映画『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』感想  理不尽な暴力に、もう黙っていられない!!子供の成長物語!!

長男マーカスのベースボールの試合の観戦に行ったマーカス一家。しかし急に降って来た隕石によって、いきなり普通の日常は破壊された。その日から人類は、音に反応するクリーチャーによって蹂躙される事になる。
それから472日、住処を破壊されたマーカス一家は、新たなる土地を目指す、、、

 

 

 

 

 

監督は、ジョン・クラシンスキー
前作『クワイエット・プレイス』(2018)同様、父親:リー・アボット役と共に、共同脚本も務める。

 

出演は、
エヴリン・アボット:エミリー・ブラント
リーガン・アボット:ミリセント・シモンズ
マーカス・アボット:ノア・ジュプ
リーガン・アボット:ジョン・クラシンスキー

エメット:キリアン・マーフィー

生存者:ジャイモン・フンスー 他

 

 

 

日本でもヒットし、
内容的にも評価された『クワイエット・プレイス』(2018)。

当初、2020年の3月に公開予定でしたが、
コロナの影響で延期に延期を重ね、漸く公開の仕儀と相成りました。

 

そんな本作。

ぶっちゃけ、前作が面白かった、
いや、面白過ぎた。

期待はあれど、
しかし、
作品としてのネタ「音を立てたら、謎のクリーチャーが来る」という、
一発勝負のサスペンス、ホラー要素は既に自明ですし、

テーマである、家族関係の物語としては、
既に語り尽くして、落ち着くべき所で決着しているので、

映画としての質は、
前作より劣るだろうなと、
予想していました。

 

で、実際にどうだったのか?
と、言いますと。

いや、面白かった!!

前作から変化してしまった家族関係。

本作では、
物語としてのテーマを、そこにスポットを当てて描いています。

ハッキリ言うと、

子供の成長物語なのです。

 

 

突如出現した「音に過敏に反応するクリーチャー」により、
平和な日常が奪われた人類。

その、新たなる日常において、
元々、手話をコミュニケーションとして用いていたアボット一家は、
辛うじて生き残っていました。

しかし、
クリーチャーの襲撃により、安全な趣向を凝らした「我が家」は破壊され、
新天地を目指す事を余儀なくされる一家。

そんなニューノーマルな状況にて、
無垢なままではいられず、
アボット一家の子供達は、成長を強いられます。

本作は、
その新たなる一歩を描いた作品と言えるのです。

 

この程(2021/06/19)、
日本フェンシング協会の会長に、武井壮さんが就任する事が発表されました。

その武井壮さんが、
自身のYouTubeチャンネルで、ある視聴者コメントに語っていた事があります。

「コロナの影響で、スペインへのサッカー留学が延期になった子供のモチベーション維持について」という質問に対し、

武井壮は
「そもそもモチベーション維持という発想自体が意味不明」
「単に、『スペインでサッカーをする』という事が目的になってないか」
「コロナ明け、留学先で全員ぶっちぎる位の勢いで、今、鍛えるチャンス」
と、語っていました。

 

そう、困難こそは、
人が躍進出来るチャンス

そういう意味で、
クリーチャーの所為で理不尽に日常が奪われた「クワイエット・プレイス」の世界観は、

コロナの所為で、
行動や経済活動に様々な制約を課せられる事になった我々にとっても通じるものがあり、
様々な知見を得る事が出来ます。

 

延期に延期を重ねましたが、
むしろ、
今だからこそ、観るべき映画と言える、

『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』は、
そういう作品であるとも、感じました。

 

前作同様面白い、
しかし、完全なる続篇なので、
前作視聴は必須、それだけが注意点ですね。

 

 

  • 『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』のポイント

子供の成長物語

理想で道を切り拓くという事

困難にて試される、成長と人間性

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

本作を語る上での都合上、
前作のネタバレも含みます

 


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  • 成長を余儀なくされる子供の物語

音を立てると、容赦無く襲って来る驚異のクリーチャー
その状況のホラー、サスペンス要素、

その一方、テーマとしては、
監督を務めたジョン・クラシンスキー曰わく、
「これは、子供へと向けた私信だ」と熱く語った所の、
家族関係の物語を描き、

一本の映画として高い完成度を誇った前作『クワイエット・プレイス』。

そのパート2が本作、
『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』です。

 

しかし、
クリーチャーの性質は、一発ネタですし、
しかも、攻略法も判明済み、

そして、
物語のテーマも、
見事に完結したからこその完成度が前作にあり、

だからこそ、
続篇としては成立しづらいのではないのか?

本作を観る前には、
期待も高かった反面、
それが故に、物語を語るのは難しいのではないかと思っていました。

しかし、そういう懸念も杞憂だったのが、本作。

 

前作では家族関係の物語、
特に、監督であるジョン・クラシンスキーの熱い想い、
父親が子供へと、どの様な愛情を注ぐのか、
そして、それをどの様に表現するのか
それが描かれていました。

本作は、そのテーマを継承し、
父親を喪い、家を破壊され余儀なくされる、
しかし、
だからこその、困難に直面した子供の成長物語を描いているのです。

 

大体の子供が、
何時かは、親と別れ、
そして、住む家から独立して、
自らの道を往かねばなりません。

若年ながら、
更に幼い「赤子」のお守りをしなければならないマーカス。

そして、
本作での実質的な主人公ポジションであるリーガンは、
父が遺した「対クリーチャー周波数」を電波に乗せる為に、
母エヴリンには内緒で、単独でラジオ塔を目指します。

困難に、大人に頼らず、
自らの力のみで、直面せざるを得ない子供達の物語。

時と共に、家族関係も変化しますが、
本作では、
テーマとしての家族関係を維持しつつも、
その、違う側面を描いていると言えるのです。

 

  • 子供の想いに、どう応えるか?

とは言え、
子供が子供のまま世間の理不尽に対抗するには、
実質的には限度があるというか、
まぁ、ぶっちゃけ、無理ですよね。

本作でも、
マーカスは母親が帰還しますし、
リーガンも、エメットが合流します。

ストーリーの流れとして、
冒険のメインはリーガンで、
サイドキック(介添え人)としてエメットが存在しますが、

本作では、
そのエメットの存在も、重要な役割を担います。

 

皆さんは、
グレタ・トゥーンベリさんについて、
どう思いますか。

正直、むかつきますよね。

その理由として上げられるのは、
顔が気に触るとか、
言葉遣いが一々苛つかせるとか、
環境活動家が儲ける為のポジショントークだとか、
色々理由がありますが、

その最たるものと言えば、
達成困難な正論であるからだと、私は思います。

 

しかし、子供の忖度しない正論は、いつだって正しい

正しく、達成困難だからこそ、
大人はいつも、
屁理屈や、感情や、恫喝や、暴力で子供を屈服させ、
さも、言っている事が「間違い」であるかの様に、錯覚させようとするのです。

 

前作、父親のリーは、
音を立てない日常の傍ら、
クリーチャーの攻略法にも執心していました。

本作のリーガンは、
その父の想いを受け継ぎ、更に発展させ、
見つけた攻略法を、世に出そう、
その攻略法が、もっと広いを救う事になるはずだと、
そういう信念のもとに行動します。

ラジオ放送を聴き、
生存者の存在を確信したリーガンは、
ラジオの電波に、対クリーチャー周波数を乗せんが為に、
家族を置いて、単独でラジオ塔を目指します。

 

さて、そこでエメットの登場です。

エメットは、元々はマーカス一家との友人で、
DAY1(クリーチャー侵略初日)でも、
子供のベースボールの試合の観戦を一緒にしていました。

しかし、そのDAY1にて、子供を喪い、
生き残った妻も、その後の生活で病気で亡くなったと言います。

また、
エメットの潜伏位置的に、
マーカス一家が生き残っている事が分かっていながら、
コンタクトを避けていました。

エメットは、
他の生存者は「救うべき価値は無い」と、
何やら、不穏な事を、言います。

実際中盤、
まるで、スティーヴン・キングの小説のディストピアに出て来るような、
文明崩壊後の野蛮人化した集団も登場します。

それでも、そんなエメットに、
エヴリンは言います
「リーガンこそ、救うべき存在だ」と。

エヴリンは、恐らく、気付いているのでしょう。
ツンケンしてはいますが、
エメットが、マーカス一家の事を、
本心では案じている事を。

何故なら、前作、
あれだけバカスカ花火をぶち上げたマーカス一家に、
わざわざ狼煙を上げて、自分の位置を知らせる様な事をするでしょうか?

マーカスの家の位置は把握していたでしょうし、
ただならぬ事があったのだと、容易に想像出来たでしょう。

言葉では「翌日には出て行け」と言っていましたが、
心の中には葛藤があったハズです。
何とかしたい、役に立ちたいと。

 

大人が、子供の正論を取り合わないのは、
その正論が達成困難で、面倒くさいと、
その経験から、知っているからです。

大人は、その人生において、何らかの敗北者
夢や希望を諦めた経緯があります。

だから、
子供の夢や希望や、失敗や敗北を考慮しない正論を否定するのです。
「どうせ無理」
「チャレンジして傷付くのはお前」
「だったら、最初から何もしないのが利口」だと。

 

ですが、失敗した経験は、自分の物語。

未来を目指す子供に、
自分の体験を転写するのでは無く、
むしろ、大人は、
子供が達成困難な目標を乗り越える、その背中を押してあげるべきなのではないでしょうか?

 

エメットは、
知人とは言え、
赤の他人の子供の手助けに向かいます。

それは、
自分の子供や妻を救えなかった贖罪でしょうか?

理由はともあれ、
エメットはリーガンの救援に向かいます。

確かに本作は、
子供の成長物語ではあります。

しかし、
その一方で、
それを見守る大人の在り方も、
エメットを通じ、同時に描いているのではないでしょうか?

 

作中、リーガンはエメットに言います。
「あなたは父の様な(尊敬出来る、勇気のある)存在ではない」と。

そんな相手に、後にエメットは言います。
「確かにそうだ、リーに似て勇気があるのは君だ」と。

時に生意気で、反抗的で、無鉄砲な子供に対しても、
相手を理解し、尊敬を持って接する事が、
大人の在り方ではないでしょうか。

また、
実は、海を渡れないという意外な(後付け設定の)弱点のあるクリーチャーから隔離された孤島の集落、
謂わば、ユートピアに、
リーガンとエメットは、クリーチャーを呼び込んでしまいます。

これは、
目的達成の為に、
無垢な他人の安寧の現状を脅かした形です。

しかしそれでも、
リーガンとエメットは、
他人を巻き込んだという事実に絶望する事無く、
目的達成の為に驀進します。

確かに、人生において、
目的達成の為に、他人を犠牲にしなければならない時が、来る事があります。

その時が来たとき、
今回は、時間の猶予が無かったですが、
これはジックリ考える時間があっても、最終的には同じ事で、

絶望や責任の重さに屈し、躊躇して、何もしない事を選ぶのか、
犠牲を払ってでも、目的達成の為に邁進するのか、
その選択の時において、

本作では、瞬時の決断を下す大人の対応が描かれます。

 

達成困難な目的に向かって進む子供に対し、

そんな事は無理だと自分の価値観を押し付けるより、
子供の後押しと手助けをし、
そして有事の際には、決断と責任を取る

そういう理想の大人像も、
本作では描かれているのではないでしょうか。

 

  • 破られた沈黙

後、本作、邦題につけられた副題の「破られた沈黙」も気が利いてますね。

「破られた沈黙」という文字を見ると、
前作を観ている人間からしたら、
沈黙しなければならない状況下なのに→
それが破られたとなると、ヤバイ事が起きる
みたいな展開を想像してしまいます。

しかし実際は、
勇気によって「沈黙を強いられている状況」を打破する人間の物語が本作であるんですよね。

前作を観ている人間にミスリードを誘いながらも、
そのミスリードとは真逆の意味を持つ本作のテーマを副題に込める。

これは、副題を考えた人の、会心の出来だと私は思います。

 

また、このコロナウィルスが蔓延している状況下で、
不自由で、制限された活動が余儀なくされている我々の生活も、

本作の世界観も含め、
同時に、投射されている様にも感じますね。

まぁ、ぶっちゃけると、
政治とか、行政とかにね、
我々も、もっと声を上げるべきなのかもしれませんね。

もう黙ってはいられない!
『夢見る少女じゃいられない』とね!!

 

 

 

前作『クワイエット・プレイス』では、
子供に対した私信としての、
熱い親の想いを込めた監督のジョン・クラシンスキー。
(作中で夫婦関係であるエミリー・ブラントは、実生活の妻でもあります)

本作『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』においては、
困難に向かう子供に、
意義と、勇気を持つ事の大切さを伝えています。

そして、それを見守る大人の在り方、
つまりは、
自分は子供に対し、
「何時でも見守っているよ」という事を言っているんですよね。

まぁ、つまり、
本作も前作同様、
監督の子供へ向けた私信ではありますが、

前作同様、
その熱い想いが込められるからこそ、
作品に面白さが付与されているんですよね。

アクション、SF設定も興味深いですが、
本作は、その生真面目さ、真摯さが、
評価に繋がっていると、個人的には感じます。

映画は、如何にテーマが大事か、
その事を教えてくれる『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』です。

 

 

 


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