を変えたのは作者の意思か?編集のアドバイスか?
しかし、この変えた題名が表している通り、本作は
ラノベです。
もともとSFとラノベはその境界が曖昧で、むしろジャンルが被っている部分が多いですが、
「SFじゃなきゃヤダ、ラノベは読みたくない」
という人は本作は読めないかもしれません。
星を撃ち、墜とし、愛し、<スナイパー>としての短い人生を全うせんとする霧原。
霧原が信頼し、自らを触らせる唯一の整備士・神条。
神条の書類上の妻であり、何らかの意図を持って霧原に接触して来たハヤト。
あくまで<スナイパー>としての自分に拘る霧原。
自分の信念を貫かんとする人間と、それを取り巻く周囲の状況を描く物語です。
読み易い文章なので、すんなりと物語を楽しめる。
『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』はそんな作品です。
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『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』のポイント
機械化少女のアイデンティティ
建前と本音に揺れる周囲の人間
読み易いのでとっつきがいい
以下、内容に触れた感想となっています
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ボクっ娘?それともノーマル?
『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』では、主人公の少女・霧島の一人称は「ボク」です。
彼女はボクっ娘なのか?
しかし、本作では女性が「ハヤト」と名乗っている通り、
男女の固有名詞が逆転しています。
なので、女性が「ボク」と言っても自然な世界なのかもしれませんね。
その中でも、重要人物の一人の「森田ヒカル」がどちらの性としても取れる名前にしてあるのは面白く感じました。
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見た事ない言葉がある、、、
トニトゥルスという、見慣れない言葉がありますね。
これはラテン語で、「雷・雷鳴」を表す「tonitrus」の事だと思われます。
電気エネルギーを「雷」になぞらえ、星を墜とす砲台の名前にしているんですね。
しかし、読了後も全く意味が分からないのが題名の「ましろ」の部分です。
「ましろ」で固有名詞?
「ましろの雨」で固有名詞?
もしかして、「まっしろ」を言い換えただけ?
私には理解出来ませんでした。
…しかし、名は体を表すといいますが、
わざわざ一目でラノベと分かる題名を考えたのは凄いですね。
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<スナイパー>と人間
本書『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』の主人公・霧原は、そのアイデンティティに<スナイパー>という立場(仕事)が大きく関わっています。
むしろ<スナイパー>達は、その教育や育成方法、信念や思考方法により、自らを「人間」を別の生き物と認識しています。
<スナイパー>の唯一の本分は星を撃つ事。
星を撃ち墜とせるという事は、星を愛しているという事。
そして、いつか星に殺されるか、星を撃ちながら死ぬ事が至上の喜びだという事。
ぶっちゃけ、洗脳教育が行き届いています。
<スナイパー>本人達は、その生き方に迷いを持っていません。
しかし、<スナイパー>を作り、依存する周りの「人間」は、自らの欺瞞を自覚しているが故に様々な反応を見せます。
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後ろめたい人間の反応
人間が、星を撃ち墜とす作業効率を上げる為に洗脳教育と改造で作り上げた存在である<スナイパー>。
彼等に対し人間は後ろめたい思いがあり、各自様々な反応を見せているのが本書の見所の一つです。
神条は霧原を何かと気に懸け、『小さな恋のメロディ』ばりに駆け落ちを図ります。
しかし、その好意は純粋なものか?
それとも憐れみか?
もしかして、自分がかつて携わった技術に対する執着、つまり偏執的な自己愛の表われなのかもしれません。
神条は、それらの要素を特に深く考えず、「霧原が気になる」という思いだけで行動すしています。
それに反し、より具体的に意図して行動しているのがハヤトです。
ハヤトの表面的な気に懸ける素振りは、霧原を観察するだけのものでした。
実験対象として、自らの技術に応える事が出来る存在か見極めていたのです。
ハヤトの思惑は、自らの有用性を誇示し、(元)夫の神条に自分を認めさせる事です。
霧原はその道具に過ぎないんですね。
ブリーフィングで泣き出すスタッフは、自分達の欺瞞にうろたえているだけ。
その罪を軽くしたいが為に、<スナイパー>に贖罪を懺悔して回りますが、本人達はそれを理解出来ないのでスルーしているんですね。
霧原と話をした子供を極端にしかる母親が中盤出て来ます。
こういう人いますよね。
子供に怒鳴りつける態で、実は近くに居る人間を威嚇する母親みたいな人。
人間の欺瞞により作り出した<スナイパー>。
それに興味を持つ子供に、
表面的には「迷惑が掛かるでしょ」と言いつつ、
本音では「臭い物には蓋をしたいんだ、スナイパーに興味を持つな、お前もとっととどっかに行けよ」と言っているんですね。
自分達の罪を自覚し、認めている人間も、勿論います。
神条の祖母は、人間に利用された<スナイパー>、そして神条を慮った霧原の行動に「ありがとう」との言葉を発しています。
上司の水野は「残念だ」との言葉に、その忸怩たる思いがにじんでいます。
人間が後ろめたい思いを持つ一方、<スナイパー>自身は洗脳の甲斐あって、自らの信念に疑いを持ちません。
この無反応がさらに人間側の罪悪感を煽り、
一方<スナイパー>はそれを理解出来ず、双方の認識に溝を生んでいるのです。
お互いの事を思っている風で発言していても、
本作の登場人物達の言葉の裏には、自己愛やアイデンティティへの強固な拘りがあります。
結局、お互いの思いをすりあわせる事よりも、
自己を主張した結果、接点を見つけて満足しているだけなんですね。
究極的には理解出来ないという哀しさがありますが、
それに嘆くよりも、互いの妥協点を見つけ、そこでかすかにでも寄り添っていくという方法を見つけるのも、人生においては確かに必要な事です。
そういう事を教えてくれる、
『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』はそんな作品だと思います。
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さて次回は、ラノベと思いきやSFの地平にいきなり踏み込んで来る、小説『最後にして最初のアイドル』について語ります。