心を病んだ母を題材にした小説がベストセラーとなり、引く手あまたの人気作家となったデルフィーヌ。とあるサイン会で気分が悪くなるも、その時に出会った「ELLE(彼女)」と名乗るファンと意気投合し、連絡を取り合う仲になるのだが、、、
監督はロマン・ポランスキー。
パリ生まれ、ポーランド育ち。
主な監督作に
『袋小路』(1966)
『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)
『チャイナタウン』(1974)
『戦場のピアニスト』(2002)
『ゴーストライター』(2010)等がある。
原作はデルフィーヌ・ド・ヴィガンの『デルフィーヌの友情』。
出演は、
デルフィーヌ:エマニュエル・セニエ
エル:エヴァ・グリーン
フランソワ:ヴァンサン・ペレーズ 他
『告白小説、その結末』は、ちょっと奇妙な物語。
サイン会で出会った気の合う見知らぬ他人、エル(彼女)。
何度か合ってエルと交流する内に、
デルフィーヌは段々と彼女に惹かれて行きます。
手紙による恐喝や、
SNSでの炎上を相談する内に、
次第にデルフィーヌの私生活にまで乗り込んで行くエル。
いつの間にか同棲する事になり、
やがてはデルフィーヌのマネージャーの様な事までやり始めますが、
その行動は徐々に常軌を逸して行きます、、、
こういう系統の作品では、主人公よりむしろ、
「如何にも怪しい存在」のキャラクターが大事です。
映画『ミザリー』なんかでも、
主役の小説家は顔も名前も忘れましたが、
「ミザリー」(を演じたキャシー・ベイツ)は未だに強烈に覚えています。
本作ではエヴァ・グリーンが演じた「エル」。
キレ芸を挟みながら、独特の妖艶さを漂わせています。
この、怪しい存在がデルフィーヌに「何らかの影響」を及ぼすのを、
ドキドキハラハラ、
まるで、
「志村、後ろ~」と叫ばんばかりに観る、
それが面白いのです。
そういうサスペンスで徐々に盛り上げておいて、
ラストは一見、何となく終わってしまう印象を受けます。
しかし、本作は、
いわゆる、
オチに気付いたら「成程ね!」と言ってしまうタイプの映画。
最後まで観て、
オチに気付いて、
後から、「あぁ、そういう意味だったのね」と
途中の伏線に気付く作品です。
ワンアイデアをコツコツと積み上げて映画にした作品、
そういう構成を楽しみながら、
サスペンスに興じる。
『告白小説、その結末』はそういう映画なのです。
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『告白小説、その結末』のポイント
デルフィーヌとエルの関係
デルフィーヌの悩みとは何か?
オチから振り返る伏線の面白さ
以下、内容に触れた感想となっております。
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原題から見る作品
本作『告白小説、その結末』は、
デルフィーヌ・ド・ヴィガンの小説『デルフィーヌの友情』を映画化した作品です。
映画版の原題は『D’après Une Histoire Vraie』(フランス語)。
グーグル翻訳では「真の歴史から」
英語版の題名は「Based on a true story」
「事実に基づいた話」くらいの意味でしょうか?
さらに言うと、パンフレットによれば、
実際に原作者は、
自身の母親との関係を綴った『リュシル:闇のかなたに』という作品を出しており、
日本版の表紙は自殺した母親の写真が使われているそうです。
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つまり、
デルフィーヌ(原作者も、作中人物も)の経歴は、
フィクションも事実もほぼ同じなのですね。
しかし、
本作自体は何処までが「事実に基づいている」のでしょうか?
この作品は、
実際に作者が体験した事なのでしょうか?
よく言われる事に、
「木を隠すなら森の中」という言葉があります。
つまり、
「嘘を吐くなら、真実を交えよ」ってヤツですね。
本作は、
原作者デルフィーヌ自身の「事実」を組み込んでいるからこそ、
何処までが嘘(フィクション)なのか、判別しにくい、ヤキモキした気持ちが残ります。
これが、本作の面白い所なのですね。
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制作国の小ネタ
原作の雰囲気を、
ほぼ忠実に映画化したという『告白小説、その結末』。
本作はメタ的な目線により作られた作品と言えるのです。
さて、ここで小ネタ。
本作の制作国は、
フランス/ポーランド/ベルギーとなっております。
今回のロシアワールドカップにて、
特に印象に残った国ですね。
まぁ、偶然でしょうが。
以下、オチ部分にも触れた解説となっております
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オチから見る伏線
本作はメタフィフィクショナルな作品、
つまり、
作者自身の実体験を仄めかしつつ、
もう一つのネタ、
観ている内に何とな~く気付く事ですが、
「エル」は実在するのか?
もしくは、どういう存在なのか?
という二つのネタを扱っているのです。
さて、先ずは、後者のネタ、
オチから思い出す「エル」の実在性の疑いについて考えてみます。
箇条書きにしてみましょう。
1:「エル」はデルフィーヌ以外と会話をしない
2:「エル」に出会ったのはデルフィーヌ以外居ない
3:電話番号、パスワード
4:想像上の友達
5:殺鼠剤
6:知人の反応
先ず、「1」と「2」。
よくよく思い出すと、エルはデルフィーヌ以外と会話をしないし、
誰もデルフィーヌに会っていないのです。
ラジオの取材がデルフィーヌ宅に訪れた時、
エルは自分の部屋に引きこもります。
外で会って二人で軽食する時も、
店員はデルフィーヌには愛想良く語りかけますが、
エルには全く視線が行きません。
デルフィーヌが階段を転げ落ちた時も、
階下の住人は語りかけるのは、デルフィーヌが一人の時のみ。
これらはつまり、
エルはデルフィーヌしか見えない、空想の友達なのではないか?と疑わせます。
実際に大胆にも、「エル」が自分の過去を語る時、
「想像上の友達」が居たというセリフがありました。
「4」を、ちゃんと仄めかしているのですね。
また、「3」も怪しいです。
電話番号を教える描写は無かったのに知っていました。
最も、
その時点ではサイコなストーカー疑惑も晴れていませんでしたが。
そして、パソコンのパスワードを教えるのもおかしいです。
また、そのパスワードを一発で覚えるのも、ちょっと不自然。
「5」の殺鼠剤ですが、
ネズミが怖い位で、
足が悪い人間を地下室に送り込みますかね?
怖いなら、上からぶちまけるだけでいいですからね。
因みに、このシーン、
地下室に閉じ込められるのではないか?と、
無駄に観客をハラハラさせるサービスシーンとなっておりました。
また、「6」。
エルが送ったというメールを読んだ知人の反応が自然だった。
つまり、デルフィーヌ自身と疑っていませんでした。
むしろ、
デルフィーヌ自身のメールと疑わなかったからこそ、
知人は心配してコンタクトを取っていた様に見えました。
また、
知人ではありませんが、
高校の司書に詰問されるシーンは、ある意味決定的でした。
高校の講演をすっぽかしたデルフィーヌ。
しかし、彼女の中では、
「エルが代わりに行って、司書にはバレたけれど、講演は上手く行った」というストーリーが成り立っていました。
しかし、
実際に司書自身と偶然出会い、
デルフィーヌは「誰も来なかった」という事実を突き付けられます。
この事実に直面し、
デルフィーヌの採った行動は黙殺。
自分が作ったストーリーを不意に壊されて、
アドリブが効かなかったので、
自分の中で聞かなかった事にしたのです。
また、もう一つ決定的なのが、ラストのシーン。
「この作品はエルが書いた!」と訴えながらも、
結局はその本にて再びサイン会を開いています。
これは、
結局はラストシーンでサイン会している作品は、冒頭のシーンと同じく、
「実際にあった事をネタに書いた小説」である事を仄めかし、
それは、
自分の事を書いた作品
つまり、
「D’après Une Histoire Vraie」
=「Based on a true story」
=「事実に基づいた話」
であるのなら、
「エル」=「自分」であるとラストの本の題名で宣言しているのではないかと思うのです。
さて、
エル=自分(デルフィーヌ)であると過程するならば、
どの部分までが「事実に基づいた話」であるのかという疑問が、
そこから湧き上がって来るのです。
エルが空想の友達というレベルまで?
それとも、実際に起きた事全て?
それとも、エルが語った、幼少時代や家族の話(小説のネタ)を含めて全てなのか?
テーマが作品内でのもう一方のテーマの過程の上に成り立つという、多重構造。
それ故に、
個別のシーンでいろんな「読み」が展開出来る、
そういう楽しみが『告白小説、その結末』にはあるのです。
一見サイコサスペンス風に見えて、
その実、メタ的な作品として作りながら、
そこで描かれたテーマは作家の作品作りの苦悩。
如何に悩んで苦しんで、
作品は作られるのか、
その苦闘を視覚化した、
単純に言いますと、
『告白小説、その結末』はそういう作品と言えます。
これが、ラストのオチから、一気に霧が晴れる様に見通す事が出来る、
そういう構成の妙が光る作品でもあるのです。
ある意味、
邦題の「その結末」という部分が、それを仄めかしているのですね。
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デルフィーヌの友情 (フィクションの楽しみ) [ デルフィーヌ・ド・ヴィガン ]
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