エス・エフ小説『声の物語』クリスティーナ・ダルチャー(著)感想  ディストピアSF ミーツ 不倫小説!?出会うハズの無い二人が出会ってしまった!!


こんな事になるなんて、夢にも思わなかった。しかし、アメリカは変わってしまった。現大統領と、その顧問の政策の下、全ての女性は手首に「カウンター」を付けられ、一日100語以上喋ると、電気ショックという罰を受ける。クレジットカードも、パスポートもない。これが、現実なのだ、、、

 

 

 

 

著者はクリスティーナ・ダルチャー
理論言語学の博士号を持つ。
本作がデビュー長篇。

 

 

 

過去のSF名作、
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』。

『声の物語』は、
それらの系統に属する作品です。

その系統とは、

ディストピアSF。

 

「ディストピア」とは、
簡潔に言えば、ユートピアの逆の事です。

一見、平等で、平穏な世界に見えますが、
強力な中央集権により、
人間の尊厳より、ルールが重要視
表現が規制され、
規律に違反した者は、容赦なく粛正
無いハズの格差が厳然と存在し、
育児制限が行われたりする世界、

それが、ディストピアなのです。

 

SFでは、
割と人気のテーマであり、
古くから様々な作品が作られて来ました。

本作は、

女性を徹底的に抑圧する社会

 

が生まれたアメリカの話です。

 

一日100語の言語制限、
女性はクレジットカードも、パスポートも取り上げられ、

子供は、学校の授業にて、
キリスト教的な男性中心の社会こそ、安定した世界を作るのだと「教育」されてしまいます。

それはもう、

胸クソ悪くなる程の、
恐ろしい規制世界が描き出されます。

 

 

…しかし本作、「言語規制」という面を抜きにすれば、
実は、
50年前までの、
普通のアメリカ的な社会なんですよね。

映画『ビリーブ 未来への大逆転』にて、
その様子が描かれています。

 

そう、
本作は、
単なるSF作品と捨て置けるモノでは無いのです。

本当に、
こんな社会なんて、来るハズ無いと思いますか?

みんなそう言います。

しかし、

そんな社会が来るハズ無いと言った、
ドイツではナチスが勃興し、
アメリカではトランプが大統領になりました。

 

この歴史的な事実を鑑みるに、

本作で描かれる極端な社会を、
単なるフィクションとして切り捨てる事は出来ません。

 

…なのですが、

本作は、基本、ワンアイデアの作品。

ストーリーは、
ハッキリ言って微妙です。

 

前半はSFとして面白いですが、
後半は、別の物語になってしまっています。

その辺は、
著者の初めての長篇作品という事で、
大目に見た方がいいかもしれません。

 

とは言え、
そのディストピアSFとしてのテーマ性は一読に値する、
そういう価値のある『声の物語』です。

 

 

  • 『声の物語』のポイント

ディストピアSF

まさか、とは思わず、今、声を上げろ!

まさかの転調、後半は不倫小説

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 


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  • 今、声を上げる重要性

『声の物語』は、
女性が一日100語しか喋れないという恐怖の規制社会を描いたディストピアSFです。

ふーん、
極端だけど、面白いアイディアの、
如何にもフィクション的な設定だねぇ。

…などという感想を、一見すると持ってしまいがちです。

しかし、本作のテーマは、
その楽観主義に警鐘を鳴らす事が目的なのです。

 

まさかそんな、非道な事をするハズが無い。

そう思っている間に、
続々と恐怖を世界に撒き散らしたのが、ナチスドイツです。

まさか、この面白オジサンが、大統領になるハズ無い。

最後には、皆正気に戻るだろう。

そう思っている間に、
何故か、票を獲得して大統領まで登り詰めたのが、ドナルド・トランプです。

世の中、時として、
「まさか」が起こりえます。

その「まさか」が起こるのは何故か?

それは、
「起こるハズが無い」「誰かが止めるだろう」
そういう発想を誘発する、
圧倒的な無関心です。

しかし、
世の中に無関心で居る人間が多数派になると、

一部の過激派が、
徐々に社会を制圧してしまう。

そして、
気付いた時には、もう遅い

そういう状況に陥ってしまうのです。

 

そうならない為に何をすべきか?

本書では、主人公のジーンが、
回想の中での、旧友の台詞を回顧するシーンがあります。

(自由でいるためには、何をしなくちゃいけないか考えてみなよ)
そう、まずは手をこまねいているのをやめればよかったのかもしれない。

(p.27 より抜粋、赤字は抜粋者による色分け)

 

これこそ、本書のテーマであり、
本書にて伝えたかった事を、如実に表している部分なのです。

 

  • 不倫小説

本書は、
そういうディストピアを招かない為の警鐘を鳴らしたSFなのですが、

こういう「女性は一日100語という言語制限」みたいなワンアイデアの作品でありますので、

本来ならば、
短篇か中篇向きだと思われます。

そのワンアイディアを、
長篇としてどうまとめるか?

 

…なんと本作、
長篇としてまとめるのを放棄してしまっています。

ディストピアSFとして面白いのは、
起承転結の「起」「承」の部分まで。

なんと、続く「転」「結」のパートは、
別の趣の作品となっております。

端的に言うと、
SF小説から不倫小説へと変化しているのです。

 

本作は、
p.134 で張った伏線を、
p.240 で回収する形で、
「公共の飲み水に、脳に作用する物質を混入させる」
事を大統領一派が画策していると示唆されます。

我々読者は、
「そこまでするか」
と、憤りを感じ得ないのですが、

物語が盛り上がった所で、
唐突に、
本作は、ストーリーをまとめる事を放棄してしまいます。

物語はここから、
主人公のジーンが、
夫のパトリックか、
愛人のロレンツォか、どちらを選ぶのか?

みたいな話になってしまいます。

 

何のこっちゃ!?
と読んでいる我々は思いますが、

作者的には、一貫性がある、つもりなのかもしれません。

 

本作は、
女性の権利を制限するというディストピアを描いています。

そういう社会を到来させた大統領の顧問の有力者として、
キリスト教徒のカール・コービン牧師というキャラクターがいます。

彼は、
聖書の記述を独自に解釈し、
それを、統制社会の規範として利用します。

「女性は、男性の従う存在なのだ」と。

更に聖書に基づき、
同性愛者を矯正、粛正し、
社会の害悪として、排除します。

その流れで、
「汝、姦淫をする事なかれ」という聖書の記述により、
不倫も悪だと、
本作のディストピアの統制の一環として描かれます。

 

つまり本作の不倫は、
「聖書で批判されているから」
してはいけないもの
みたいな印象を読者に与えようとしているのです。

つまり、
女性の権利を侵害する事→悪
同性愛者を認めない狭量な社会→悪
不倫→悪

これを同列に扱っているのですね。

しかし、
キリスト教が一般に浸透していない日本であっても、
「不倫」という行為は時に厳しく批判されます。

特に女性側は
矢口真里や、ベッキーの様に。

 

不倫が批判されるのは、

「婚姻関係」という法律違反をしているという、公然の罵倒が許されるという精神的な優位感、

気持ちいい事しやがってという妬み嫉み、

普段はタブー視される性的なジャンルであるが故、
白日の下に晒された時の過剰な反応、

「不倫された方」の気持ちを考えない「不倫した方」に対し、
「された方」が被った精神的な苦痛に見合った苦しみを、
「した方」に与えるという野次馬的な義憤、etc…

などなど、
様々な要素、感情が絡み合い、
第三者が楽しむ格好の「ネタ」として、消費されてしまうからです。

 

本作は、
不倫で批判されがちになるのは女性側であり、
その状況こそ、
性差別だと訴えているのかもしれません。

 

そういう理論武装しながらも、
本作で描かれる不倫は、
享楽的な楽しみとしての側面も、ちゃんと描いているのです。

ジーンは、
優しくはあるが、それが故に惰弱であると夫のパトリックを批判し、

その代わりに、
ロレンツォの攻撃的な性向を、一々崇拝します。

なんと、
SFとしては、男性優位の状態を批判しながら、
不倫小説としては、男性的なマッチョ主義を推しているんですね。

そこに、
捻れた二面性が垣間見え、
本作を興味深い作品にしています。

 

本作のSF部分のテーマは、
「見てみぬフリをする事への危うさ」を訴える事です。

ジーンは学生時代、
友人のジャッキーの公民権運動に無関心だった事を悔いています。

そして、
現状を唯々諾々と享受している、
事なかれ主義のパトリックの様な態度こそ、
批判されるものなのだと描かれています。

本来ならば、
繋がらないハズのSFと不倫というテーマを、
この一点により繋げているのです。

 

SFとしては、
テーマ的、キャラクター的に、
パトリックを批判しつつ、

しかし、
不倫小説としては、
不倫をする側の本音もちゃんと描いています。

ジーンの本音とは、
何年も同じ相手とセックスするのに飽きたので、
指一本でイカせてくれるロレンツォのテクにメロメロだ、
というものです。

 

SF的にも、
性的にも無用となったパトリックは、

ラスト、
半ば投げやりに、
物語を閉める為に、ご都合主義的に殺されてしまいます

夫は死んだから、
心理的な後ろめたさからも解放され、
法的にも慰謝料が必要ない、
ワーイ!!

そしてジーンは、
子供達を連れて、
ロレンツォと共に故郷のイタリアで幸せに暮らしましたとさ。

終わり。

 

…なんだ、この展開は!?
お前は有川浩か!?

と、作者に言いたくなります。

(注:有川浩とは日本の小説家で、その諸作品は、途中でテーマとはズレた恋愛要素が発生する)

 

「不倫は文化」と発言したと報道され、
バッシングを受けた石田純一ですが、

この、言わんとしている事は、
不倫について多くを物語っていると思います。

不倫とは、
心理的抑圧、社会的制約によって
理性的に歯止めがかかっている反面、

性的にインモラルであるが故に、
エキサイティングなインスピレーションを与えます。

著者のクリスティーナ・ダルチャーは、
不倫擁護派なのですね。

私は個人的に、
不倫を擁護するかしないかの差は、

不倫(浮気)をした事あるか、ないかの差だと思います。

不倫擁護派は経験者、
結局は自己弁護なんですよね。

 

 

短篇SF向きのテーマを、
長篇としてどの様にまとめるか?

本作は、
途中へ変調し、
不倫小説として落すという、

斜め上の離れ業を使っているのですね。

 

とは言え、
SF部分の面白さに依存はありません。

特に、
社会に洗脳された息子スティーヴン、
そして、
言語から切り離されて育つ娘のソニア。

この二人とジーンとの関わりが面白かったです。

 

言語、思想、社会が、如何にして人間を規定するか。

それまでの社会から見ると、明らかにおかしい事でも、

それが当たり前だと教育されると、
それが今からの常識となる事の不気味さと恐怖を体現したスティーヴン。

言語と社会が人間を作るのなら、
それを規制された時、
人間性を喪失した存在となってしまうという焦燥を感じさせたソニア。

 

そういうSF部分のテーマの面白さを堪能しつつ、

不倫小説部分の、
色々な、まぁ、超展開も、
別の意味で楽しんでみたらいい、

『声の物語』は、そんな作品なのでしょうね。

 

 


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