映画『ボーはおそれている』感想  奇妙奇天烈!!不条理で不合理な里帰り!!

数ヶ月ぶりに、記念日に母のモナに会いに行く予定だったボー。しかし、寝坊し、すったもんだの挙句に、結局フライト時間に間に合わず、母にお断りの電話を入れた。
その翌日、母の頭がシャンデリアに潰されて死亡した。ボーは母(の遺体)に会いに里帰りしようとするのだが、、、

 

 

 

 

 

 

監督はアリ・アスター
初監督作『ヘレディタリー/継承』(2018)にて、世界の度肝を抜いた。
続く長篇映画監督2作目の『ミッドサマー』(2019)にて、
再びその名を轟かせた。
日本では2020年2月に公開され、コロナ期間直前のスマッシュヒット作品となる。

 

出演は、
ボー:ホアキン・フェニックス
フリール医師:スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン
グレース:エイミー・ライアン
ロジャー:ネイサン・レイン
ジーヴス:ドゥニ・メノーシュ
エレイン:パーカー・ポージー
モナ・ワッサーマン:パティ・ルポーン

 

 

 

当代随一の性格俳優ホアキン・フェニックス。

デビュー時には
「リヴァー・フェニックスの弟」という認識でしたが、

近年は主演クラスを演じる事も多くなり、
押しも押されもせぬ、名優と言えるのではないでしょうか。

 

そのホアキン・フェニックスが、
あの、アリ・アスター監督の最新作に出演する!?

嫌が応にも期待とハードルが高まってきます。

 

『ヘレディタリー/継承』
『ミッドサマー』と、
ホラー映画でありながら、
傑作を2作品も続けて生み出して来たアリ・アスター監督。

その最新作は如何に!?

 

流石に、
鑑賞前の期待値が高すぎたのか、
大傑作とは言えません。

それでも、

変な作品、キタ~!?

 

と唸ってしまいます。

 

似た作品を挙げますと

北野武の映画で言うなら、
『HANA-BI』(1998)や
『アウトレイジ』(2010)系では無く、

『TAKESHIS’』(2005)。

宮崎駿で言う所の、
『崖の上のポニョ』(2008)的な作品です。

デヴィッド・リンチで言う所の
…まぁ、全部か。
全部だけれども、
敢えて言うなら『インランド・エンパイア』(2006)ですね。

 

奇妙奇天烈摩訶不思議、
意味不明な作品と言えます。

 

でも、
そういう作品って、
好きな人はハマるタイプの作品なんですよねぇ~

まぁぶっちゃけ、
個人的な鑑賞前の期待とは違った作品でしたが、

私も、
本作のイカれっぷりは、

悪くないと感じています。

 

基本は、

里帰りという名の「オデッセイ(冒険)」です。

 

その里帰りする切っ掛けが、
母の怪死で、

その過程で出会うのは、
奇人変人、
奇っ怪な出来事の数々。

 

なので、
真っ当な作品だと思って観ると、
痛い目みます。

痛い目を見るというか、
寝ます。
夢見ちゃいます。

とにかくクセの強い本作は、
ただ、流されるままに鑑賞せずに、

より、アクティブに、

驚きながらも、意味を考えつつ、

又、

鑑賞後に、
あれこれ考察したり、
自分なりの判断の下に咀嚼し、消化するのが楽しいタイプの作品と言えるのです。

 

ホラーでありながら、
それと紙一重の
ブラックユーモアに満ちた本作『ボーはおそれている』。

一筋縄ではいきませんが、

それ故の面白さのある作品と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

  • 『ボーはおそれている』のポイント

ホラーとユーモアは紙一重

奇妙奇天烈摩訶不思議な里帰り

人生という名の不条理

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

 

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  • 奇妙な作品

『ヘレディタリー/継承』
『ミッドサマー』と、
連続して傑作を世に送り出したアリ・アスター。

待望の長篇映画第三弾の本作『ボーはおそれている』は、

流石に、期待が高すぎたこともあって、
大傑作とは言えませんが、

しかし、

それでも、
奇妙な味わいのある印象深い作品と言えます。

 

過去の映画作品で似ている作品を挙げるなら、

北野武の『TAKESHIS’』
宮崎駿の『崖の上のポニョ』
デヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』など思い浮かびます。

変度で言えば

「ポニョ」<「たけし」<「ボー」<「インランド・エンパイア」です。
(個人の感じ方です)

なので、
宮崎駿の作品で、
『崖の上のポニョ』が(宗介の次に)一番スキー
みたいな人なら、

本作も楽しめるかと思われます。

私個人で言いますと、
傑作とは言い切れませんが、
楽しんで鑑賞出来ましたね~
割と好きかも

 

  • ボーの主観

私個人としては面白かったですが、

まぁぶっちゃけ、

映画慣れしていない人が本作を観ても、
ちんぷんかんぷんで意味が分からないと思われます。

 

で、
先ず、本作を理解する為の導入として、

何故、こんなに奇妙奇天烈な世界観なのか?

という事の「訳」に気付く必要があります。

 

映画冒頭、
ボーの住むマンションの地区は、
まるで、映画『パージ』(2013)の「パージ」真っ最中というか、
或いは、
『北斗の拳』というか『マッドマックス』(1979)的な、

荒廃した近未来感が漂っています。

冒頭のみならず、

風呂場でスパイダーマンごっこする見知らぬ他人とか、
ペンキをがぶ飲みする少女とか、
叫びながら銃を乱射する狂人とか、
『オズの魔法使い』みたいな道路とか、
ゲームの「真・女神転生」の「マーラ」みたいな巨大チンポとか、

奇人変人怪物異世界のオンパレードです。

 

本作は、
ジャンルとしては、ホラー映画。

しかし、
アリ・アスター監督は、パンフレットに拠りますと
本作をあたためていた再序盤の段階では、
「純然たるコメディ」としてスタートしたと語っています。

で、その初期稿をブラッシュアップして、
現在の形になった、と。

 

風呂場で、
自分に滴る「水」に気付いて、
上を見上げると、

そこには、
見知らぬ他人が狭いスペースに貼り付いており、
今にも、落ちてきそうだ!!

と、いう状況。

ホラーではありますが、
傍から見ると笑ってしまいます

その後は、
落ちてきた男と、
バスタブの中で裸で組んずほぐれつ。

この、
ホラーとブラックユーモアの表裏一体が、
本作の基本事項として通底しています。

 

そんな状況だから、
「あ、本作は、ある種のファンタジーなのか」と
認識しがちです。

映画ならではの、
純然たるフィクションなのだ、と。

しかし、
ここで、映画の最初のシーンを思い出して欲しいです。

何か、地割れの様な、
マイクの音割れの様な、
ボンボンした音と共に、
光が見えてきます。

このシーンは、
ボーが生まれる瞬間」であると考えられます。

子供を生んでいる最中にも悪態が尽きないモナ・ワッサーマン(と思われる)の存在で、
それが推測されます。

 

つまり、です。
冒頭にて、
本作は、ボーの主観である
という宣言が成されているのですね。

 

勿論映画なので、
我々はボーを第三者目線で観ています。

しかし、
我々が観ている『ボーはおそれている』という映画作品の
世界設定そのものが、
ボーの主観なのです。

つまり
「ボーが視て、感じている世界」を、我々も観ている

という事になるのです。

 

映画冒頭の
ボーが暮らしているマンションの近辺。

狂人が跋扈し、
殺人鬼が徘徊している、

ここは正に世紀末な世界。

もしかしたら、
実際には、
我々が暮らしている日本や、
普通のアメリカの街並み程度の風景なのかもしれません。

しかし、
不安神経症な感じのボーにとって、
世界は世紀末に視えているのではないでしょうか。

それを考慮すると、

作品冒頭、
「部屋の鍵がなくなった」
「旅行鞄が盗まれた」
というボーの主張は、

彼からすると(映画内の描写では)外的要因なのですが、

実際には、
ボー自身の内的要因(母親に会いたくねぇ、という潜在意識)によって、
旅行をボイコットしていると解釈する事も出来ます。

 

本作にて、
徹頭徹尾、ボーは理不尽にさらされています。

作品中では、
彼は完全なる被害者にしか見えませんが、

しかし、
作品自体が「ボーの主観」であると考慮するならば、

ホラーと表裏一体のブラックユーモアよろしく、

実は、もしかしたら
ボー自身に原因があり、
ボーが、世界に混乱を招いているのでは?
と、思わせてきます

ボーの主観で視る世界と理解したとて、
真実は何処にあるのか?

そういう拠り所の無い不安が常に表裏一体で付きまとう、
それが、本作の面白い所であるとも言えます。

 

  • 不条理で、不合理な旅路

その観点で冒頭のシーンを思い出してみると、
ボーの部屋に「音楽がうるさい」というメモを投げ入れていた謎のシーンも、
何となく、理解が出来るかもしれません。

私の想像では、
里帰りがプレッシャー
→夜眠れない
→眠れないのは音楽がうるさい所為だ
→音楽が鳴ってないのにうるさい
→故に、うるさいという手紙が投函されている

という、
訳の分からぬ理論展開が起きている
の、かもしれません。

 

また、
マンションに奇人変人が大挙して押し寄せていたのは、
つまり、

マンション=ボーの頭の中であり、

頭の中に、
他人が土足に乗り込んで好き勝手に騒いでいるというというのは、

彼の自己意思とは無関係に、
頭の中が混乱した状態であるという謂なのかもしれません。

 

しかし、
いくらボーの頭の中が混乱しているとはいえ、
それを差し引いても、

ボーの帰郷の旅は
理不尽で不合理に満ちたものでした。

 

車にはねられた上に、
何故か病院に連れて行かれなく、
実質拉致され家族のすったもんだに巻き込まれる。

移動劇団の「森の孤児」の演劇シーンでは、
劇に感情移入しつつ、妄想を膨らませ、
アニメシーンが挿入、
想像の家庭を作り上げるも、

しかし、
自分で自分に
「でもお前、童貞だろ」
ってツッコんでるのが意味不明で興味深いです。

そして遂に、
母の葬儀に辿り着くも、
初恋の相手は初体験で腹上死し、

死んだハズの母は替え玉だったし。

この替え玉の、
ボーの昔馴染みの家政婦のマーサは、
回想シーンにて、
作中、唯一、ボーが自然に笑顔になっていた様に思われます。

 

この旅路、
「水」のイメージが強く印象付けられています

先ず、冒頭の生まれるシーンも、
胎内のゴボゴボという、
まるで水中で音を聞くような場面から始まります。

母の怪死を聞いた後に向かうのも、
バスタブですし、

ハッパを吸った後の回想シーンでは、
船旅の場面、

「森の孤児」の演劇シーンでの妄想アニメでは、
家族が離ればなれになるのは、洪水。

ラストシーン、
ボートに乗って、
水上に向かっていますしね。

 

このラストシーン、
開けた場所に出たかと思ったら、
急に、洞窟内みたいな場所になっています。

恐らくこのシーンは、
穴の中に戻る、
つまり、
生まれる前の、母の子宮に戻る、
幼児還りならぬ、
胎児還りのシーンだと思われます。

『崖の上のポニョ』の終盤でも似た様な場面がありましたが、
そこでも、
水上のボートと、女性器を思わせる洞窟の割れ目の中で入って行くシーンがありました。

アリ・アスター監督が意識しているのかは分かりませんが、
同じ事を暗示したらなら、
似た様なシーンになってしまったのかもしれません。

 

他にポイントとして気付いたのは、
「森の孤児」の妄想アニメシーン。

これは、
アリ・アスター監督曰わく、
『オズの魔法使い』(1939)を意識したとの事。

因みに、
アニメシーンの監督は、
『オオカミの家』(2018)の監督である
ホアキン・コシーニャクリストバル・レオンの二人です。

 

『オオカミの家』は、
空前のストップモーションの映像表現にて、
悪夢的世界を表出した作品でしたが、

そんな彼達が、

ボーの、ある種の
幸せな妄想を描いているのが、
興味深いですね。

妄想とは、
幸せと表裏一体の悪夢である、
と言っているのかもしれませんね。

 

で、
その妄想アニメでのボーはまるで、
『オズの魔法使い』を考慮するならば、
「案山子(かかし)」を彷彿とさせます。

『オズの魔法使い』の「案山子」は、

旅のメンバーの中でもキレ者ではあるのですが、
彼自身は、
エメラルドの都で、
思考の為の「脳みそ」を欲しがっていました。

つまりこれは、
ボー自身も、
自己意思や思考が奪われている事、
それを希求している事を表しているのではないでしょうか。

 

  • 母 vs. 家父長制

それだけでは無く、
この奇妙な帰郷は、
今までのアリ・アスター監督の過去作と同じく、

家族の相克、
恋人、家族との理不尽な別れというテーマを、
踏襲しています。

 

車にはねられたボーが連れてこられた家庭では、

グレースとロジャーの娘トニは、
その容姿が『ヘレディタリー/継承』の妹・チャーリーに似ています。

「森の孤児」では、
どことなく、
『ミッドサマー』の閉鎖的コミュニティ「ホルガ」を彷彿とさせます。

母の家での、
緊張感あるボーとモナの会話は、
「ヘレディタリー」で、ギスギスになった後の
アニーとピーターの会話を思い出します。

 

そして、
それらを彷彿をさせるという事は、
本作でのテーマも、
人間関係の、
特に家族関係のギスギスを描いているのですが、

本作で描かれているのは、

母の父、夫、息子殺しであり、
母性を放棄し、
男に代わり家父長制の権化となった姿と言えます。

 

ボーのマンションに有象無象が侵入する
=頭の中に自分以外の意思決定が存在する

又、

理想の人生としての妄想シーンで、
脳みそを欲しがる「案山子」の様な出で立ちをする

これらはつまり、
自らに自由意志が存在しない事の表われではないでしょうか。

 

母モナの家に着いたボーは、
母のオフィスにて、
人物のモザイク画で、自画像を描いた画を見つけます。

そこには、
旅の登場人物、
作品の冒頭、親子像を売っていたアジア人や、
外科医のロジャーなどの姿が見受けられます。

他にも、オフィスのポスターにて、
ボーが住むマンションはモナの会社の息がかかっており、
ボーの飲む薬も、モナの会社のものだったり、その他諸々が判明します。

つまりは、
全て母の支配下に置かれた、
仕組まれた不条理、不合理な旅だったのだと判明します。

 

ラストの直前、
ボーの悪夢で出て来る屋根裏部屋に侵入する場面。

ここは、
初見では、自分と同一人物が鎖に繋がれている様子を見つけます。

これは、
悪夢の中のもう一人の自分を投影したものなのか、
それとも、
自分と瓜二つの、父親の姿を思い浮かべたのか。

しかし、次の瞬間には、
まさかの予想の斜め上、
巨大な男性器が鎮座ましましているのが
意味不明で奇妙過ぎます。

 

ボーの生年は、
演じているホアキン・フェニックスと同じ、
1974年生まれ。

2023年公開時、同年と考えると、
ボーの年齢は49歳。

幼い頃から、
性行為時に腹上死した父親と、
それを遺伝的に継承していると脅され続けたボーにとっては、
49歳まで童貞だったを推測されます。

 

トニのハッパを吸ってキマっているボーは
過去の回想を思い出します。

船旅のボーは、
少女エレインに出会い初恋し、

そのエレインは、
別れの直前、ボーにキスします。

そのシーン、
どうやら夜で、
見た感じ12歳くらいのボーは、
未だに、母と一緒に寝ている様に見受けられます。

 

これらの事を考慮すると、

ボーは、
母に様々な場面で男性性を抑圧され続けていたのでしょう。

故に、
ボーは父親の存在に、
男性性そのものを求めた
それが、
巨大な男性器=強大で理想(?)な父権を求めたと言えそうです。

 

また、
ボーの年齢が49歳だとすると、
年齢より、大分老けて見えます。

モナの年齢も、
演じているパティ・ルポーンと同じ(1949生まれ)とするなら、
71歳となります。

しかし、
モナは71歳に見えない位、若作りであり、

寧ろ、
ボーの方が年上と見る事も可能です。

 

つまり、

ある意味、ボーは、
父、夫、息子という、
三位一体の存在であり、

モナは、ボーを通して
その三位一体の全て=家父長制的な父権を支配しようとしている様に見えます。

脳の無い案山子の様に、
自由意志を奪われたボーは、
父として夫として息子として徹底的に管理され去勢されているのです。

 

ラストシーン、
ボートに乗ったボーは、
ドームというか、アリーナみたいな所に出ます。

船旅が子宮還りならば、

アリーナ席にいる観客達は、
さながら、
ボーに「出生」の権利を奪われた精子達と言えるのかもしれません。

 

そこで、
ボーは弾劾されますが、

この主張もまた理不尽。

一方的にモナ側の視点の
物事を悪い方へと捉えた「思い込み」を状況証拠として提出します。

 

しかし、
映画を観ているだけでも、

例えば、
ロジャーに「家に送るのは明日」と言われ、
「なら、自分で行く」と言ったシーンが、

裁判では、
「今すぐ行かなくて、明日にする」と
ボーが主張したかの様に、改変されています。

 

又、
息子を探している母が転んだ時、
助けに行かなかったボーも、責められています。

しかし、
ヒステリックに騒ぐモナの様子を見るに、
これは逆に、
モナから逃げ、隠れているとも見受けられるシーンです。

 

全て、捉え方次第で、
モナが勝手にネガティブに捉えて、
それを、
ボーの所為に押し付け、
彼の男性性を搾取しているだけに見えるのです。

 

ラストシーンも象徴的です。

泣き叫びながら抵抗していたボーは、
最後、
全てを諦めたかの様な表情で黙りこくり、棒立ちとなります。

恐らく、
ボーの人生、全てがこんな感じなのでしょう

母の主張のゴリ押しで、
最終的には、
自分の意思が封殺され、
飲み込まざるを得ない。

 

自由意志を放棄した末路が、
不合理で不条理な死という、

何とも、
無慈悲な結末と相成ってしまうのです。

 

 

 

本作は、
普通のエンタメ映画作品の持つ、
「ラストでのカタルシス」というものが存在しません。

しかし、

そのシビアな結末であるが故に、

人生における不条理、不合理、無慈悲、
それが故の滑稽さと哀しみが込められているのではないでしょうか。

 

『ボーはおそれている』。

人を選ぶ作品ですが、

イカれているが故に、
興味深い作品であると言えます。

 

 

 

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