映画『ハロウィン THE END』感想  恐怖、悪意、暴力との対峙と、その決着!!

2018年。復活したブギーマンことマイケル・マイヤーズは、ハドンフィールドの町に再び惨劇をもたらし、そして姿を消した。
それから4年経過した。ローリー・ストロードは新居を購入し、孫娘のアリソンと共に暮らしていた。そんなある日、ローリーは不良学生に絡まれているコーリーに出会う。彼もまた、ハロウィンの夜に災難に出会った人間であった、、、

 

 

 

 

 

 

監督は、デヴィッド・ゴードン・グリーン
ハロウィン』(2018)
ハロウィン KILLS』(2021)に続き、
本作でも監督を務める。

他の監督作に
『ボストン・ストロング ~ダメな僕だから英雄になれた~』(2017)等がある。

 

 

出演は、
ローリー・ストロード:ジェイミー・リー・カーティス
アリソン:アンディ・マティチャック
コーリー・カニンガム:ローハン・キャンベル
ウィル・パットン:フランク・ホーキンス
カイル・リチャーズ:リンジー・ウォレス

マイケル・マイヤーズ/ブギーマン/ザ・シェイプ:ジェームズ・ジュード・コートニー 他

 

 

 

伝説が、壮絶に、終わる

これは、ある映画のキャッチコピーです。

その映画の名前は、
『ダークナイトライジング』(2012)です。
ノーランバットマンこと、
「ダークナイト」3部作の完結篇公開時に付けられていました。

 

で、
本作『ハロウィン THE END』なのですが、
こちらのキャッチコピーが、
恐怖が、壮絶に、終わる」です。

いやいや、まずいだろ、ソレ。

3部作の完結篇、
句読点の打ち方が一緒、
伝説→恐怖に変更しただけ、
バットマンは8年姿を消していた
ブギーマンも4年姿を消した…

コレ、怒られるでしょ!?
佐野研二郎氏の五輪エンブレムのパクリ問題くらい炎上してもおかしくないですよ!?

絶対誰か気付いたでしょ!?
何で止めなかったの!?

 

まぁ、実際は
全然、誰も、ツッコんでませんがね!!

 

 

さて、茶番はこの位にしておいて、
本作『ハロウィン THE END』です。

1978年に公開された、
ハロウィンシリーズの第一作目である『ハロウィン』、
その直接の続篇として作らたのが、
2018年公開の『ハロウィン』。

これは、
ホラー映画の(年月を経た)続篇として完璧と言える作品でした。

そして、
その、更に続篇として作られたのが、
『ハロウィン KILLS』(2021)。

前作で綺麗に終わった話を、どう続けるのかと思いきや、
まさかの、
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)みたいなノリの、
殺人鬼大暴れ作品でした。

 

どちらの作品も、
ホラー映画として、インパクト、面白さが飛び抜けており、

必然、本作の期待も高まりました。

で、
本作『ハロウィン THE END』は、
何が描かれ、
どの様な作品に仕上がっているのでしょうか?

 

 

本作で描かれるのは、

恐怖、悪意、暴力との対峙です。

 

デヴィッド・ゴードン・グリーン監督の「ハロウィン」3部作は、
各々、
違ったテーマにて描かれたホラー映画作品ですが、

本作においては、
「恐怖とどう向き合うのか?」という事をテーマに描かれています。

これはつまり、
ホラー映画をどの様に終わらせるのか?

というテーマとも繋がり、
中々、興味深いなと感じました。

 

冒頭、
新キャラのコーリーが出て来て、
何だか、ゆっくりめなペースで映画が開始されます。

と、思いきや、
急転直下で悲劇が爆誕!!
そこからいつものテーマ曲が流れる!!

 

この冒頭の流れを継承し、
本篇の内容、展開も、
過去の2作品と比べると、トリッキーな作品と言えます。

 

しかし、
これは、完結篇という事を意識し、
観客を飽きさせないという工夫が感じられ、
個人的には、面白い試みだな、と思いました。

 

勿論、ホラー映画なので、

人がバンバン死ぬ

 

ので、
それに耐性が無い人は、
流石に、本作を楽しめるとは言えません。

 

しかし、
普通にホラー映画ファンだYO!!という方には、
かなり楽しめる内容なのではないでしょうか。

 

 

思えばこの、
デヴィッド・ゴードン・グリーン監督の「ハロウィン」3部作は、

ホラー映画とは何か?

 

という事について、
ホラー映画ファンが内省した様な作品だったように思います。

その意味で、
『ハロウィン THE END』は、
ホラー映画好きなら、より楽しめる作品であり、
勿論、私も本作を含め、
3部作全て好きな作品となりました。

 

 

 

  • 『ハロウィン THE END』のポイント

恐怖、悪意、暴力と如何に対峙するか

個人と、共同体と、それぞれが内包する「悪」

過去に縛られるか、未来を見るか

 

 

 

以下、内容に触れた感想となっております

 

 

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  • 疾走する冒頭のインパクトと作品テーマの提示

『ハロウィン THE END』は、
デヴィッド・ゴードン・グリーン監督の「ハロウィン」3部作の完結篇。

前作の『ハロウィン KILLS』はハロウィン時期に公開されましたが、
本作の日本公開は、
季節外れの4月公開と相成りました。

 

さて、
そんな本作ですが、
冒頭で、いきなり知らない人(コーリー)が登場して、
ちょっと戸惑います。

時は2019年、
『ハロウィン』『ハロウィン KILLS』は2018年の設定なので、
それから1年が経過していると分かるんですよね。

 

どうやら、資産家っぽい両親が、仕事関係のハロウィンパーティーに出席する為、
急遽、ベビーシッターとしてコーリーを呼び寄せた様子。

母親はコーリーに、
息子(ジェレミー)は、マイケル・マイヤーズの事件以来、
暗闇を怖がるから、と忠告します。

しかし、
そんな殊勝な様子は無く、
「男子がベビーシッターなんてキモいンだよ、クソやろう」とばかりに、
ジェレミーはコーリーに悪態を吐き、
からかい、
階上の部屋に閉じ込めます。

で、
取り乱したコーリーは、
鍵がかかったドアを蹴り破って、
勢い余ってドアにぶつかったジェレミーは落下、
墜落死してしまい、

そこに帰宅し、居合わせた両親が半狂乱になるという、
急転直下の悲劇が起きて、

インパクト大のオープニングパートとなっております。

 

この冒頭のシークエンス、
後から考えると、
本作の設定、テーマが巧みに盛り込んであると気付かされます。

 

先ず、
その後直ぐに、
ローリーの独白により、
マイケルは、2018のハロウィンの夜以降、
姿を消した事が明かされます。

しかし、
ジェレミーの悪態や、
暗闇に閉じ込められたコーリーの取り乱し様から推察されるのは、

姿が消えても、マイケルの恐怖はハドンフィールドの住民の心に巣くっている
という事です。

 

言い換えると、
恐怖や悪意、過去の事件のトラウマというものは、
容易には克服出来ず、

恐怖に対する過剰反応が、
更なる悲劇を呼び込むという負の連鎖を描いているのです。

 

冒頭で描かれこのエピソードは、

本作の
恐怖、悪意、暴力と如何に向き合うのか」という本作のテーマを描く事において、

ローリーの対になる存在として
コーリーを登場させたのだいう事を、
如実に表しているのです。

(思えば名前も似てますよね、この二人)

 

因みに、
冒頭、ジェレミーとコーリーが観ていた映画は、
遊星からの物体X』(1982)。

これは、
『遊星よりの物体X』(1951)に続く、
ジョン・W・キャンベルの短篇SF小説『影が行く』の2度目の映画化作品。

監督はジョン・カーペンター。

本作の音楽も担当したジョン・カーペンターは、
1978年版の、元祖『ハロウィン』の監督、脚本でもあるのです。

 

『遊星からの物体X』は
南極観測隊が未知の生物に遭遇し、
それは隊員の身中に潜り込み、姿を乗っ取る為に、
隊員同士が疑心暗鬼に陥るという、

獅子身中の虫(というかエイリアン)の騒動を描いた作品なのですが、

これは本作における、

個人、及び共同体が内包する、
自身の恐怖に対し、どう対処するのか?

というテーマにも繋がるものであり、

必然、
冒頭のシーンには、
テーマに絡む提示が二重、三重に成されているのだと分かります。

 

  • 恐怖、悪意、暴力と如何に対峙するか

前作『ハロウィン KILLS』では、
狂言回しだったローリー。

そんな彼女は作中で言います。
暴力では、恐怖を倒せない
「暴力は、逆にマイケルに力を与えてしまう」と。

そんなローリーの言の通りに、

恐怖の為に暴徒化し、
マイケルをリンチしようとしたハドンフィールドの住民達は、
悉くマイケルに返り討ちに遭ってしまいます。

 

「暴力では恐怖を倒せない」というのが、
『ハロウィン KILLS』のテーマであったのですが、

これを踏まえてローリーは、
「それでも、殺るしかない」と、
打倒マイケルの決意を表明しますが、

さて、
ではどの様にしてローリーはマイケルと対峙するのか?というのが、
「~KILLS」を受けて「~THE END」で描かれるテーマであり、

私が、
鑑賞前から注目していた点でした。

 

果たして本作において、
ローリーが出した対処法とは、
「日常を生きる」でした。

本作のローリーは、
過去の2作品のシェイプアップされたバトルフォームとは違って、
年相応の、若干、ふっくらとした体型になっています。

そんな彼女は、
「フリーク(変人)」と言われた過去を捨て、
過剰な武器やトラップで鎧われた改造自宅では無く、

ごく普通の家を購入し、
孫娘のアリソンと共に過ごしているのです。

ローリーが日中没頭しているのは、
銃の訓練では無く、
マイケルと自らの、関係性の回顧録。

 

その回顧録の中で、

ローリーは、
「マイケルを自らの中に受け入れる」と描きます。

彼女はその、「マイケル」の部分を、
「it(それ)」と書き直し、更にそれを
「evil(悪)」とリライトします。

自らの感じる恐怖や、悪の部分を、そのままとして受け入れ、
それに、過剰反応しない

ローリーはまるで、
武道の達人や東洋哲学や宗教家の様な、
平常心というか、悟りの境地を目指しているようにも思われます。

 

しかし、
そんなローリーの対となる存在として、
本作にはコーリーが登場しています。

コーリーは、ハロウィンの事故により、
裁判では無罪が認められましたが、
町の住民からは、
「子供殺しのサイコパス」として蔑まれています。

 

息を潜めて生きていても、
結局は過去の悲劇を掘り返されて、
何度も、何度も、サイコ野郎と蔑まれて生きるしかないのか。

そんなにバカにするのなら、
ならばいっその事、お前らが言う様にサイコパスになってやろうじゃないか

まるで『ジョーカー』(2019)のアーサーが、
ジョーカーに堕ちるかの様に、

本作においては、
コーリーが、
マイケル・マイヤーズの模倣犯としてブギーマン=ザ・シェイプに成ろうとします。

 

恐怖や悪を受け入れるという場合において、

それに過剰反応せず、
日常を生きるという選択をしたローリーに対し、

恐怖を与える存在、
悪そのものに自分が成るという選択をしたのが、コーリーです。

 

この対立軸によって、
本作は、
「恐怖、悪意、暴力に如何に対峙すべきか」
というテーマを浮き彫りにしているのです。

 

…とは言え、

三つ子の魂百までというか、
ヤンキー気質の人間は、年を取ってもヤンチャな部分がありますよね

それと同じでローリーも、
悟りの境地とは程遠く、

自分の合わせ鏡の様なコーリーと話をする時のローリーは、
まるで昔に戻ったかの様なキレキレ具合。

コーリーに絡んだ不良学生の車のタイヤにナイフを突き付けたり、
コーリー自身に警告する時には、歴戦の戦士の風貌だし、
また、
コーリーを嵌める時は、圧巻のトラップで格の違いを見せつけていました。

その後のマイケルとの決着戦では、
結局は肉弾戦。

何だかんだ言っても、
サバイバーとしての戦士の気質は変わっていないんですよね。

 

  • 共同体が内包するところの「悪」

恐怖を過去のモノとして日常の一部と成したローリー。

恐怖に魅入られ、
それを与える側に成らんとしたコーリー。

恐怖に晒された個人が、
それにどう対応するのかを『ハロウィン THE END』は描いていますが、

同時に本作は、
恐怖に晒された共同体の姿をも描き出しています。

 

スーパーで買い物をしたローリー。
昔馴染みのフランクと会話が弾み、ご機嫌で店の外に出るが、
笑顔のローリーを発見した女性が、
彼女に因縁を付けます。

「何笑ってんだ手前ェ」
「お前がマイケルを刺激した所為で、たまたま近所に住んでいた私の姉が後遺症を負った」と。

…車椅子に乗っている女性の妹が、ローリーに絡むシーンです。
あー、何か、見たことある?
たしか『ハロウィン』で、マイケルに喉を切られて死んだような?
生きてたんだね!?
良かったね、
とは言いません!!

 

このシーン、
実際の犯人のマイケルでは無く、
同じ被害者であるハズのローリーに恨みを向けています。

本来ならば、マイケルを罵倒したい所ですが、
そのマイケルが姿を消しているとなれば、

向けるべき相手がいない矛先となり、
故に、例え、理不尽であったとしても、
共同体内部の異物を生贄(スケープゴート)を見做し、
攻撃する事で自らの溜飲を下げる事になるのです

 

ローリーはハドンフィールドの住民達に、
「フリーク(変人)」と陰口を叩かれています。

同様に、
ハウスシッター中に子供を死なせたコーリーは、
「サイコパス(変態)」と虚仮にされています。

 

コーリーの場合は偶発的な事故ではありますが、
マイケルと同じく、
ハロウィンの夜に人を殺したという事で、

姿を消したマイケルになぞらえて
子供殺しの変態だと、
町の住民に揶揄されています。

 

また、
マイケルの襲撃から生き残った、
数少ない現代のサバイバーであるアリソンさえも、

町のラジオ曲のDJから、
「変人の孫か」と馬鹿にされています。

 

要は、自分と違う「何か」を、
「マイケル」と絡める事で、
罵倒の対象とする事が、
ハドンフィールドの住民の習い性となってしまっているのです。

 

とある出来事に直面し、
共同体全体が、トラウマを負った時、

本人も意識しないまま、
共通認識、或いは、一種のミームとしての
「悪意の捌け口」を、

共同体は望みます。

 

ハドンフィールドの住民で言えば、
マイケルの惨劇で起きた事件が、

それ以外の事にも波及し、影響を及ぼし、
直接手を下さずとも、無関係でも、
獅子身中の虫の如くに、
町の住民の精神を蝕んでいるのです。

 

日本で言うならば、
「原子力」「軍隊」「マスク」など、
思い浮かべますが、
どうでしょうか。

 

故に、本作では、
そのラストシーンにて、
マイケルの存在そのものをこの世から消すという「儀式」を、
町の住民全員に共有させる事が必要だったのです。

ローリーはそれを、
「癒やし」と呼びます。

 

  • 癒やしの手法

ローリーは、
マイケルの肉体そのものを擂り潰す事で、
町の病巣を除去したと言えるでしょう。

また、
自らは、
回顧録を執筆する事で、
恐怖と対峙する方法を見出しています。

 

そして、
本作における良心とも言える、
保安官のフランクの言動にも注目すべき点があります。

 

町のスーパーでローリーと出会ったフランク。

彼は日常会話の中で、
最近、日本語を勉強していると言います。
そして、
近い将来、日本へ桜を見に行ってみたいと、
未来の希望を語るのです。

 

ローリーの回顧録も、
確かに、恐怖に呑まれず、
平常心として自らのものとする手法ですが、

ある意味、過去に縛られているとも言えます。

一方、
フランクの「桜を見に行きたい」が為の日本語学習は、
未来志向の行動です。

 

トラウマを乗り越えようと奮闘する事自体、
実は、
それに縛られて自縄自縛になっているのかもしれません。

それよりも、
過去は変えられずとも、
未来は如何様にも変えられると、
将来に向かって行動する事の方が、
有意義である、

その提案を、
本作はフランクを通して提示していると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

『ハロウィンTHE END』の原題は、
『HALLOWIN ENDS』。

「ends」は動詞で、「終わる」を意味します。

直訳すると、ハロウィンが終わるでしょうか。
つまり、
=マイケルの終わり と言えます。

また、
「end」に、複数を表す「s」を付けているとも受け取られ、

ローリー、マイケル、
そしてハドンフィールドの住民達にとっての、
ハロウィンの惨劇とトラウマの終わりをも、

意味しているのかもしれません。

 

 

ホラー映画でありながら、
ホラー映画それ自体を問い続けた
デヴィッド・ゴードン・グリーン監督の「ハロウィン」シリーズ、

その3部作の完結篇
『ハロウィン THE END』は、

恐怖や悪意、暴力と如何に向き合うのかという事を描きつつ、
それを見事に克服せしめ、
大団円を迎えたと言えるのではないでしょうか。

いやぁ、
ホラーを哲学するって、面白いものなのですねぇ!!

 

 

 

 

 

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