エス・エフ小説『絞首台の黙示録』神林長平(著)感想  アンタ誰!?というか、私、誰??

 

 

 

おれは今日、処刑される。死刑判決を受け、その執行日が今日なのだ。手足を縛られ、刑務官に連れられて首に縄がかけられる。だが、おれは死にたくない、この意識を消さないようにせねばならない。首が吊られ落ちる瞬間、おれはそれを外から眺めていた、、、

 

 

 

 

著者は神林長平。
大変息の長い、骨太のSF作家。
代表作に、
『あなたの魂に安らぎあれ』
「敵は海賊」シリーズ
『戦闘妖精・雪風(改)』
『ルナティカン』
『ライトジーンの遺産』
『いま、集合的無意識を、』等、多数がある。

 

 

正にSF作家。

著者、神林長平はそういうイメージです。

書く作品は兎に角SF。
そういう印象があります。

そして、本作もSFと言えますが、
いわゆる

スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)というヤツです。

 

SFにおけるスペキュレイティブ・フィクションとは、簡単に言うと、
「浅薄なエンタテインメント」という謗りに対抗する形で、

物語に哲学的要素を加え、一般的なイメージの打破を図ったものです。

 

この作品に当てはめてザックリ言うと、

形而上的な口喧嘩、です。

 

父親が契約している葬儀社から、行方不明の知らせを受けた、伊郷工(いさとたくみ)。

彼は父の様子を見に実家に行きます。

父は留守ですが、夜遅く、自分とソックリの顔の男が「家に帰って」きます。

お前は誰だ?
工は尋ねますが、その男は自分の事を工(たくみ)だと言います。

は?意味が分からない、工は僕だ、
もしかしてお前は、僕の死んだ双子の兄の文(たくみ)なのか?

いや、俺は工だ、
そして、処刑されたのだ、
と男は言います、、、

もう、最初から訳が分からない。

 

こんな感じで、

イカレたディスコミュニケーションが延々と続いて行きます。

 

そして、不思議なのが、コレが意外と面白い。

カフカ的悪夢というか、
デイヴィッド・リンチ的な迷宮世界というか、、、

読んでいる内に、
次々と常識が覆る様な感覚が、目眩く襲って来ます。

 

メタフィクションが好きな人も、
ミステリが好きな人も、
そして勿論、SFが好きな人も、
誰が読んでも頭を抱えてしまう、そんな面白さがあるのが、本書『絞首台の黙示録』です。

 

 

  • 『絞首台の黙示録』のポイント

覆される常識、揺らぐ現実感

一人称が移動し、語られる会話劇

言っている事の何が本当の事なのか分からない不安感

 

 

以下、内容に触れた感想となっております。

 


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  • 揺らぐ現実感、想起される不安感

本作『絞首台の黙示録』は、
「こういう設定なのね」という、作中で提示された条件が、
読み進めると次々とちゃぶ台返しされて行きます

このひねくれ具合が、本作の魅力であり、ストレスの部分でもあります。

読書をする時、
読者はどうしても主人公に感情移入する事で、物語に没入して行きます

しかし、その主人公が「信用出来ない語り手だったら?」
読者の(作品世界に対する)現実感が揺らいでしまいます

ミステリやメタフィクションでは度々見られる手法ですが、
本作ではそれが10ページ毎に立ち現れるのでめまいがするのです。

最初は、訪問者・工(たくみ)の言葉に、
「コイツ何を言っているんだ?」とイライラしてきますが、
これが読み進めると、段々、
「あれ?もしかして、私の認識=主人公・工(たくみ)の方がおかしいのか?」という疑惑が湧いて来ます。

この、読書により、読者の自己認識に不安感を与えるという手法は、強烈なメタであり、
フィクションという隔離された場所から、安全なハズの現実世界に触手が伸びて来る様な不安感が喚起されます。

 

本作ではそれを、
設定の転覆(前後の整合性の無さ)、
情報の小出し(最初から設定を披露しない)、
そして、一人称の語り手を次々に移り変わらせる事で、何度も読者を幻惑しているのです。

 

  • まとめられるのか、、、?

では、私が解釈した形で、この作品を解説してみたいと思います。

因みに、本書にはとても面白い解説が巻末に付されています。

大変個性的で、読んで面白いですが、私の認識とは少し違うという事、
又、個人の感想なので、間違いのある可能性もご考慮下さい。

 

*以下、内容に触れたネタバレ解説となっています。

 

:まず、俺(A)が処刑されます。

:次に出てくるのは作家・伊郷工(たくみ)。
父、失踪の報を受け、帰った実家にて自分と同じ顔の訪問者、工(たくみ)と出会います。

彼は、工であり、処刑された俺(A)であると言います。

さらに会話する内に、工の父、伊郷由史(よしふみ)の息子と言い、

義両親を、殺害した
→職場のみんなを殺した
→自分は邨江清司(むらえきよし)という研究員だ
→職場の研究は、クローン研究だった

と設定が二転三転し、訳が分からなくなって来ます。

:訪問者・工=邨江清司(?)は、教誨師に出会えば自分の主張が裏付けられると言うので、
翌日、二人は作家・工の車で、教誨師の後上明生に会いに行くきます。

:教誨師とは殆どボランティア。保育園が本業といえる後上明生(こうがみあきお)と会ったのだが、邨江清司(?)の知っている人間とは別人。
邨江清司(?)を担当した教誨師は実は彼の息子、後上明正(こうがみメイセイ)でした。

:後上明正と邨江清司(?)の対話にて、
邨江清司(?)は邨江清司と確定する。
そして、彼の殺人の真の動機は、殺される事自体が目的だったのです。

:後上明正によれば、父は既に死去しているという。
しかし、違う場面で、作家・伊郷工はその後上明生と会話しています。

作家・伊郷工は後上明正と邨江清司の会話を聞きに行くが、二人はいない。
ならば、もう自分には関係無いと言い、伊郷工は一人で父の実家へ向けて帰る。

その途中、父の死の報が入る。

:後上明正と邨江清司は、誰かがドアを開けている事に気付いたが、伊郷工には気付いていない。

さらに、邨江清司の真の目的とは、
自意識の転写」であった。

「一人の人間の意識というのは、その人、一人のものでできているわけではないんだよ。身体を殺害しても環境には意識の一部が残る。」(文庫版 p.341より抜粋)

人間は個人のみならず、その置かれた環境によって成り立っているという概念です。

邨江清司は、その環境そのものに自分を移す事で、「自意識」の存続を図ったのです。

そして、邨江清司が転写した環境は、
処刑の市民立会人となった伊郷由史であった。

いわば、伊郷由史は邨江清司に憑依されており、
邨江清司が環境に及ぼす力で、周囲の認識すら変化させていたのです。

:結局、作家・伊郷工や後上明生は、邨江清司の物語に都合が良い登場人物として「認識」され創造された存在であろうと、
後上明正と伊郷由史は結論付けます。

後上明正と伊郷由史は「やぶ蛇」にならぬよう、深く追求しないでおこく事にします。

伊郷由史は邨江清司を転写された状態ではありつつも、その内なんとかなるだろうと帰宅します。

 

簡単にはまとまりませんでしたが、こんな感じだと思います。

頭がこんぐらがりそうですが、
結局は、邨江清司の謎パワーで意識を転写するも、
自分でもその状況をちゃんと理解していなかったから、
他人との対話にて、自意識を再確保していった。

その過程で、対話によって、登場人物が相互に影響を与え合った為に、
話(存在)が二転三転してややこしくなったんですね。

(後上明正と伊郷由史のみ、作中で生きている人物と思われます。つまり、二人以外は、対話で存在自体変化するのです)

特に、伊郷工が主人公目線であり、
設定が最初に詳しく述べられた人物=感情移入しやすい人物、
であった為に、それが混乱の第一歩だったのです。

 

  • 解説にて思う事

本書は東浩紀氏の巻末解説が面白く、読み応えがあります。

しかし、面白い事と納得出来る事はまた別なので、少し、私個人の意見を言ってみたいと思います。

東浩紀氏は、三人称目線はゲーム独特のものであるかの様に語っていますが、
氏の言う「ゲーム的三人称目線」はスポーツの中継においては普通に見られるカメラ位置です。

特に、テニス、
そして、野球のバックネット目線なんかを思い浮かべてくれたら分かり易いと思います。

スポーツ中継には普通にあるもの、
つまり、
観客が見た時に、
状況が分かり易く、
臨場感があり、
且つ没入感が最もある目線
が、
少し上から見た三人称目線なのです。

この、目線を移している「カメラマン」を「もうひとりのもうひとりのわたし」と、
わざわざ事実を複雑化して語る必要が、
しかも、それがゲーム特有のものであるかの様に言う必要があったのかな?と思います。

でも、仰っている事が面白いのは確かです。

現に今、こうやって反論を語る事が出来る事自体が、優れた意見の証左であるんですね。

 

 

冒頭の臨場感のある処刑シーンからの、
延々に続く会話劇によるメタフィクション。

果たして、これはどうなってしまうのか?
と不安にさせつつも、
クライマックスでは(突拍子も無いが)ちゃんとオチを付けてくれた事でスッキリします。

ほとほとよく練られた、職人芸の様な構成にため息が出る。

そんなジグソーパズルの様な作品、
『絞首台の黙示録』は解説まで楽しめて、大変お得な作品と言えるでしょう。

 

*作者・神林長平の代表作といったら、コレ

 


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