13世紀末、シンガールの王女パドマーワティは、メーワール王国の王、ラタン・シンの妃となった。時を同じくして、数々の裏切りを重ね、スルタンとなった男アラーウッディーン。彼は、武力を恃みに覇道を行くが、パドマーワティの美貌の噂を聞きつけ、、、
監督はサンジャイ・リーラ・バンサーリー。
1963年生まれ。
インド映画界の巨匠と言われているそうです。
監督作に
『Black』(2005)
『Guzaarish』(2010)
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』(2013)等がある。
原作は、マリク・ムハンマド・ジャーヤシーが1504年に著したと言われる叙事詩、
『パドマーワト』。
出演は
パドマーワティ:ディーピカー・パードゥコーン
アラーウッディーン・ハルジー:ランヴィール・シン
ラタン・シン:シャーヒド・カプール 他
今の若者はどうなのか、存じ上げませんが、
私の学生時代、高校生の時は、
専攻科目という名目で、
日本史か世界史の、どちらかを選ぶ必要がありました。
私は、
世界史を選んだのですが、
割合としては、
1:3で、日本史専攻の方が多かった印象です。
思えば、私が後に、
プレステよりも、サターン、
携帯電話よりも、PHSを選んだのも、
この頃のから、
何処か、判官贔屓というか、
逆張り傾向があったのかもしれません。
それはともかく、
世界史の授業で、
「ラージプト族」という言葉を習った事を覚えています。
まぁ、習ったという事を覚えているだけで、
どんな事を学んだかは、覚えてないんですがね!!
そのラージプート族の、
小国ながら、精強を誇るメーワール王国に、
イスラム教国の王、スルタンが攻め入ったという歴史的な事実を、
愛と欲望を絡めた物語として脚色し、描いたのが、
『パドマーワト』と言われています。
本作『パドマーワト 女神の誕生』は、
その、インドで国民的な人気を誇る叙事詩を映画化した作品です。
本作は先ず、
映画が開始されて、
物語が始まるまで、5分位かかります。
映画自体に、ある種の重厚さがあって、
どっしりとした土俵入りをしており、
そして、
オープニングクレジット形式を採用しており、
さらに、
映画の前に、
動物愛護の説明や、
特定の歴史、宗教、民族、信条などを批判する意図は無い、
などの、
説明文が入るからです。
ある意味、
もったいぶった入り方をしますが、
それもそのはず、
本作は、
重厚な印象を持つ歴史大作です。
(フィクションというカテゴリーでの「時代劇」という意味での歴史大作という意味です)
インド映画と言えば、
硬軟併せ持つ、
シリアスな面とコメディチックな面の、
両輪で物語が進む印象があります。
しかし本作はと言えば、
豪華絢爛な衣装、舞台、
重厚なストーリー、
愛と欲望というテーマ性により、
作品は、
真面目一徹な作りとなっております。
この辺りは、
いつもの「ボリウッド映画」を期待すると、
ちょっと意外な印象を受けるでしょう。
勿論、
それでいて、本作の面白さが損なわれている訳ではありません。
むしろ、
より、テーマ性を際立たせる意味において、
シリアス方面に寄せた作りにしたのは、
成功と言えるでしょう。
その本作のテーマはと言うと、
愛と欲望と誇りの物語。
本作は、
確かに叙事詩というフィクションではありますが、
何世紀にも亘って、
人の心を掴み続けてきたのは、
そういう、
人間の根源的な生の物語だからなのです。
豪華絢爛で、重厚な大作、
インド映画は、シリアスもイケる、
『パドマーワト 女神の誕生』は、それを証明しています。
*本作は、インド映画で期待される「群舞」のシーンも、
2回しかありません。
とは言え、
その2回のクオリティが高い。
その2回の内の一つ、
「グーマル」のダンスがYouTube で観られます。
66回も回転したというスカートのヒラヒラ、
そして、
手の先にまで神経が行き届いた細かい動きの表現に注目です。
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『パドマーワト 女神の誕生』のポイント
重厚な叙事詩
豪華絢爛な衣装、舞台
愛と欲望と誇り
以下、内容に触れた感想となっております
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屈するか、誇りを貫くか
『パドマーワト 女神の誕生』は、
愛と欲望と誇りの物語です。
パドマーワティとラタン・シンの愛の物語であり、
アラーウッディーンの歪んだ愛の形であり、
あくまで、
誇りと義に殉じる者の滅びの物語でもあります。
原作の叙事詩「パドマーワト」が、
何故、これ程永きに亘って人気を博したのかと言うと、
それは、
あくまでも正々堂々と勝負するラタン・シンの義と、
敗北よりも、死を選ぶパドマーワティの選択に、
人々は心を打たれるからです。
乗り気では無い時に、
友達に、遊びに行こうと言われたら、どうしますか?
あなたは断りますか?
その相手が、『サザエさん』の中島だったら、
野球に行くのを断るのも容易でしょう。
しかし、
その相手が、ジャイアンだったら、どうしますか?
リサイタルに行きますか?
その相手が、上司だったら、どうしますか?
『半沢直樹』の大和田暁なら?
香川照之を無碍に出来ますか?
その相手が、安倍晋三なら、どうしますか?
忖度しないなんて、考えられますか?
その相手が、トランプ大統領なら、どうしますか?
オレ様相手に、おもてなしをせずに、居られますか?
その相手が、「アベンジャーズ」の敵役サノスだったら、どうしますか?
生き物半分殺すから、手を貸せ、
生きる方と死ぬ方どっちになりたいかと問われたら? etc…
人は、生きている中で、
自分の意に添わぬ事も、しなければならない時が来ます。
多少の事なら、我慢出来るでしょう。
しかし、
自分の命が懸かっている時に、
相手に「NO」と、果たして言えるでしょうか?
もし、
相手に屈服し、誇りを捨てさえすれば、
生きて居られるとなれば、
どうしますか?
実際は、
殆どの人間が、
プライドを捨てて、屈服しているのです。
金銭の為、
家族の為、
或いは、国家存続の為 etc…
人は、色々な理由を言い訳にして、
楽な道を選んでしまいがちです。
だからこそ、
「理」よりも「情」を選ぶ、
自分達の出来ない選択をする、
パドマーワティ達の誇りに、否が応でも惹かれるのです。
武力と理でもって、
ラタン・シンの「義」を、
アラーウッディーンは破ります。
しかし、
パドマーワティの「誇り」は、
アラーウッディーンに勝利をもたらす事を良しとせず、
自らどころか、
国家毎の自殺により、
アラーウッディーンの目的達成を妨げます。
自らが死しても、
相手の勝利を阻む。
これは、
ゲーム理論などから考えられる「理」では無く、
単なる「情」の「意地」であるとも言えます。
現代は、
力ある者が、弱き者を屈服させる事で成り立った社会であると言えます。
何故、それがまかり通るのか。
それは、
弱き者が、反抗しないからなのです。
人は、保身の為に、
誇りより、屈服を選ぶ、
そういう「理屈」のもと、
強者は弱者を屈服させます。
しかし、
弱いとしても、反抗する事が分かっていれば、
強い者も、手出しは容易ではないと、思い知るでしょう。
確かに、
反抗の行き着く先は、
敗北、死です。
本作の如くに、
絶対の拒否を表明する事は、
現実には難しいでしょう。
それでも、
心の中に、
いざという時は、誇りの為に死をも厭わない、
そういう覚悟の心意気を懐刀として身に付ける事が、
生きて行くには必要なのかもしれません。
悲劇と解っていても、
選択する勇気を持て。
その困難を成すからこそ、
『パドマーワト』は永く愛された叙事詩をして残っており、
その映画化である本作
『パドマーワト 女神の誕生』でも、
その心意気を確と描き、促しているのではないでしょうか。
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