孤独で妄想がちだった青年アーサー・フレックは生放送で殺人を行い、一躍、見捨てられた者達のカリスマに祭り上げられた。その名も、ジョーカー。
アーカム州立病院に収容されたアーサー。その実、軟禁状態だったが、同じく収容されていた患者のリー・クインゼルに出会う、、、
監督はトッド・フィリップス。
前作『ジョーカー』(2019)が大ヒットし、社会現象ともなった。
他の長篇映画監督作に
『ロード・トリップ』(2000)
『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』(2009)
『デュー・デート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断』(2010)
『ウォー・ドッグス』(2017) 等がある。
出演は、
アーサー・フレック/ジョーカー:ホアキン・フェニックス
リー・クインゼル:レディ・ガガ
ジャッキー・サリバン(看守):ブレンダン・グリーソン
メリーアン・スチュワート(弁護士):キャサリン・キーナー
ハービー・デント:ハリー・ローティー
ソフィー・デュモン:ザジー・ビーツ
ゲイリー・パドルズ:リー・ギル 他
2019年に公開され、
低迷していたDCコミック系の映画としては、
一般にも波及する異例の大ヒット、
内容の評価も高く、
何と、日本でもジョーカーの模倣犯が発生するなど
社会問題も巻き起こした問題作、
『ジョーカー』。
この前作は、
単体で物語が完結しており、
それ故の高い評価が成されていましたが、
しかし、
完璧と言える終わり方からの、
異例のヒットを受けての、
まさかの続篇決定のサプライズ。
監督と主演が続投、
しかも、
ハーレイ・クイン役として、
レディ・ガガも参戦と聞き、
期待と不安が相半ばしていました。
しかし、
ゆーて、それなりにオモロイでしょ!?
と思っていたところ、
日本より一週間先に公開された米国のレビューが大荒れ。
酷評の嵐で
興行収入も一作目に比べダダ下がりだと言うのです。
…こ、コレは何だ!?
どうしてこうなった!?
レビューの内容は見ずに、
低評価という噂の情報だけを携え、
ある意味、期待して観に行きました。
そして、率直な感想を言いますと。
いや、面白ぇ、
良いよ、コレ!!
賛否ある問題作という事ですが、
私は、楽しめました。
ただ、解る。解るよ。
前作『ジョーカー』の信奉者は、
何だこのクソは!!
と、怒るだろうなという事も、解ります。
前作のファンだったり、
コミックの「ジョーカー」のファンだったりする人は、
イメージが違う、
期待していたものと違う、
ダラダラこんなモノ見せるな!!
と憤慨する事間違い無しの内容となっております。
先ず本作、
上映時間が長いです。
作品に拠っては、
二時間超えでも余裕で耐えられるものもありますが、
それは、実際は稀。
殆どの映画が、
もっと削って、コンパクトに二時間以内に収めた方が、
より良い作品となるハズです。
本作肯定派の私ですら、
「長ぇよ」と感じて、
途中、ウトウトしたンですから、
否定派の人は、
より苦痛で、体感時間が長く感じたハズです。
そして本作を、
「法廷劇」とか「ミュージカル」として紹介されて、
観に行く人もいるかもしれません。
実は、コレも罠で、
「法廷劇」「ミュージカル」という要素は、
ぶっちゃけ薄いです。
そういう事前情報との齟齬も、
本作が評価を落としている要因の一つと言えるでしょう。
正直、ミュージカルシーンが多すぎて、
歌の場面削ったら、
もっとダレなかっただろうなぁ、と感じました。
いや、歌っているのがレディ・ガガだったら良いのですが、
歌唱シーンの殆どは、ホアキン・フェニックスですからね!
オジサンのカラオケに付き合わされるの、楽しいですか?
って事ですよ。
肯定派と言いながら、
否定的な意見ばかり言いましたが、
要は、それだけ衝撃作であるという事で
観客に苦痛を与えて、
それを耐えた先に面白さがあるという、
苦行の様な作品と言えるのかもしれません。
ホアキン・フェニックスと言えば、
今年、アリ・アスター監督の『ボーはおそれている』(2023)が公開されましたが、
アレが好きなら、
コレも好きかもしれませんね。
しかし、本作は是非、
特に、前作『ジョーカー』を高く評価した人にこそ、
観て欲しいです。
確かに、酷評の嵐ではありますが、
そういう事前情報に惑わされず、
自分の目で、判断して欲しい。
ある意味、
観客が試される映画、
それが本作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』です。
-
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のポイント
長い上映時間でダレる
観客を試す衝撃の「続篇」
役割と本性
以下、内容に触れた感想となっております
-
フォリ・ア・ドゥ
前作の好評を受け作られた続篇
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』。
先ずは、その副題を解説してみます。
「フォリ・ア・ドゥ(Folie à Deux)」とはフランス語で、
Wikipediaの記述を参考にしますと、
「感応精神病」と言われ、
複数人で同様の妄想を共有する事なのだそうです。
フランス語では人数や集団によって表記が変わりますが、
英語や日本語では、何人でも「フォリ・ア・ドゥ」と表現するとの事。
映画などの創作物に於いては、
集団幻想を表す時に使われたりもするそうです。
-
期待を裏切る怪作
と、いう事で、
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』です。
以下、作品の内容、結末に関わるネタバレがあります。
前作が高く評価されたにも関わらず、
本作は酷評の嵐。
何故、そうなったのか?
ズバリ言いますと、
本作は
観客の期待に背いた作品だからです。
前作『ジョーカー』は、
社会に虐げられ、踏みつけられた者が、
その怒りを爆発させる作品。
コミックで悪のカリスマとして描かれるジョーカーですが、
映画版では正に、
報われない者のルサンチマンの象徴として、
時代を反映するアイコンと祭り上げられます。
それは映画内に留まらず、
同時代性が強く反映されていたが故に、
現実世界に於いても、
ジョーカーこそヒーローだと、
強く共感する観客を、多く獲得しました。
謂わばジョーカーは、
社会の底辺で虐げられている者達のヒーローなのです。
それを受けて、
続篇である本作はどうか?
恐らく、
映画の「ジョーカー」をヒーローを崇める者達にとって、
続篇でも、
ぬくぬくとふんぞり返っている
イキったガキやいじめっ子、
上級国民達に鉄槌を下す様を期待していた事でしょう。
また、
ハーレイ・クイン役として、
レディ・ガガが起用されるという事前情報から、
「今回は、ハーレイと大暴れするのか?」
「相乗効果で、過激描写も二倍か」と、
想像した人も居るでしょう。
また、
映画が始まると、
地方検事のハービー・デントが登場します。
となると、
ジョーカーとハーレイで、
最期には、
ハービー・デントを闇堕ちさせる展開になると、
予想しながら鑑賞した人も多いでしょう。
しかし本作は、
その期待、予想を全て裏切ります。
寧ろ、その逆、
悪のヒーローが徹底的に凋落する様を描くのです。
-
ジョーカーから、アーサーへ
前作にてTV司会者のマレー・フランクリンを生放送で公開処刑した事で、
一躍、時代のアンチヒーローと成ったジョーカー。
続篇である本作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』では、
アーサー・フレックがアーカム州立病院に収容されている状態からスタートします。
そして、アーサーは、
5人の殺人によって起訴され(実際は母親を含めた6人)
裁判が間もなく開始されるという時期。
弁護士のメリーアン・スチュアートは
「犯行時のジョーカーは、アーサーとは別人格である」であり、
アーサー自体に責任は無い。
この「アーサー責任論」を争点として、
法廷にてアーサーを弁護します。
対するは、地方検事のハービー・デントです。
さて、そんなアーサーは、
アーカム州立病院の一般棟にて、
リー・クインゼルと出会います。
リーは、ジョーカーのファンであり、
事件の再現ドラマを30回は観たと力説。
ジョーカーこそ、
自分の真のヒーローだと、
アーサーに告げます。
ジョーカーを愛していると言い
アーカム州立病院を出ても、
毎日面会に来て、
法廷にも毎回駆け付けるという、
完全にストーカーと化しているリーに、
しかし、アーサーも満更でないご様子。
そして裁判が開始されますが、
リー・クインゼルのみならず、
裁判所の外にはマスコミが殺到し、
ジョーカーの賛同者達が大挙して訪れ、
それを警戒する警官隊も配備されています。
こうなれば、
物語的に、
法廷でメチャクチャやったジョーカーが、
結局は何らかの方法でアーカム州立病院を抜け出し、
新たな騒動を起こして、
ゴッサムの街を再び混乱に導く。
そう、予想するでしょう。
観客は皆。
しかし、
製作者側は、完全に、
その予想の正反対の結果を見せつけます。
リー・クインゼルや
ジョーカー信奉者、
そして、
前作で「ジョーカー」に共感した観客は、
ジョーカーに「フォリ・ア・ドゥ」した状態であり、
その目を醒まさせんとするのが本作の目的なのです。
弁護士を解雇し、
自分で自分の弁護をすると宣言してアーサーは、
「ジョーカー」衣装で法廷に立ちます。
そこで、証言台に召喚された
かつての友人、ゲイリーと再会します。
アーサーは気軽に挨拶しますが、
ジョーカーの犯行に怯えきったゲイリーは、
萎縮した様子。
彼は法廷で言います。
「自分を笑わなかったのは、アーサーだけだった」
「でも今は、ジョーカーが恐ろしくて仕方が無い」と。
そこで、
アーサーは気付くのです。
母にすら馬鹿にされ
恋人も妄想の中だけの存在
職場の同僚や、
会ったことも無い通りすがりの人物にすら虚仮にされる自分。
そんな自分を、
たった一人でも、
好ましく思っていた人物が居たのだと。
この事実と、
ジョーカーの信奉者がアーカム州立病院内にて看守に殺害される事件に直面し、
アーサーの心境に変化。
ジョーカーを強調するより、
ありのままの自分であるアーサーを法廷で晒します。
つまり、
ジョーカーは別人格では無く、
アーサー=ジョーカーであり、
自分に責任能力ありと宣言するのです。
これにより、
リー・クインゼル及び、
ジョーカー信奉者達は法廷から立ち去ります。
観客も、
「ん?」となるシーン。
その懸念は当たり、
アーサーは自らが作り上げた狂気の反骨者「ジョーカー」を卒業し、
アーサーとして刑が確定してしす。
リー・クインゼルや
信奉者の「フォリ・ア・ドゥ」により与えられた
狂気のペルソナ「ジョーカー」という役割を演じる事を、
アーサー自身が辞めてしまうのです。
そして、その最期は、
アーカム州立病院内のジョーカー信者に、
「失望した」と刺されて
アーサーは死んで幕を閉じます。
-
製作者達の落とし前
負け犬達の気持ちを代弁し、
時代の象徴、
アンチヒーローとして瞬時に祭り上げられた「ジョーカー」。
それは、映画の中だけではなく、
現実社会にも波及し、
製作者達の思惑を超えたヒットと影響力を見せつけました。
日本でも、
2021年10月31日、
ハロウィンの日に、
ジョーカーのコスプレをした犯人が
「京王線刺傷事件」を起こしました。
この事件自体が、
小田急線で起きた事件の模倣であり、
そして、
この事件を更に模倣した事件が起きるという、
ドミノ倒しの様相を呈しました。
そして、2023年7月31日に
懲役23年(求刑25年)の実刑判決が言い渡されます。
リアルの社会では、
好き放題にストレスを発散したツケは、
必ず払わされます。
映画のその場での高揚感のみでは終わらないのが、
現実なのです。
日本でも模倣犯が出る位ですから、
本国のアメリカでは、更に過激だったでしょう。
現実に犯罪者を生み出しているという状況に対し、
その路線を続篇で継承していいものか?
製作者はそれを諾とせず、
恐らく、批判や酷評は覚悟の上で、
敢えて、
祭り上げた神輿を破壊する映画を、
続篇として作り上げたのです。
批判、酷評、アンチの戯言、全部上等、受け入れますよと、
それが、
現実の社会を混乱に陥れた、
自分達が支払う落とし前という訳なのです。
本作には、
その覚悟が見えた、
だから、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は面白いのです。
今年は、
『マッドマックス:フュリオサ』
『デッドプール&ウルヴァリン』
『エイリアン:ロムルス』と
名作の続篇が多く公開されました。
どの作品も、
ファンの期待に応える、
従来のファンが観たい作品でした。
しかしそれは、
期待に添うても、想像を超えるものでは無く、
ある意味「過去作ありき」の軛(くびき)を免れないという制約の下
作られているとも言えます。
しかし、
前作の高揚感、テーマ性を全て破壊するという、
こういう過激な続篇もあるのだと、
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は見せつけるのです。
そんなチャレンジ精神と責任感を観る事になるとは。
本作は、
そんなサプライズを受け入れるか否かで、
評価が大きく変わると言えます。
まぁ、
確かに、裏切られた!!と、
キレる気持ちも解ります。
しかし、
日本の観客には、ある意味耐性があるのではないでしょうか?
実は、同じ道を、
我々は25年ほど前に通っている!!
それは、
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)です。
まぁ、
「エヴァ」は
期待に応えつつも、予想と想像を超えつつ、
アニメの途中に、観客に、突然実写を見せつけて、
「現実に還ろう」とか言い出す、
メチャクチャな作品だったので、
唖然呆然とする作品だったのですが、
私は、本作に於いては、
あの「エヴァ」の、
悪い所を批判する時の言説が、
本作にも当て嵌まっているのかな、とも思い出しました。
-
リー・クインゼルとは何か
確かに気付けば
リー・クインゼルは
事前の予想と違い
=ハーレイ・クインではありません。
言っている事も、
冷静に聞けば、
嘘とハッタリばかり。
「妊娠した」とか言うのも嘘でしょうし、
「ジョーカーが外に出たら、何かする?」という質問に対し
「山を作る」とか、
大きいことを言うが、具体性が無いという
まるで、
小泉進次郎みたいな事を言ったりもします。
結局、
信奉者という者は、
口だけペラペラ達者で
神輿に責任をなすりつけている、
無責任者の烏合の衆に過ぎないと、
本作は活写しています。
リー・クインゼルとアーサー・フレックのラストシーンは、
前作での象徴的な階段を降りるシーンのオマージュとなっていますね。
本作では、
アーサー・フレックとして階段を上がり、
みっともなくリー・クインゼルに愛を語りますが、
アーサー自体に興味が無いリー・クインゼルは、
失望も露わににべもなく、彼をあしらいます。
リー・クインゼルはハーレイ・クインでは無く、
本作に於いては、
前作を信奉し
本作を観て「失望した」と喚く、
酷評する観客の象徴と言えるのです。
-
ミュージカルシーンの意義
そして、本作を構成する重要な要素である、
ミュージカルシーン。
正直、私は要らないと思いましたが、
本作におけるミュージカルシーンとは、
そのまま、
アーサー・フレックの現在の心境に他ならないのです。
気分が高揚している時、
攻撃的な雰囲気の時、
猜疑心が湧き怒った時、
その心情を歌として披露しています。
…まぁ正直、
歌わなくとも、普通に何を考えているか解るのですが、
誰でも理解出来る様に、
ダメ押しをしている感すらあります。
状況を台詞で全部説明する漫画作品の様で、
それがうざったいのですが、
一々ミュージカルで気持ちを披露しているが故に、
製作者の意図しない、
突飛な解釈を拒否しているとも言えて、
そういう意味では、
必須だったのかもしれません。
-
オマケの小ネタ
本作の冒頭の
印象的なアニメーションシーン。
何か、ちょっと
アニメ映画の『ベルヴィル・ランデブー』(2003)を彷彿とさせるな、
と、思ったら、
何と
本当に『ベルヴィル・ランデブー』の監督であるシルヴァン・ショメが手掛けているとの事。
アーサーが、
彼自身の意図を超えて動きだす
自身の影に翻弄される冒頭のシーンは、
本作を象徴しているとも、
後になって気付きます。
社会の底辺で喘ぐ者達のアンチヒーロー
ある意味、
時代の象徴として祭り上げられた
前作『ジョーカー』。
しかし『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に於いては、
悪の象徴ジョーカーとしての役割(ペルソナ)を全うするよりも、
小市民として刑に服す事を選ばせ、
その共同幻想を木っ端微塵に打ち砕く事を目的としています。
前作が好きな人ほど、
ダメージがデカいという、
強烈なカウンターアタックですが、
酷評を恐れず、落とし前を付けようとした、
その続篇としてのサプライズと覚悟に、
私は敬意を表したいです。
確かに、映画作品として
観客を楽しませる事には、失敗しているでしょう。
しかし、
その意義、意気や良し、
と私は評価したい。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、そんな作品です。