崩壊したフランス、パリにて、ユーロネルフの遺産を発掘せんとする「ヴィレ」のメンバー達。
一方、アスカ、レイ(仮称)、そして心を閉ざしたシンジらの3人は、とある村に辿り着く。
そこは、ニアサーを生き延びた者達が作った集落だった、、、
総監督は、庵野秀明。
TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~96)の監督。
劇場版は、
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(1997)
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)
そして、
今回の完結篇は、8年ぶりのエヴァンゲリオン。
実写映画の『シン・ゴジラ』(2016)の監督でもある。
声の出演は、
碇シンジ:緒方恵美
アヤナミレイ(仮称):林原めぐみ
式波・アスカ・ラングレー:宮村優子
真希波・マリ・イラストリアス:坂本真綾
葛城ミサト:三石琴乃
赤木リツコ:山口由里子
渚カヲル:石田彰
冬月コウゾウ:清川元夢
碇ゲンドウ:立木文彦
?:神木隆之介 他
TVシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』が公開されたのは、1995年。
私が初めてエヴァを観たのは、
1996年、『~シト新生』の公開直前、
深夜の連続再放送の時でした。
それ以来、ドはまりして、
ローソンのエヴァコラボにお金をつぎ込んだり、
綾波レイのフィギュアを買い集めたり、
熱に浮かされている時期があったり、
冷めて、殆ど忘れている時期もあったりして、
気付けば、もう25周年。
遂に、エヴァンゲリオンが完結します。(24年振り、3度目)
…毎回、エヴァンゲリオンに恒例の、
英語の副題、今回は「THRICE UPON A TIME」。
グーグル翻訳によると、「一度に3回」という事。
つまり「エヴァンゲリオン」という一つのコンテンツが、
3度目の完結を迎えるという事なのでしょう。
まぁ、それはそれとして、
今回の新劇場版の完結篇の感想です。
「序」はある意味、予定調和。
「破」では、ド派手に生まれ変わり、
「Q」では、また、TVシリーズ後半を想起させるような鬱展開が再生し、
さて、
では今回の「シン」は、一体どうなってしまうのか?
私の感想は、
みんな、大人になったんだなぁ…
堪っていた想いが溶けて行くかの様に、
そう、感じました。
それは、
登場人物も、
作っているスタッフも、
そして、鑑賞する、ファンも、
みんなそうなんだ、という事なのです。
少年の葛藤を中心としたSF要素満載のストーリーに、
衒学趣味をまぶし、
キャッチーなバトルシーンも交えつつ、
後半は、次第に追い詰められて、
何が何やら解らないままに終わってしまった「TVシリーズ」。
「訳分かんねぇ!!」
と、言う視聴者のリクエストに応えると思いきや、
予想の斜め上を穿ってきた、
病的な描写をかましてくれた「旧劇場版」。
そして今回は、
どう着地したのかと言いますと、
「旧劇」の雰囲気を残しつつ、
「新劇」らしい終わり方をしたな、
と思いました。
一見さんには、サッパリの内容。
しかし、
今までシリーズを追いかけて来た人なら、
ああ、そうなのね、と思うでしょう。
長い旅路を経て、
とうとう終わった、エヴァンゲリオン。
私は、安堵のため息を吐いて、
感慨無量の気持ちでした。
兎に角、
観に行けよ、行けばわかるさ!!
-
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のポイント
みんな、大人になった
長い旅路の終了
そんな終わり方!?
以下、内容に触れた感想となっております
鑑賞を前提として語った部分であり、ガッツリネタバレが含まれておりますので、ご注意下さい
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大人になったなぁ
「エヴァンゲリオン」を鑑賞した人が思うことの一つに、
庵野秀明総監督は、
自分を、登場人物の、誰に投影しているのか?という事があります。
ある人は、碇シンジと言い、
ある人は、碇ゲンドウだろ?と言います。
今回、
その論争に終止符が打たれました。
どっちもだった!!
シンジが感じていた、父への憎悪を恐怖と拒絶は、
そのまま、
ゲンドウが感じていた、息子への感情そのものだったというのです。
本作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』においては、
そのゲンドウの感情が、
なんと、長台詞で、
滔々と、懇切丁寧に解説してくれるのです。
いや~、解り易い!!
元々、
「TVシリーズ」や「旧劇」のエヴァンゲリオンでは、
謎を謎のまま投げっぱなしで、
鑑賞者の想像と考察にお任せするという部分があり、
その不親切さが、
逆に、ファンの妄想と空想をかき立て、心を鷲づかみにしました。
しかし、「新劇」では、
より、鑑賞者に解り易い描写を心掛けており、
ウジウジした鬱展開より、より感情移入して盛り上がれる熱い展開を繰り広げてきました。
それが急転直下したのが、
「新劇」の「Q」です。
「Q」では、
「TVシリーズ」や「旧劇」の頃に先祖返りしたかの様な作りになっており、
突然、14年時間が経っており、
知らない人に囲まれ、
世界に何があったのか解らないまま、罵られ、
碇シンジと共に、
鑑賞者も「???」と困惑しきりでした。
何故、こんな事になったのか?
一説によると、
それは、2011年の「東日本大震災」が影響していると言われていますが、
それはまた別の話。
さて、そんな疑問だらけの「Q」の世界観を継承する「シン」ですが、
何と、本作、
序盤の「ニアサーを生き延びた者達の集落(村)」の描写を通して、
懇切丁寧に、世界崩壊後のエヴァ世界を説明してくれるのです。
また、「村」のシーンは、
観客の日常に近く、
そして、「復興」に勤しむ人々の描写は感情移入しやすく、
ままならぬ普段の生活に喘ぐ我々にも、理解しやすい導入部となっています。
そこに、
シンジの同級生(トウジ、ケンスケ、ヒカリ)を配置しているのは、
より、シンジ君にも、鑑賞者にも、馴染みがあり、親切な感じがします。
本作にはそういう、
主に「Q」で放ったままで回収されずに残されていた困惑や疑問に対する解答、
その説明シーンが数多く挿入され、
ちゃんと、鑑賞者が感情移入出来る余地も、用意されているのです。
その極致が、
ゲンドウの独白であるのです。
体が子供のまま、心だけ大人になってしまったアスカ。
そして、シンジも、
エヴァに乗り続けると、そうなってしまうといいます。
それと対象的なのが、
体は大人ですが、
正に、子供のシンジと感情(メンタル強度)が「生き写し」であるゲンドウ。
本作では、
アヤナミレイ(仮称)とミサトの想いを受け継ぎ、
妙に達観してしまったシンジが、
逆に、父親を導くようにして、
ゲンドウの感情を吐露させ、
彼の、精神的な成長(大人化)を促すのです。
「大人になれ」と、シンジの訴えていたゲンドウは、
実は、
自分自身に言っていた台詞だったんですね。
親子の立場が逆転しますが、
しかし、
シンジもゲンドウも畢竟、庵野秀明であるとするならば、
それは、結局、合わせ鏡の様に、二人とも大人の階段を上ったのだなぁ、と思います。
実際、
「旧劇」のサードインパクトと、
「シン」でのアナザーインパクトの展開自体は酷似していますが、
シンジ(とゲンドウ)のメンタルの違い、
狂っていた「旧劇」と、
しっかりと大人として覚悟を決めていた「シン」では、
同じ展開でも、結果が全く違うのが、
面白い所です。
まぁ、
肉弾戦で優位に立ったゲンドウが、
調子に乗って精神戦に移行した途端、
シンジに逆転を許したのは、笑えましたが!
他にも、
まるで、別れた恋人の様な関係性のシンジとアスカもポイントです。
「君のことが、好きだったよ」とお互い言い合うなんて、まるで、
仲が良かった恋人が、
喧嘩して気まずくなって別れたけれど、
久しぶりに出会ったら、
互いに、探り合いながら、適度な距離感を保ちつつ、和やかに会話する、
みたいな、
相手の事を思いやりながら会話出来るなんて、
「ユニゾン」とか「オナニー」とかしてた子供が、
大人になったんだなぁと、感慨深いですねぇ。
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ミサトとゲンドウ
そして、葛城ミサトさん。
母親になった彼女ですが、
その、息子に対する接しかたが、
まるで、ゲンドウのシンジへの接し方そのもの、
ATフィールド全開なのが、何とも言えない気持ちになります。
ゲンドウが、
レイに、妻のユイを投影していたように、
ミサトは、
シンジに、息子のリョウジを投影し、
シンジに感情移入し、
彼を守る事を、自分の母親としての使命とします。
親は、子供がいるからこそ、「親(大人)」になる事ができます。
ヴンダーの艦長として「ヴィレ」を率いるミサトは、
まるで、かつてのゲンドウのような冷徹さ纏っていますが、
シンジの前だけでのみ、
かつての優しさを垣間見せる不器用さが、
彼女なりの母親像=大人化として描かれています。
さらには、本作では、
ミサトとシンジの親子関係が複雑に絡み合っています。
「TVシリーズ」「旧劇」では、
ミサトは、南極のセカンドインパクトの生き残りであり、
その時、父親を亡くし、
その仇討ちとして、ネルフにて使徒殲滅に執念を燃やしていた、という設定でした。
しかし、本作では、違います。
ミサトの父親の葛城博士は、「人類補完計画」のたたき台を提唱した人物であり、
ゲンドウは、その博士の意思を継いだとのたまいます。
そして、ミサトは、
そんな父の落とし前をつけるのは自分だと意気込んでいるのです。
また、
「TVシリーズ」「旧劇」は、母性の物語でした。
「エヴァンゲリオン」には、
搭乗者の母親の魂が込められている、という様な描写があり、
初号機は、母としてシンジを守り、
アスカは、弐号機に母の面影を見つけます。
一方「新劇」は、そういう設定を廃し、
どちらかというと、父性の物語にフォーカスを当てています。
要所でシンジとゲンドウの物語を挟み、
ミサトも、シンジの保護者(母性)というより、
「ヴンダー」の艦長として、司令官=ゲンドウ化(父性)しています。
よって、「TVシリーズ」「旧劇」「新劇」は、同じような展開を描きつつも、
「母性」を求め合う物語から、
今回の「シン」は、
「父性」に張り合う物語へと変化しています。
同じエディプスコンプレックスを描きながら、
フォーカスする場所を変えることで、
微妙に違った物語に成っているのが面白い所です。
葛城博士の遺志を継いだゲンドウ、
それを止めんとするミサトは、
まるでゲンドウ化とも言える存在になっています。
しかし、
父性を発揮するミサトは、
土壇場において、シンジには母性を与え、
それにより、
自らの父=それを受け継いだゲンドウを倒すのです。
「エヴァには乗らんといて下さいよ」と言い、
シンジに友好的に、優しく接していたトウジの妹の鈴原サクラが、
実はシンジを恨んでおり、
逆に、
「もう、何もしないで」と、
シンジを突き放していたミサトが、
実は、父性の下に隠した母性故の言葉だったと判明するシーンは、
興味深いですよね。
親子二代の物語、
そして、
父性と母性の絡まり合った関係性が、
ミサトとシンジ(とゲンドウ)には存在するのです。
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綾波と式波
エヴァンゲリオンの二大ヒロインと言えば、
綾波とアスカです。
太古の昔から、
綾波派とアスカ派に別れて醜い争いが繰り広げられてきました。
さて、綾波と言えば、
「TVシリーズ」から「新劇」まで、
替えのきくクローン人造人間として描かれているのは共通ですが、
今回、
何とアスカもまた、
オリジナルから作られた「代替」である事が示唆されます。
この設定は、
エヴァンゲリオンに、搭乗者(=チルドレン)の母親の魂を込めているという設定を廃した事による変更点の一端だと思われます。
つまり、
初号機のみは、ユイの魂が込められているので、
それを稼働させる為に(ガフの扉を開く為に)、シンジが必要であり、
そのシンジが、エヴァに搭乗する動機付けとして、
シンジに対するヒロインとして、
母親似のレイを、
そのレイの引き立て役として、
もう一人のライバルヒロインとして、アスカを仕組んでいるのが、
「新劇」の設定なのです。
アスカの台詞から察するに、
まるで、帰巣本能の様に、
レイは、シンジに好意を抱くという風に、プログラミングされているのだと言います。
そしてそれは、
アスカ自身にも言える事なのでしょう。
しかし、
綾波シリーズと式波シリーズとでは、
そのシンジに対する人間関係の運用が違うらしく、
徹底管理された箱入り娘的存在であるレイに比べ、
アスカは、
より自立した人間に近い、逞しさと自我を備えています。
大量生産の引き出しの中から、順番に「一体」取り出す綾波シリーズのレイと違って、
式波シリーズのアスカは、
どうやら、
まるで古代中国の「蠱毒」の様に、
式波シリーズ間でのバトルロイヤルを勝ち抜いた存在である様なのです。
故にアスカは、
シンジやゲンドウ、ミサト達よりも、
より自立心の強い存在であり、
物語を駆動させる意思と活力を持つトリガー(積極性)であり、
エディプスコンプレックスにより、
内面に向かいがちなキャラクターを、
より、外へ、前へと進めて行く役割を担われています。
これは、「TVシリーズ」「旧劇」「新劇」と変わらない、
アスカの役割ですね。
とは言え、アスカ自身もエディプスコンプレックスに囚われたキャラクターではあるので、
「TVシリーズ」「旧劇」では母性を求め、
「新劇」というか、
今回の「シン」では、
「自らに仕組まれた好意」から自立する為に、
「子供」のままのシンジより、
「大人」へと成長したケンスケ(父性)を選ぶ存在と成ったのです。
-
渚カヲルと司令
それを考えると、
もしかしてマリにも、オリジナルが居るのかもしれません。
彼女も、
「真希波」ですからね。
ちなみに、
「あやなみ」「しきなみ」「まきなみ」は、
海上自衛隊の護衛艦の名前が、いずれもその由来となっています。
しかし、
マリに関しては、他の個体に対する言及が無い事から、
彼女自身がオリジナルであると推測されます。
さて、
もう一人のエヴァパイロットたる、
渚カヲルです。
彼はどうやら、「ループ」されている世界を生きて居る様なので、
綾波シリーズとはまた違った形で、
世界線をまたぎ、意識を共有した形で、
量産されている存在であると思われます。
思い返せば、
「旧劇」の量産型エヴァンゲリオン(エヴァシリーズ)は、
カヲルのダミープラグを使っていましたね。
さて、
本作「新劇」においては、
綾波も式波も量産型の仕組まれた存在ならば、
カヲル君も、それに類するクローン的な存在なのでしょうか?
今回の「シン」で判明した事ですが、
どうやら、
「ゼーレ」のシナリオの「人類補完計画」は、
使徒を利用して、段階的に「~インパクト」を起こす事で、
大地の浄化、魂の浄化(サード)、
黒き月の発掘(フォース)、
全ての魂を一つの器にまとめる(アナザー)、
というプロセスを踏んでいるのだという事です。
その為、
「破」で「サードインパクト」が完遂されず、
「ニアサー」に留められたのは、
カヲルが「Mark.06」にて、カシウスの槍を使って阻止し、
どうやら別方面でも、加持リョウジの奮闘があった様なのですが、
それは、ゼーレのシナリオ通りなのです。
さて、
その「破」にて、
カヲルはゲンドウと冬月に向かって「初めまして、お父さん」的な事を言っていました。
え?これはどういう事?
つまり、
「シンジ君のお義父さん」って事で、
ボーイズラブって事!?
と、一部の界隈を騒がせたものです。
しかし、
「Q」にて、カヲルが搭乗した13号機に、
ゲンドウもまた搭乗した事、
そして、加持リョウジが、
カヲルを「司令」と呼んだ事を勘案するに、
カヲルのオリジナルはゲンドウなのではないでしょうか?
より詳しく言うならば、
仕組まれたチルドレンたるエヴァパイロット、
それは、碇シンジを様々な形でサポートする存在として配置されており、
カヲルの役割は、
ネブカドネザルの鍵と同化する事で人間を捨てたゲンドウが、
本来、ゲンドウが人間として、父親として、
シンジに注ぐべき愛情と友情の象徴であると考えられます。
偶に、
レイとカヲルが、カップリングでフューチャーされる事があります。
それは、
同じ「人でない存在」として並べられているという意図もあるのでしょうが、
「シン」における、二人のカップリングは、
ユイクローン=レイと、
ゲンドウクローン=カヲルという、
もしかしてあり得たかもしれない、
若い二人のボーイ・ミーツ・ガールという意味合い(というか、ゲンドウの妄想、希望)
が込められていると感じますが、どうでしょうか?
-
唖然呆然!?衝撃のラストシーン!!
さて、
「TVシリーズ」「旧劇」と、
そのラストで鑑賞者を「ポカーン」と置いてけぼりにしてきた「エヴァ」。
今回の「シン」でも、
別ベクトルで、ラストシーンに唖然とする展開が待っています。
以下、ラストシーンに関わる言及がなされています
シンジ君、
レイでも、アスカでもなく、
まさかのマリルート!!!?
ラストシーン、
まさか、まさか、
真希波・マリ・イラストリアスと手繋ぎで実写に飛び出すなんて、
誰が想像したでしょうか?
俺はしてねー!!
え!?
何!?
これ!?
どういう事!?
いままで、そんなフラグ立ったっけ?
まるで、ギャルゲーをやっている時、
全然攻略していないキャラクターのルートに入ってしまったかの様な、
強烈な違和感!!
クライマックスシーンにて、
まるで打ち切り漫画のラストシーンの様に、
駆け足で登場人物の現実を改変しながら救済していくシンジ君が、
『デッドプール2』(2018)のラストシーンのデッドプールとまんま被っているのは笑いましたが、
本作のラストの、
唐突なマリルート突入即、エンドには、更なる衝撃と笑撃が走りました。
果たして、何故こんな事が起こったのでしょうか?
私なりに考察してみたいと思います。
(エヴァンゲリオンのラストで考察する事が、コレ!?)
本作では作中、
「村」での農作業で、マダム達がこの様な事を言います
「仕事は仕事とくに考えた事もない」。
冬月コウゾウは、
「希望に拘り過ぎるのもまた、考え物だな」みたいな事をいいます。
また、渚カヲルは、
延々と続くループを遂に、降ります。
「エヴァンゲリオン」。
自分が作り出した渾身の作品ではあり、
莫大な富を生みはしますが、
「TVシリーズ」「旧劇」「新劇」と、3度も同じ事を繰り返し、
実際、
「エヴァ」という括りに、庵野秀明は飽き飽きしていたのでは?
その息抜きの為に作られたのが、
実写の『シン・ゴジラ』であり、
また、「庵野秀明のエヴァ」世界における、
彼自身の為の、一服の清涼剤としての役割を果たすのが、
庵野秀明由来のキャラクターではなく、
本作の監督の一人である鶴巻和哉が生み出したと言われる、
真希波・マリ・イラストリアスであるのではないでしょうか。
つまり、
「エヴァ」という、希望でもあり、絶望でもあるコンテンツのループから抜け出すには、
庵野秀明にとって、
自分由来では無い、
他人由来のキャラクターと、
手を取り合う必要があったのではないか?
故に、
エディプスコンプレックスの物語から脱する為に、
「他人」であるマリを、最後に選んだのかもしれません。
冬月との会話にて、
マリは、「イスカリオテのマリ」と呼ばれます。
これは、キリストを裏切った「イスカリオテのユダ」のもじり。
写真や、
ゲンドウの回想から察するに、
どうやらマリは、
冬月、ゲンドウ、ユイらとつるんでいた、ネルフ初期メンバーの一員であり、
そんな彼達のサークルから抜け出した(=裏切り者)存在であり、
仲間内の、イレギュラーの存在であると示唆されています。
庵野秀明の個人的で病的な精神性が如何無く発揮され、
それに故に世紀の傑作となった「旧劇」ですが、
その呪縛を打ち破る為、
他人と手を取り合って、それを乗り越える精神性を獲得した、
それこそ、
監督自身の人間的な成長(大人化)が見て取れると思うのですが、どうでしょうか?
鬱を乗り越え、
これこそが、「新世紀」の「エヴァンゲリオン」だ。
その事の意思表示と決意表明が、
真希波・マリ・イラストリアスであると思うのです。
-
神木隆之介!?
さて、
スタッフロールの声の出演者、
その最後に名前が載っていたのが、
神木隆之介。
え?
神木君?
どこに出演していたの!?
私は解らなかったのですが、
恐らく、
ラストシーンの大人のシンジの声が、
神木隆之介だと思うのですが、あってますかね?
誰か、正解を教えて!?
緊急事態宣言により、
公開日が延期され、
しかし、
急に決定された3月8日の公開に合わせ、急遽、仕事を休み、
当日の一番早い回のチケット争奪戦をネットで繰り広げ、
当日の朝は、緊張の腹痛で腹を壊し、
妙なテンションでグッズを買い漁る。
もう、
私の人生で、
映画の公開で、こんなにワクワクする事は、無いだろうな、
そんな予感がします。
何故なら、
私も、大人になったから。
青春時代を共に過ごし、
初恋にも似た感情を抱く作品にも、
これで、ようやくお別れが言えそうです。
ありがとう、
さようなら『シン・エヴァンゲリオン劇場版』!!
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