映画『惡の華』感想  俺は特別!?これぞ、思春期の葛藤の全て!!

地方都市に住む春日高男は、ボードレールの詩集『悪の華』を愛読する、文字通りの中2男子。自分は、平凡な「お前ら」とは違うと、常日頃から思い抱いていた。
そんなある日、教室に忘れた詩集を取りに戻った所、春日の意中の女子・佐伯奈々子の体操着を、放課後、誰も居ない教室で発見してしまう。
思わずブルマの匂いを嗅ぎ、それを持ち帰る春日。
しかし、その奇行を、クラスメイトの中村佐和に目撃されていた、、、

 

 

 

 

監督は井口昇
主な監督作に、
『片腕マシンガール』(2007)
『富江 アンリミテッド』(2011)
『電人ザボーガー』(2011)
『デッド寿司』(2013)
『ヌイグルマーZ』(2014) 等がある。

 

原作は、押見修造の漫画『惡の華』。

 

出演は、
春日高男:伊藤健太郎
中村佐和:玉城ティナ
佐伯奈々子:秋田汐梨
常磐文:飯豊まりえ

鶴見辰吾、坂井真紀、高橋和也、黒沢あずさ 他。

 

 

漫画や映画、小説などの物語における、
ヒロインの数は、何人が最適か?

勿論、その答えは、
「作品のテーマと、状況による」というものです。

その例は色々あり、
漫画を元に言うならば、

古くは、『めぞん一刻』『うる星やつら』など、
メインヒロインと、サブヒロインみたいな形から、

『電影少女』といった、
ダブルヒロイン制、

『まほらば』という、
一人のメインヒロインの中に、
他に4人の人格が居るという変わり種、

『いちご100%』の様に、
メインヒロインが4人いながら、
さらに、サブヒロインがいる作品もあります。

極めつけは、
『魔法先生ネギま!』であり、
この作品は、クラス全員(31人)がヒロインという超インフレを起こし、

この「数打ちゃ当たる」形式のヒロインの大洪水は、
後に、
秋元康がプロデュースした「AKB」方式の元ネタになっていると思われます。

 

そのヒロインの事を話た時に、
必ず、物議を醸す作品があります。

それは『新世紀エヴァンゲリオン』。

葛城ミサト、
赤木リツコ、
委員長、
真希波・マリ・イラストリアス etc…

数々の女性が登場しますが、
「エヴァ」におけるヒロインは、

綾波派と、アスカ派に大別され、

「どちらが正ヒロインか?」という話題になると、
初放映から20年経った今でも、
血で血を洗う内ゲバが発生する事も、しばしばとか。

 

しかし、今ここに、
長年の論争に終止符を打つ時が来た!?

外見が綾波で、性格がアスカなら、
最強のヒロインじゃね?

 

それが本作の、
中村佐和の、私のイメージです。

そして、主人公の春日は、碇シンジくんと言った所でしょうか。

 

は?
綾波とアスカのフュージョンって、
そんなの、有るわけないだろ!?

と、両陣営からお叱りの言葉を頂くでしょうが、
まぁ、
観てご覧なさいな。

玉城ティナ演じる狂気のヒロインぶりに、
観客は皆、虜になる事、間違い無しです。

 

玉城ティナの美少女エロスっぷりに、
私なんかは上映中、
終始、半勃ちでしたね、ええ。

 

とは言え、
中村佐和は綾波でもアスカでもありません。

フュージョンした悟空とベジータが、
「俺は悟空でもベジータでもない、俺はキサマを倒す者だ!」と言った様に、

「綾波でもアスカでもない、中村は春日を厨二へ誘う者」なのです。

 

そう、
本作『惡の華』は、

厨二病に患わされる、
思春期の、悩み、苦しみ、葛藤を描いた作品なのです。

 

誰でも、
好きな子のブルマの匂いを嗅いだり、
リコーダーの先っぽをペロペロ舐めたり、
水泳の時間に思わず目撃した胸の谷間をオカズに栗の花を咲かせた事が、

一度や二度はあると思います。
(ねえよ!)

 

自分の事を特別だと思いつつ、
「僕は変態じゃない」などと言いながら、
変態行為に邁進する春日。

事ある毎に「クソムシ」呼ばわり、
世の中を「つまんない」と切り捨てる中村。

 

この二人の言動は、
『理由なき反抗』(1955)と言えるものであり、
『禁じられた遊び』(1952)でもあるのですが、

ガキの世迷い言と、切り捨てる事は出来ません。

だって、お前は、昔の俺さ。

 

誰だって、一度は通る思春期だから、

春日や中村に、観客は皆、感情移入せざるを得ないのです。

 

本作は、
その冒頭に、
「この映画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、
かつて思春期に苛まれたすべてのかつえの少年少女に捧げます」
という一文があります。

正に、
それこそ、本作の本質。

狂おしく、悩ましく、苦しい、
それでいて、
愛おしい。

どんなに苦しくても、
自分は一人じゃないんだ、
自分は、一人じゃなかったんだと、

本作『惡の華』は、
思春期の、あの日々が蘇る、

そういう感慨深さのある作品なのです。

 

 

  • 『惡の華』のポイント

発症、厨二病!!

思春期と、青春の終わり

共感出来るからこその、気まずさと面白さ

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 


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  • 惡の華、咲く

本作『惡の華』にて、
厨二病の象徴的な「観念」として、
黒い、巨大な目を持った、不気味な「華」がメインビジュアルとして、象徴的なアイコンの役割を果たしています。

それは、
作中、ボードレールの『悪の華』の表紙を飾り、
春日が空を見上げる時、時に、伸び上がる妖怪めいた存在です。

 

参考、ボードレールの『悪の華』


上の表紙は、岩波文庫版ですが、
本邦での文庫本の表紙に、
映画の作中に出て来たバージョンはありませんので、
悪しからず。

 

さて、
あの不気味な「惡の華」には、
モデルがあります。

それはおそらく、
水木しげるの漫画に出て来た妖怪「バックベアード」でしょう。

 

「アメリカ出身の、西洋妖怪の大将」的な存在であるバックベアード。

何故、バックベアードが「惡の華」なのかと言いますと、

時は、2003年頃、
「ふたば☆ちゃんねる」というWEB掲示板にて、
水木しげるの漫画の台詞を入れ替える形で、

このロリコンどもめ!

という台詞を吐くバックベアードのコラージュ画像が出回りました。

それがAA(アスキーアート)化され、
かつての「2ちゃんねる」にて流行った、
という経緯があります。

 

ロリコンが出没しそうなスレッドに突如現われ、
「このロリコンどもめ!」と変態を叱りつけるバックベアード。

「変態を叱りつける象徴」であるバックベアードが、

本作においては、
思春期における葛藤」の象徴として描かれるのは、
何とも、示唆的なものがあります。

 

因みに、
水木しげるのバックベアードのデザインには、
さらに、元ネタがあります

それは、
オディロン・ルドンの版画『眼=気球』(1878)です。

 

つまり、
本作の「惡の華」は、
←「このロリコンどもめ!」と叱るコラージュ画像
←水木しげるのバックベアード
←オディロン・ルドンの『眼=気球』

という、
何重にもレイヤーが積み重なった、
メタ的な元ネタの多重構造が形成されているのです。

 

メインビジュアルに、
そういうレイヤーをかけるという行為は、
本作の性質を象徴しており、

それは即ち、

思春期の、世界に対する、叛逆的な精神」を持ち
「美少女に服従するという、マゾ的な変態行為への邁進」する

本作の主人公の春日が、

本作を鑑賞する、
全ての思春期を生きる人かつての思春期を生きた人の、
現し身であるという、

共感性のレイヤーを象徴している様にも、
感じるのです。

 

あ、後、
ぶっちゃけ、
「惡の華」って、
中学校の理科実験室の机なんかによく書かれている
「オマ〇コ」マークに似てますよね。

本作における象徴的なイニシエーションのシーン、
夜の教室に忍び込んで、荒らしまくる場面、

その最後に、
二人は、床に描いた「惡の華」の中に寝転びます。

中村佐和は、
お腹の下の、自分のドロドロ(=思春期の葛藤)が云々かんぬんと言いますが、
それは、女性器の事を言っているのだと思われます。

その女性器に似た、
床に描かれた「惡の華」の中に寝転ぶ二人は、

思春期の葛藤という子宮の海の中に漂っている、
まだ、世界と直面していない、生まれ出でてない存在である
そういう意味が、込められているのかもしれません。

 

  • 必敗の思春期

本作『惡の華』において描写される、
思春期の葛藤。

それは、
誰もが通る道であり、

だからこそ、
本作で描かれる痛々しさ、変態性には、

ある種の懐かしさというか、
ノスタルジックな愛おしさすら感じます。

 

それは、かつて、
「夜の校舎の窓ガラスを壊して回った」り、
「盗んだバイクで走り出した」りした、
尾崎豊の描く世界観とも共通しており、

作中でも言及された、
ボードレール、渋澤龍彦、バタイユ、など、

「生きづらさへの叛逆」「青春の抵抗」を描いた作家達と、
共通したものを感じます。

 

まぁ、最も、
思春期を生きる当人にとっては、
雰囲気に、何となく共感すれど、
その内容の意味は分からず、

春日に至っては、
「それを読んでいる自分に酔っていただけの、カラッポ人間なんだ」と、
自分を称します。

 

でも、それで、良いんだよ

みんな、そうだから。

かく言う私も、かつて童貞だった頃、

橘いずみの楽曲『ハムレット』の歌詞を、
教室の黒板に書き殴って、
翌日のクラスメイトの反応がどうなるのか、
楽しみにしたという、
痛い黒歴史みたいなのがあります。

まぁ、
実際の反応は、
「ああ、またルパン(私)が変な事してる」と、
薄っすい反応だったんですけれどもね。

 

そうなのです。

思春期の全能感、
自らを特別と謳う傲慢、
世界へ対する軽蔑、

これらの思いは全て、
自身の成長と共に、
敗れ去ってしまう運命にあります。

それは、
受験に失敗したり、
スポーツで、超えられない壁に直面したり、
就職にて割り切ったり、
仕事にて、思い知らされたり、etc…

自分が、決して、世界を変える様な存在では無く、
むしろ、
自らが軽蔑していた一般庶民よりも、更に能力の無い、
とるに足らない存在なのだと、
自覚してしまう事で、
その思春期や青春は終わってしまいます。

 

世界に対する敗北
そう、
思春期とは、必敗するからこそ、尊い時期と言えるのです。

敗北で、己を知る、
そこから、
自らの第二の人生が始まる

長いイニシエーション、
それが、思春期であり、

本作で描かれる描写であるのです。

 

祭りに乱入し、
春日と中村は、焼身自殺を謀ります。

二人で手を握り「クソムシ」と連呼する様子は、
まるで、
『天空の城ラピュタ』の「バルス」のシーンの様です。

しかし、
ファンタジーである『天空の城ラピュタ』ではハッピーエンドを迎えた破滅の言葉も、

現実においては、
世界への叛逆は果たせず、
二人は敗北してしまうのです。

 

必敗を運命付けられている思春期だからこそ、
その愛しさが際立つのです。

 

  • 玉城ティナの中村佐和

さて、思春期の葛藤というものは、
世間を知らぬ為に起こる厨二病であり、

だからこそ、
孤独な闘争を強いられ、
各個人が、
「己は、他者と、何ら変わる事のない存在だ」と、
自覚する事で終息します。

 

しかし、
そんな思春期の闘争を共有出来る、
仲間が居たらどうなのか?

そういう、相棒(バディ)がいたなら、
その思春期は、
いわば、青春と呼ばれるものになります。

 

本作においては春日と中村が、
服従と主人という、
相互依存の共犯関係を結びます。

この二人の関係の、
何と、幸福な事よ。

美少女に詰られて、服従したい。

何とも、変態的な願望ですが、
それこそ、
SEXを介さない、
童貞と処女の思春期の幸福な関係と言えるのではないでしょうか。

 

しかし、
この二人は、直接的な肉体関係は無くとも、

SEXの代替行為として、
むしろ、
肉体関係以上の繋がりを築きます。

そう、
春日は、佐伯奈々子で童貞を卒業しますが、
むしろ、中村佐和との関係を選ぶのは、その象徴であると言えます。

世界に対する闘争を仕掛ける同士、

二人はそれを「向こう側に行く」と称しますが、
しかし、
向こう側なんて、何処にも存在しない、おままごとでしかないと解らされるのが、
哀しく、愛おしいですね。

 

さて、
二人の関係は、
SEXが無くとも、
なんともエロチックな感じがします。

それに説得力を与えるのが、
中村佐和を演じた玉城ティナの個性です。

 

玉城ティナは、
先日公開された『Diner ダイナー』においても、
ヒロイン役・オオバカナコを演じていました。

しかし、
オオバカナコが、典型的な「お姫様」ヒロインだったのと対比するかの様に、

本作における中村佐和は、
自ら主導権を持って、成功しようのない闘争を仕掛ける思春期の戦士として描かれます。

この辺り、
『Diner ダイナー』の監督の蜷川実花と、
本作『惡の華』の監督、井口昇の趣味の違いが顕著に表われています。

他方、
女性を可愛く、可憐に、美しい、理想の少女像として描いているのに対し、
他方は、
ドロドロとした思春期を支配するミューズ(女神)として描いています。

どちらも、
アイドル(偶像)としての理想像ですが、
こうも違うのが面白いですね。

 

この、玉城ティナの偶像性が、
相反するアイドル像を両立させているのですね。

本作でも、
そのフィギュアの様な外見から、

チャーミングな行動を繰り返しながらも、
ウザくて怖い、

そして、
その目を限界まで見開く様子は、
メインビジュアルの「惡の華」の様に血走っています

 

玉城ティナは、
普段汚い言葉を言い慣れていないのか、
罵倒に、少し違和感があります。

しかし、それも、ぶっちゃけ良い感じ。

他人とあまり話さない、中村佐和っぽい感じすら演出します。

 

美少女に、
為すがままに、他の美少女の体操着を無理矢理に着せられる背徳感、
パンティのぶら下がる段ボールハウスで、焚き火の明かりの下跪くマゾヒスティックな快感。

 

春日を演じる伊藤健太郎も凄いですが、

画面に映るだけで説得力のある、
玉城ティナの存在感こそ、
本作を成り立たせているキーの一つと言えるのです。

 

 

 

 

思春期の葛藤と、その挫折を余すこと描く本作『惡の華』。

思春期の当事者の共感を呼ぶのは勿論、
今は、大人になってしまった者であっても、

痛々しく、赤裸々であるからこそ、
本作は懐かしく、

そして、
必敗の運命を正直に描くからこそ、

甘い郷愁をも呼び起こす作品となっています。

 

思春期の、世界に対する叛逆は、必敗する運命。

しかし、
思春期真っ只中の人も、
思春期を引きずっているかつての若人も、

本作の清々しい程の敗北を、
まるで、自分の事の様に「体験」する事で、

ある種の昇華が成されるのではないでしょうか。

 

これが、
「作品」の力。

ボードレールや、渋澤龍彦などの文学作品の持つ力であり、

本作も、そういう力を持っています。

 

最も、
春日は、父親に勧められた文学作品にて、
厨二病を拗らせた経緯があり、

用法、用量を正しく扱う事が必要ではあるのですが。

 

時に、人生を拗らせ、
しかし、必敗する運命に、若人を至らせる、
思春期をという厄介な時期。

しかし、
思春期は、滅びません。

人類が居る限り、
それは、永遠に継承されて行きます。

何故なら、
誰にでも若い時期は、あるのだから

輪廻転生の如く、
また別の人間の、別の人生にて、
「惡の華」は咲く事になるのです。

 

思春期の葛藤、叛逆、必敗、昇華、継承、
その全てを描き上げる『惡の華』は、

新たな青春映画の名作の一つとして、
数えられるのではないでしょうか。

 

 

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