映画『哀れなるものたち』感想  相手を見て、自らの哀れさを知る!!

天才外科医ゴドウィン・バクスターの手によって死から蘇った女性、ベラ・バクスター。手術の影響で知能は幼児レベルながら、日々、物事を学び、成長していた。
庇護されて育つベラだが、しかし、彼女はそれに満足せず、外の世界を見てみたいと願うのだった、、、

 

 

 

 

 

 

監督は、ヨルゴス・ランティモス
ギリシャ出身。
主な監督作に、
『籠の中の乙女』(2009)
『アルプス』(2011)
『ロブスター』(2015)
『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(2017)
女王陛下のお気に入り』(2018) 等がある。

 

原作は、アラスター・グレイの小説『哀れなるものたち』。

 

出演は、
ベラ・バクスター:エマ・ストーン
ゴッドウィン・バクスター:ウィレム・デフォー
マックス・マッキャンドレス:ラミー・ユセフ
ダンカン・ウェダバーン:マーク・ラファロ 他

 

 

 

第81回ゴールデングローブ賞の「ミュージカル・コメディ部門」にて、
作品賞と主演女優賞(エマ・ストーン)を獲得した『哀れなるものたち』。

アカデミー賞でも本命の一つと名高い本作は、

年齢区分がR18+(18歳未満入場、鑑賞禁止)に指定されています。

 

 

さて、
『哀れなるものたち』です。

本作で先ず惹かれるのは、

画面の色使いや衣装のオシャレさです。

 

 

ビジュアル面が凝っており、
画面を観ているだけでワクワク感があります。

では、オシャレ映画なのか?
と思われるかもしれませんが、

そう思って観に行ってしまうと、
大変な痛手を被ってしまいます

 

先ずは本作、
年齢区分に違わず、

性行為描写が多数存在します。

 

 

そして、
天才外科医のゴッドウィン・バクスターが、
マッドサイエンティストっぽいので、

若干、フリーク気味な描写も多いです。

 

 

性描写、
フリーク描写が多い本作、

手放しで全ての人に勧められるものではありません。

 

しかし、
その方面が気にならない、
免疫があるという人ならば、

取り敢えず、
鑑賞に堪えうると思われます。

 

それだけでは無く、本作、

SF風味と
ブラックジョークがまぶされています

 

ので、
そっちの方面にも耐性が必要です。

メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』とか、
ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』なんかも彷彿とする作品なのです。

 

『ラ・ラ・ランド』(2016)のエマ・ストーンが主演、
ゴールデングローブ賞獲得!!

という惹句でホイホイ釣られたら、
イメージと違う!!

アマゾンレビューで星一つを付けてしまうでしょう。

 

し・か・し、

その点が「気にならない」
という人にとっては、

本作、主役のベラの
目眩(めくるめ)く冒険、
流転と成長の軌跡に、
心を奪われる事でしょう。

 

『哀れなるものたち』はクセが強い作品です。

万人が楽しく鑑賞出来る作品ではありませんが、
嵌る人にはハマる!そんな映画と言えます。

 

 

 

  • 『哀れなるものたち』のポイント

画面の色彩感覚、衣装がオシャレ

性描写多数、フリーク描写もありでクセが強い部分もアリ

自己投影して他人と接する、人の哀れさよ

 

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

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  • 「哀れなるもの」とは

『哀れなるものたち』
原題は『Poor Things』。

訳すると、
「愚かモノ達」と言った所でしょうか。

 

本作の主役、
ベラ・バクスターは、

身投げして死亡したばかりの妊婦を「拾った」ゴッドウィン・バクスターが、

死亡した母親の脳を取り出し、
そこに、まだ生きていた胎児の脳を移植したという衝撃設定。

 

故に、
ベラは赤子の様に無垢で、
自由奔放天真爛漫な人物として描かれています。

しかし、
内面は赤子でも、
外見は成熟した女性の為、
そのギャップに「萌える」男性が続出。

ある者は愛情を注ぐ対象とし
ある者は心奪われ、
ある者は性的に興奮し、
ある者は、その無垢性を汚したいと考えます。

 

要は、
パッと見、
バカに見える為、
自分でもどうにか出来ると思い、
己の理想、願望、欲望をベラにぶつけているのですね。

 

しかし、
この「女性を意のままに出来る」という思い込みこそ

本作の題名が示す通りの
「哀れなるものたち」の一人芝居であると言えるのです。

 

ゴッドウィン・バクスターの場合は、

ベラを娘の様に慈しみ、
愛情を注ぎます。

自分自身はマックスに
「観察対象に必要以上に感情移入するのは、科学者の知見では無い」と
言っているにも関わらず、です。

 

ベラには「ゴッド」と呼ばれ、
神か創造主の様に慕われているゴッドウィンですが、

彼自身は、
同じく、天才外科医と名高かった父親に、

まるで実験動物として扱われ、
数々の身体的虐待を受け続けたという過去があります。

 

つまり、
ゴッドウィンのベラに対する愛情とは、

自分が父親から受けたかったものであり、

結局は、
ベラに自己投影をしているのだと言う事が出来るのです。

 

ベラに惚れて、
彼女に無償とも言える愛を注ぐマックスも、
そうであるが故に、
ベラが最後に戻って来る相手となります。

 

弁護士で且つ、プレイボーイであるダンカン・ウェダバーンは、

適当に遊んでベラを捨てるつもりが、

逆に、
自分に惚れさせて捨ててきた女性の末路の様な顛末に、
自分が陥ります。

 

皮肉屋のハリーは、
無垢だったベラを傷付ける為に「貧富の差の現実」を突き付けますが、

それは自分自身が
思索や哲学では乗り越える事の出来ない現実的な問題点に苦しんでいる事の
証左であるとも言えます。

 

娼館で出会った客には、
客自身の「そうして欲しい」という欲求を叶える存在として、
プロに徹し、

そしてかつての夫の「将軍」に関しては、
作中で最も残酷な
ヤギと脳の入れ替えという、
人としての自由意志の剥奪という憂き目に遭います。

 

結局は本作、
ベラに関わった人間(主に男性)は
相手に対する接し方、願望、欲望が

そのまま自分自身に返ってきている

鏡の様な、
因果応報を誘発する装置として機能しているのです。

 

私の本作の好きなシーンに、

娼館にて、
子供にセックスの方法を教えたいと、
男の子を二人連れで訪れた父親と性行為をする場面があります。

父親は、
「こうして挿入してピストンすれば射精する」と言いますがイケず、
そういう場合はどうすればいいのか?と子供に尋ねられますが、

代わりにベラが
「首を絞めたらイクよ♡」と答えます。

父親は
「やめろ、そんな事は無い……イクッ」
となった場面ですね。

 

言わず語らず、
ベラは父親の性癖を、彼以上に理解していたのですね。

まぁ
劇場で笑いを堪えるのが大変なシーンでした。

 

逆に、露悪的だなと思ったシーンは、
ハリーがアレクサンドリアにて、
貧民窟で喘ぐ民や、死んだ赤ん坊の山などの、
惨状を見せつけた場面です。

ベラは、
ダンカンがギャンブルで稼いだ金を持ち出して、
それを、苦しんでいる人に渡そうとします。

そして、
それを見かけた船員に、
「私が代わりに渡しておきましょう」と提案され、
「じゃ、お願い」とお金を預けてしまいます。

 

どうせ、船員はお金を自分のものとするでしょう。

このシーンは、
物事は中抜きが一番儲かるという
物事の真理と、

思索、哲学のみでは世界を変えられないという
無力感、厭世感、

そして、
金を払えば贖罪した気になるという、
人間の罪悪感への問題提起になっています。

 

このシーン、
問題提起にはなっていますが、
それ以上にはなっていないンですよね。

結局、
映画を鑑賞者する様な「余裕のある」人間を、
嫌な思いにさせるだけで、
それ以外の意図が無い場面なのです。

 

思索と哲学のみでは人は救えず、
故に、
肉体言語と体験に重きを置く、

つまり、
セックスの体験を通して世界を知る手段としているベラの遍歴を強調する事となるエピソードなのですが、

ベラはともかく、
観客自身はどうするのか?を問われているシーンであるとも言えます。

 

ベラは体験を通して、
行動が人間を規定すると知り、
「父親と同じ外科医になる」と決断しますが、

世界を救う為には、
我々は何をするべきでしょうか?

問題提起になっており、
本作のテーマにも関わる重要な転機なのですが、

ちょっと趣味が悪いな、とも思いました。

 

 

 

画的な綺麗さ、衣装のオシャレさ、

性的な奔放さ、
フリーク趣味、

そして、SF風味とブラックジョークに溢れた

人間の成長物語。

本作は、
他人への接し方を通して、
自分をさらけ出す人間の性(さが)を描いています。

強烈な印象を残す本作『哀れなるものたち』は、

毀誉褒貶が相半ばするでしょうが、
好きな人は、もの凄く気に入る作品と言えるでしょう。

 

 

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