創作のネタが尽きた小説家Tは、母の墓参を契機として自身の意欲の復活を望んでいた。母の墓のあるOに向かう電車の中で居眠りしたT。不思議な夢を見て、目覚めた社内に日本人は一人もいなかった、、、
著者は田中慎弥。
芥川賞受賞時の記者会見で気炎を吐き、一躍その名を知らしめる事になった。
著作に
『図書準備室』(「冷たい水の羊」にて新潮新人賞)
『切れた鎖』(「蛹」にて川端康成文学賞、「切れた鎖」にて三島由紀夫賞)
『犬と鴉』
『実験』
『共喰い』(「共喰い」にて芥川龍之介賞)
『夜蜘蛛』
『燃える家』
『美しい国への旅』等がある。
本作『宰相A』は、
ディストピア小説である。
現在とは「少しだけ」違う世界で、全体主義と管理社会の恐怖が描かれる。
戦後、アメリカに統治され、主権を回復する事なくかつての日本人は「旧日本人」として居留地に押し込められている。
雰囲気としては『一九八四』や『華氏451度』を彷彿とさせる。
とは言え、舞台は日本。
いかにも日本人的ないやらしさに溢れた、「全体主義」の恐怖が描かれる。
そう、小説という極端な形をとっているが、この作品で描かれている事は、実生活でも普通に見る事である。
いちいち心当たりのある事が描写され、「あ~、あるある」と思い当たる事しきりの『宰相A』。
作り話では終わらない社会描写がなされた作品である。
以下ネタバレあり
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飼い犬根性の醸成
本作『宰相A』はディストピア小説である。
ディストピアを簡単に言うと、
全体主義で管理社会。
洗脳国家で、文学や芸術の表現を規制している社会である。
舞台は日本、第二次大戦後、アメリカが統治し日本の主権が失われ、日本人とは占領民を示し、かつての日本人は「旧日本人」と呼ばれ「居留地」に押し込められた世界。
『宰相A』の日本では、占領民である「日本人」より「旧日本人」の方が数が多い。
しかし、「旧日本人」は敗戦の事実を引きずったままなのか、抵抗や反抗する事なく、被支配民としての立場を甘んじて受け入れている。
その「日本人」による「旧日本人」の支配にはいくつかの方法が採られている。
まずは、階級制。
「日本人」は「N・P」という個人認識パスを持っており、緑の制服を着込んでいる。
これの所持が権威と同等の価値を持つ事となる。
「N・P」は基本「日本人」しか持てない。
そして、「緑の制服」は高価であり「旧日本人」でも限られた人間しか購入出来ない。
それの所持が権威を纏う事と同義となる。
『宰相A』の世界では、「旧日本人」は「日本人」に反抗するより、
「緑の制服」を所持するか否かで「旧日本人」同士で対立し合う。
被支配民の中にさらに階級を設ける事で、不満を権力者に向かせない様にしている。
そして、外敵の設定。
日本は「旧日本人」の中から首相を選ぶ。
しかしそれは、「傀儡としての、象徴的存在」でしか無い。
その首相(本作ではAという名前、つまり題名の『宰相A』とは彼の事である)は定時に述べるのは戦意昂揚。
Aが言うには、日本はアメリカと手を取り、
「戦争主義的世界平和主義に基く平和的民主主義的戦争の帰結たる、
戦争及び民主主義が支配する完全なる国家主義的国家たる我が国によってもたらされるところの、」(以下略)(文庫版p.202より抜粋、改行は抜粋者による)
戦争を行っているのだ。
この外敵がいて、それを排除する為に戦っているという設定を作る事で、「一つの目標に一丸になって取り組む」という偽りの団結感を醸成している。
だから、自分の貧しい生活も何かの為になっており、いつかは報われる時が来ると、思い込まされているのだ。
また、「誰かをやっつける」というエネルギーを権力者から外敵へと逸らす役割も持っている。
そして、あるはずの無い希望。
本作『宰相A』では、「旧日本人」の居留地の中で救世主伝説が存在する。
それは、かつて「緑の制服」を着ることを拒んだ「J」という男の生まれ変わりの様なソックリさんが「救い」として現れ、「旧日本人」を支配から解放するというものである。
だが、これは作中でも指摘された通りに、都合の良い創作に見える。
しかも、支配者側が作ったものであると私は感じる。
つまり、「絶対あり得ない事」を救世主伝説として流布する事で、それに縋った「旧日本人」が自主的に蜂起する事を防ごうとする意図が見られるのだ。
もっとも、本作『宰相A』においてはその「あり得ない」ハズの設定が起きてしまった所から始まるのだが。
これは支配者側(「日本人」)からすれば完全に想定の範囲外の出来事であっただろう。
だから、その設定を逆に「旧日本人」に利用される前に、迅速に武力行使に踏み切ったものと思われる。
本作の「旧日本人」は、兎に角徹底的に管理・統制されている印象である。
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権威の象徴たる制服
『宰相A』では権威の象徴として「制服」がある。
人は、権威を笠に着ると、自身がその権威そのものになったと錯覚し、自ら個人の責任を放棄しつつ、権力のみを行使しようとする。
「権威」という個人より大きな物に自分が所属しているという感覚で、自身が大物になったと錯覚してしまうのだ。
分かり易い例えはナチスの将校である。
彼等は国家の命令に従ったと言い訳しつつ、虐殺を行った。
そして、それを行う上で、目に見える形で分かり易いのが「制服の着用」である。
この「制服」を着ている者には権力の後ろ盾があるよ、と一目で分かる。
説明を省いているのだ。
警察(の制服)を見れば、問答無用で卑屈になる人も多いだろう。
「権威=制服」を着用する事は、自らがより大きなものの一部だと認識し、それによる安心感と自信をも纏う事なのだ。
『宰相A』では、この権威主義を極端な形で描いているが、普通の社会でも同様な事は起こっている。
例えば、幹部候補の新卒エリートが、現場を支える叩き上げの監督に見当外れの命令を連発したりする場合。
監督からしたら、言う通りにしても、無視しても自分が詰め腹を切らされる一方、
幹部候補は成功したら自分の手柄、失敗したら監督の所為と臆面も無く言ってのけるのだ。
これも、会社という権力の後ろ盾があればこその非道である。
もっとも、会社お墨付きの若い権力者が古い職人を切って、結果それが会社が傾く第一歩になる、というのはよくある話なのだが。
本作『宰相A』は、ディストピアという作り話である。
だが、その世界観を作っているリアリティは、現在の日本人と日本社会がベースとなっている。
確かに今はフィクションである。
しかし、もしかすると、これは近い未来に現出する日本の姿かもしれない。
そういう恐ろしさが『宰相A』にはあるのだ。
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さて次回は、オタクの聖地が激変する恐ろしさ!?小説『中野ブロードウェイ脱出ゲーム』について語りたい。