映画『デトロイト』感想  リアルとフィクションの境界を破壊する作品!!

 

 

 

1967年7月23日、デトロイト。ベトナムより帰還した兵隊を祝したパーティー会場に警察が乱入、摘発。多数の黒人が補導された。それを眺めていた市民が警察に反発、それがエスカレートして行き暴徒化。略奪や暴動が発生し、当局は州警察と軍隊を投入するに至る、、、

 

 

 

 

監督はキャスリン・ビグロー
ここ最近の3作は特に政治的な意味合いの強い作品を撮影している。
代表作に、
『K-19』(2002)
『ハート・ロッカー』(2008)
『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012)等がある。

 

主な出演者は
ディスミュークス(黒人警備員):ジョン・ボイエガ
クラウス(白人警官):ウィル・ポーター
ラリー(黒人シンガー):アルジー・スミス

他、アンソニー・マッキー、ハンナ・マリー等。

 

本作『デトロイト』は圧倒的な作品です。

まず、この作品は事実を基にした「フィクション」であると頭に入れておく必要があります。

 

そうで無いと、映画=事実だと認識してしまう事になりましょう。
それほどまでに力のある作品なのです。

綿密な取材、適度にニュース映像を織り交ぜる手法、生存者からの証言により再現した拷問場面、

まるで、これは映画では無く、
実録ドキュメンタリーであるかの如き印象を受けます。

 

制作された映画の一場面というより、自分がそこに居合わせているかの様な臨場感、緊張感が張り詰めます。

描かれるは恐怖の一夜。

激化する暴動に過剰に反応する地元警察。
事態を悪化させる警官の横暴。

居合わせた市民が徹底的に尋問を受けます。

権力と暴力を傘に着て、
脅しと恐怖で人権を踏みにじる。

 

この狂気は、職権の逸脱・乱用というだけでは無く、
根本にわだかまる、

人種差別が問題なのです。

 

フィクションを超えた、圧倒的な実録風映画『デトロイト』。
観るというより、恐怖の一夜を体験してしまう、怖ろしい映像体験を味わえるでしょう。

 

 

  • 『デトロイト』のポイント

実録風の、その場に居合わせているかの如き迫力

理不尽な暴力と権力の在り方

根本にある人種差別問題

 

 

以下、内容に触れた感想となります

 


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  • 圧倒的な映像体験の押し付け

本作『デトロイト』は実録風に撮ったフィクションです。

この事は絶対に忘れてはなりません

確かに、取材をしたり、生存者から証言を取ったりして事実の再現度は高いでしょう。

しかし、それが映画となると、作った人間の主観が混じってきます
また、記録、記憶も、それを持っている人間の主観により、事実とは若干異なったものであるのは否定出来ない事実なのです。

本作の迫力はもの凄いものがあります。
そして、ドキュメンタリータッチで当時を再現するという手法であるが為、
「この映像こそが、事実」だという説得力があります。

ですが、説得力のある手法で再現された物をいちいち「事実」だと認定してしまったら、
本当の「真実」が、後から書き換えられるものに堕してしまいます。

キャスリン・ビグロー監督は、前作、『ゼロ・ダーク・サーティ』にて、「アメリカの特殊部隊がオサマ・ビン・ラディン氏を暗殺した」という明確な証拠の無い当局の発表を事実として鵜呑みにした作品を作っています。

作り手が意識して「これが真実だ」と押し付けて来る作品に対し、それを無邪気に信じ込むことは危険であると観る方は忘れてはなりません。

『デトロイト』にて提起される問題、権力や人種差別というテーマ、
そして迫力の映像と実録風撮影法での圧倒的な緊張感。

これらが素晴らしいと作品を評価する事と、
映画(フィクション)を事実だと思い込む事とは全く別の問題です。

映画の出来が良すぎて、この辺を混同してしまわないか、多少心配な部分もあります。

 

  • 大義名分による正当化

アメリカでの白人による黒人への人種差別問題
これが本作『デトロイト』の根本に根ざす問題点です。

白人警官が目を付けた黒人を過剰に罰する。

これを目撃した周囲の黒人が反発してエスカレート、暴徒化してゆくという事件は、過去に何度も繰り返されています。

ワッツ暴動:1963年8月11日勃発
デトロイト暴動:1967年7月23日勃発
ロサンゼルス暴動:1992年4月29日勃発

普段、虐げられ、抑圧された黒人が、
白人の横暴や、権力に守られた裁判結果に憤り不満が爆発。
暴徒化した黒人を白人が武力で鎮圧という流れとなっています。

この「暴徒化」が曲者で、略奪や暴動を行ってしまうと、「暴動を鎮圧する」という大義名分を与えてしまい、警官側の対応をもエスカレートさせる事になってしまいます。

暴れているから、ここぞとばかりに、「殴っていいよなぁ」と警官も暴力に訴えて来るのです。

権力者に大義名分を与えてはいけない

それを巧みに利用し、自らの行動を正当化してゆくからです。

さらには大義名分を拡大解釈し、自らの個人的感情や主義、
本作で言うと、人種差別や暴力、殺人すら正当化してゆくという信じられない発想に達するのです。

 

  • 恐怖の尋問

23日に始まった暴動は次第に激化。
歌手のラリーは暴動から逃れホテルに逃げ込みますが、そこの宿泊客が面白半分でオモチャの銃を撃った事で事態が急転。
警官と軍がホテルに詰めかけます。

白人警官のクラウス達は先ず一人を射殺、捕まえた8人を「殺される」という恐怖で縛り、尋問を開始します。

この白人警官達の虐待は、
人種差別、大義名分による権力濫用、それらに加えて、
嫉妬と暴力性の発露も見られます。

メンバーの中にベトナムからの帰還兵がいます。
警官側からは、
役目を務めた軍人に対しする引け目
それと同時に若い白人女性と同じ部屋にいた、という事実による嫉妬が見え隠れします。

また、警官達は職務を懸命に遂行しているという表面的な部分の裏に、
権力で相手を屈服させる愉悦と、ゲームを楽しむ嗜虐性も見えます。

警官達は一人ずつ別室に連れて行き、証言を引き出す為に「始末」した風を装います。

端から見ると茶番と直ぐに気付きますが、当事者にすれば目の前に死んだ人間がいる以上、動かざる事実の如くに感ぜられます。

証言を引き出す尋問として、声を張り上げて真剣を装っていますが、恐慌を来す残りのメンバーを見て、警官達は明らかに楽しんでいるのです。

警官達は、自分に課せられた「役目」、
「銃を所持、あるいは隠した人間を探す」という行為を大義名分として状況を楽しみ、エスカレートさせて行きます。

これは、「スタンフォード監獄実験」をも思い出させます。

この実験は、普通の人をランダムに看守役と囚人役に分けるとどうなるのかという心理実験で、
人間はそれぞれに割り振られた役割に準じて行動するという結果が出ています。

本作においては、警官達は、
「私は警察なので職務を遂行している」という態で、暴力さらには殺人まで正当化し、
囚われたメンバーは為す術無く虐待されて行きく様子にその心理が見られます。

これは、黒人であり、全くの部外者であったハズのディスミュークスが「警備員の制服」を着て「銃を携帯」していたという見た目だけで、
白人警官達から排除される事なく事態の推移を目撃し続けた事からも推測されます。

ディスミュークスは警備員という一般人ではありますが、「制服」という権力を表す記号を身につけていた為に警官や軍人と同じ権力側と見做されたのです。

彼は一部始終を目撃しますが、しかし、一度制服を脱いでしまえば容疑者として後日尋問を受け、警察側から口止めに近い脅しを受けます。

結局、後日の裁判でも、白人警官達は無罪放免、
明らかにおかしい事態がまかり通るのは、権力側が自らの悪行を正当化しているからです。

恐怖の一夜から、裁判の経過を含め、一連の事態が人間の醜さを如実に表し、
そしてそれが実話ベースであるという事実に暗澹たる思いを抱かずにはいられません。

 

さて、尋問シーンで、何故銃はオモチャだったと、さっさと白状しなかったのか?と疑問に思われると思います。

これは、意地の部分もあったのかもしれませんが、一番の理由は、白人警官達の嗜虐性を伝える為だったからだと思われます。

見ている方はメンバーが無実と分かっていましたが、警官達はそうでは無い。

このズレがストレスを生み、警官の尋問をさらに理不尽なものと観客に印象付けます。

つまり、前後の話の整合性より、映画としての演出上の感情喚起に利用したのだと思います。

意識して作った脚本上の違和感なのでしょう。

 

 

本作『デトロイト』の迫力と臨場感は凄い。

特に、尋問シーンはさの最たるものです。

しかし、観客は何も出来ない。
その場に居るかの様な感覚に陥りながら、しかし傍観するしかありません。

そう、観客はディスミュークスの視点を共有します。

しかし、映画ではその傍観者たるディスミュークスすら容疑者として尋問されます

只、見ているだけでも事態に巻き込まれる、
我々観客も、無罪放免とは行かないのです。

人種問題、権力の横暴、そして、事件の後に人生をどう生きて行けばいいのか?
いろいろな問題を提起する本作『デトロイト』は骨太の作品なのです。

 

 

 


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さて次回は、骨太で芯が通っているから、捜査が鮮やかに進展する?映画『祈りの幕が下りる時』について語りたい。